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第10話 名前

私ははっとして顔を上げた。

無意識に玄関の方に目がいく。

見覚えのある紺色のジャンパー姿の青年が、立っていた。

肩幅が広く、背筋がぴんと伸びて、さらに背が高く見える。

「こんにちは、亮介さん」

耕平さんは、奥から出てきた亮介さんに挨拶した。あの、人懐っこい明るい笑顔。

「ああ、耕平くん、こんにちは。早速来てもらえて助かるよ」

亮介さんが応じる。

「離れの給湯器、でしたね」

そう言いながら、慣れた様子で靴を脱いで框を上がる。

耕平さんがふと振り向いて、こちらを見る。

ずっと彼を見つめていた私と、ぱちんと目が合ってしまった。

気まずさに身体が強ばる。

その時、耕平さんの顔にぱっと笑みが浮かんだ。私は、心臓が小さく跳ねるのを感じた。

「こんにちは、立花さん」

人懐っこい笑顔で、耕平さんが声をかけてくる。

私はうろたえて、思わず立ち上がった。

「こ、こんにちは」

自分でも呆れるくらい声が上ずってしまった。

立ち尽くす私に笑顔で会釈すると、耕平さんは亮介さんと連れ立って奥へと入っていった。



私はベンチに腰を下ろすと、思い出ノートを開いた。

談話室の時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。

意識の一部が、建物の奥の気配をとらえようとしている。何も聞こえないのに。

私は敢えてノートのページに注意を向けた。

ありふれた大学ノートは、多くの人の手にとられ、よれよれになって膨らんでいる。

旅人たちの文字はどれも少しずつ癖があって、にじんだインクや、急いで書いた走り書きや、やたら達筆な人もいる。

――夕ご飯がとても美味しかったです。……

――亮介さん、綾子さんありがとう。お世話になりました。また必ず来ます!……

――おかげさまで、心が元気になりました。……

メッセージの一つ一つが、誰かがここで過ごした時間の証なのだ。

私は、どれだけたくさんの人の思いが積み重ねられて、この山荘の空気を作っているのだろうと思った。

そして、そんな場所だからこそ、一人でいても、優しく包み込まれるような穏やかな気持ちになれるのかもしれない、と思った。



「……本当に助かったわ。ありがとう、耕平くん」

厨房の方から綾子さんの声が聞こえて、私は物思いから抜け出した。

「よかったら、お茶飲んでいって。キャロットケーキを焼いたから。ね、さくらさんも一緒にお茶しましょう?」

不意に名前を呼ばれて、私は顔を上げた。

「さくらさんって言うんですね、名前」

耕平さんが、少しだけ驚いたように言ってから、ふっと笑った。

その言い方があまりに自然で、まるで前から知っていたみたいで――胸の奥が妙に騒がしくなった。

「いい名前ですね」

ただそれだけなのに、心臓がうるさい。

穏やかになったり、落ち着かなくてどきどきしたり。

自分の心なのに、扱い方がよく分からない。


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