夢で逢えたら月が綺麗でした
夢の中のアキは、一目で特別な存在だと感じた。
決して派手な美しさはないけれど、僕の目を惹きつけてやまない、不思議な魅力を備えていた。
隣にいるだけで心がほどけて、安心できる。つい、甘えてしまいたくなるような、そんな魅力だ。
「ハル君、今日はよろしくお願いします」
彼女が僕を呼ぶ声がやわらかく響く。その一言だけで僕の胸の奥は温かくなった。
「どこかで……お会いしたことがありましたか?」
「いいえ、ありませんよ。たぶん」
僕が尋ねると、アキは小さく笑って答えた。
その笑顔は、夢の中とは思えないほど鮮やかで、僕の心に焼きついた。
僕の名前はハルト。このアプリでは『ハル』と名乗っている。
ハルとアキ。なかなか面白い偶然だ。
夢で出逢えるアプリ『オネイリア』。
今、人々は夢の中で出逢う時代だ。昔のマッチングアプリに似ている。
けれど、オネイリアはとても安全だ。夢の中では相手の身体を傷つけることはできない。
そして、夢の中では演じたり、取り繕うことが難しい。心の声がそのまま相手に伝わるからだ。だから相手の素の性格がすぐに分かる。
相手に少しでも違和感を覚えたら、目を覚まして抜け出せばいい。
そして、今日夢の中で出逢った相手が、アキだった。
僕とアキの二つの夢は静かに結びつき、白い霧がほどけるように世界の輪郭が浮かび上がってくる。
まず僕たちは他愛のない話――好きなものについて話した。
アキは「本と歌が好き」と言った。
僕はあまり本を読まない。
代わりに配信動画の話をして、好きなボーカロイドについて語った。
すると、アキは小さく首を傾げた。
「私は、人間が歌っている方が好きですね」
「でも、ボーカロイドの方が上手いと思えるときもあるよ。人間には出せない音域も出せるし」
「――人間に出せない音域の声って、本当に歌に必要なんでしょうか?」
真面目に、本質的とも思える返しをするアキに、僕は思わず笑ってしまった。
次に、『なりたいもの』の話になった。
「私は、テレビのアナウンサーとか、ニュースキャスターになりたかったの。ハル君は?」
「僕は……うーん、有名な配信者とかかな。親の世代はテレビをよく見てるけど、僕はほとんど見ないんだ。配信動画の方が面白いし」
「確かに、最近、テレビを見る人は減ってきてますよね」
「そのうち、テレビって完全になくなるかもしれないよ。だからアキも、アナウンサーじゃなくて、自分のチャンネルで配信した方がいいかも」
アキは意外そうに頷いた。
「ありがとう。……参考にしますね」
どこか遠くを見つめるようなその笑顔に、僕は、夢のような儚さを感じた――夢なのだけれど。
アキは、不思議なくらい話しやすい人だった。
自分から多くを語るタイプではないのに、僕の言葉を丁寧に受け止めてくれて、頷きながら、きちんと理解を返してくれる。
新しいゲームの話には少し戸惑っていたけれど、世の中の仕組みや、言葉の正しい意味については驚くほど詳しかった。
それでも、知識をひけらかすようなことは一度もなかった。
アキと話しているだけで、時間がいくらでも過ぎてしまいそうだった。
けれど、せっかくなら、ここでは夢らしいことをしてみたい。
夢の中ではそう願えば空も自由に飛べる。
そう思った瞬間、足元がふわりと浮いた。重力が消え、大地の縛りから解放される。
僕はアキの手を取り、そのまま大空へ舞い上がった。
虹色の雲をすり抜け、思うままに空を飛ぶ。
アキは僕の手を握ったまま、輝くような笑顔で、眼下の景色を眺めていた。
広い大空の中で、僕とアキとの距離が確かなものに感じた。
次に現れたのは、僕が創造した空想の遊園地。
僕たちはその中のカートへ飛び込み、風を切って走り出した。
ジェットコースターのように起伏のある道を滑るように進みながら、鮮やかな色と眩しい光が混ざり合う世界を駆け抜ける。
アキは目を見開き、髪を風になびかせて笑った。
「こんな乗り物、初めてです」
そして次の瞬間、景色がやわらかく溶け変わる。
一面の草原。
そこは、アキが創り出した世界だった。穏やかな風が吹き、草花が波のように揺れている。
アキはそっとしゃがみ込み、サルビアの赤い花の先端を摘んで僕に差し出した。
「吸うと、甘いよ」
彼女は花を唇に当て、静かに息を吸い込む。
「生えている植物を……口に入れるの?」
「大丈夫。夢だから、汚くなんてないよ」
そこで僕も真似してみる。
花の蜜の甘い味が舌の上にひろがった。そのわずかな甘さが心に沁みていくようだった。
「ミツバチの気持ちになるね」
そのあと、僕たちはカフェに入った。
そこは、二人の空想が混ざり合ってできた、不思議な場所だった。
磨き上げられた木のカウンターは深い飴色に光り、真鍮のランプが柔らかな橙の灯を落としている。
装飾の多い椅子やテーブル、壁には古い時計と額縁。漆喰の壁に寄せ木を張り詰めた床。まるで明治時代の洋館をそのまま夢に溶かしたような空間だった。
けれど、コーヒーを淹れるための設備は最新式。カウンターには数人のバリスタが並び、丁寧な手つきでコーヒーを淹れている。
ショーケースには、クラシックなケーキと最新のスイーツが並び、懐かしさと新しさがうまく混ざり合っていた。
僕はカフェラテとマカロンを注文し、アキは紅茶とカステラを選んだ。
「カステラって、ケーキのクリームが乗ってないやつだよね? ケーキの方が良くない?」
「クリームが乗っているのは、私には少し豪華すぎるのよね。それに、カステラの方がお茶には合う気がするの」
アキは湯気の立つカップを両手で包み、唇をそっと寄せた。
彼女と過ごす時間は、穏やかで心地よかった。
僕は彼女とずっと一緒にいたいと思う。だけど、いずれ朝は来てしまう。
店を出ると、夢の夜空には大きな月が浮かんでいた。青白い光を放ち、巨大な生き物の卵のようにも見える月。
薄く漂う雲は命の霊気のように月にまとわりついている。
そこから注がれる朧げな光は、世界を淡く染め上げていた。
今言葉にしなければ、きっと後悔する。
僕は思いきって口を開いた。
「月が綺麗ですね」
この言葉はこのアプリでは『あなたが好きです』の隠語だ。
「……そうですねぇ」
アキは少し間を置いて、僕を見た。
少し物足りなさそうな表情をしていただろう僕を見て、静かに言葉を重ねた。
「ずっと一緒に月を見ていましたね」
その言葉の意味を、僕が解釈しきれないでいると、アキは悲しそうにこう続けた。
「あと、どれくらい月は出ているでしょうか?」
「ここでは時計が見られないけど……朝は、もうすぐかな」
僕が答えると、アキは目を伏せ、微かに震える声で言った。
「私は、幸せです。あなたに出逢えて、本当に良かった」
その言葉とともに、涙が彼女の頬を伝った。
その涙は、悲しみというより、深い安堵から来ているようにも思えた。
僕は彼女の反応に戸惑いながらも、こう返した。
「また会えるかな?」
すると、アキは涙を拭いもせず、僕を見つめた。
「ごめんなさい。あなたを……騙すようなことをしてしまいました」
「え?」
僕が戸惑うと、彼女は息を吸い込み、秘密を打ち明けるように切り出した。
「私は、アキ……昭子です」
その瞬間、僕の頭の中で全てが繋がった。
あの声、あの目。
アキは、病室で昏々と眠り続ける祖母の面影と、まったく同じだった。
月の光がやさしく揺れ、彼女の姿が少しずつ薄れていく。
もう朝だ。
僕は別れる前にこの言葉を伝えた。
「じゃあ、明日も……またここで逢いましょう」




