一日の計は朝食にあり①
長編探偵小説「呪い谷に降る雪は赤い」に「おまけ」として掲載していた短編作品を分離・独立させた。
六月二十八日、午前九時三十四分、群馬県安中市消防署秋葉分署に緊急通報が入った。
――愚妻が台所で泡を吹いて倒れている。
という通報内容だった。
通報者は梅村省生、無職、六十二歳。朝、目を覚ましてみると、妻の美咲が台所で倒れていた。慌てて救急車を呼んだと証言した。
通報を受けて救急隊員が駆けつけると、台所の床の上に美咲が倒れていた。既に心肺停止の状態だった。直ぐに病院に搬送されたが、死亡が確認された。
美咲は五十八歳。肥満傾向にあり、血圧が若干、高めだったが、至って健康だった。急死するような異常は見られなかった。
救急隊員が不審を抱いたのは、発見時の美咲の様子だった。口元から泡を吹き、白目を剥いて、鬼気迫る表情で倒れていた。まるで、夜中に幽霊に出会ったかのような表情だ。泡に混じって、口元から赤い舌先がのぞいていた。
しかも、喉元から、はだけた胸元に掛けて、無数の掻きむしった跡が赤い線になって残っていた。もがき苦しんだ様子が伺えた。
苦しさから逃れようとしたのか。まるで自分の首を絞めかのように、両手は熊手のように指を曲げた状態で、首元で固まっていた。
(まるで、毒でも飲まされたような――)と救急隊員が思ったことが、事件の発覚に繋がった。
事件性が感じられる――と報告が上がり、安中警察署の捜査員、新井英建と金子典和の二人が事情を聞きに梅村家を尋ねた。
梅村家は赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられる妙義山の山際、関東平野との境目にある。小ぶりな平屋の民家で、狭い庭にいっぱいに物置が建てられている。周囲がぐるりと植木塀で囲まれており、入り口の部分だけがブロック塀になっている。ブロック塀には鉄格子の門が備え付けられてあった。
新井は四十代、細身で、農作業に精を出す農夫のような穏やかな顔立ちをしている。少しでもいかつく見せたいのか、頭を角刈りにしている。金子は三十代後半、白壁に粘土を投げつけたかのような、でこぼことした顔をしている。
梅村家を訪ねると、梅村省生が出てきた。四角い顔に、胡麻塩頭、細い目でやや肥満体型。役場の事務員と言った風貌だ。
「奥さんが亡くなった時の様子をお聞かせ下さい」と新井が言うと、「あれが死んだ時の様子を聞きたいのですか――⁉」と眉をひそめた。
その表情からは、妻の死を疑われて、心外だと腹を立てているのか、意外だと驚いているのか、よく分からなかった。
――あれは勝手に死んでいたのです。
と省生は言う。
「勝手に?勝手にとは、どういう意味ですか?」
「私が朝、起きてみると、あれが死んでいました。私の朝食も作らずに、死んでいました。お陰で、私が朝食を作るはめになったのです」省生は真顔でそう言った。
「奥さんは朝食を作っていなかった――そうおっしゃるのですね?」
「そうです。あれは毎朝、七時に起きて、朝食を作るのです。私は七時半に起きて、それを食べる。あの日、七時半に起きて行くと、ご飯は炊きあがっていましたが、味噌汁がまだだった。あいつが台所に転がっていたので邪魔でした。私が味噌汁を温めたのです。冷蔵庫にあった納豆と、鱈の切り身を焼いて食べました」
「朝食を食べたのですか?」
「いけませんか?」
「いけないも何も、奥さん、台所で倒れていたのでしょう?救急車を呼ぶのが先じゃないですか?」
「そうですか?一年の計は元旦にあり、一日の計は朝食にあり――ですよ。私はね。昔、教師をやっていたことがあるのです。朝食を抜いてくる子供たちが多くてね。朝食を抜くと、脳のエネルギーが欠乏して、集中力や記憶力が低下してしまいます。成績の良い子はね。ちゃんと朝食を取って来ている」
「いえ、まあ。しかし、では、朝食を食べてから救急車を呼んだ訳ですか?」
「そうです」省生は笑顔で頷いた。
(なんだ、こいつ――!)口には出せなかったが、新井は爬虫類でも見るかのように省生の顔を眺めた。心が通じ合わない――そういう不気味な感覚を省生に感じた。
「それで、朝食を済ませた後、どうしたのです?」
「どうって、救急車を呼びました。当たり前じゃないですか」
「奥さん、持病をお持ちでしたか?薬を飲んでいたりしませんでしたか?」
「あれは高血圧でね。病院で薬をもらって飲んでいました。何でも、よく食うやつだったから肥満して血圧が高くなったのです」
「他には?心臓の病気をお持ちだったとかありませんか?」
「心臓に毛が生えたやつって言うんでしょうね。いや、あれの場合、心臓に生えているのは雑草だったと思うな。はは。病気と言えば、あいつの頭の悪さは、もう病気でしたね」
身も蓋もない。妻に対する愛情が、感じられなかった。何を聞いても、美咲の悪口しか出て来ない。
新井たちは美咲が服用していた高血圧の薬を押収してから、梅村家を後にした。
「新井さん。変なやつでしたね」門を出たところで、金子が言った。
黙って話を聞いていたが、そのことを言いたくて仕方なかったようだ。
「確かに変わったやつだったが、どう見た?やつが奥さんを殺したと思うか?」
「そりゃあ・・・朝起きたら台所で奥さんが倒れていたというのに、飯を食っていたようなやつですよ。怪しいに決まっています」
「そうか?朝飯を食ったからと言って、犯人とは限らないだろう」
「まあ、それはそうですけど・・・新井さんは、どう見ました?」
「俺?俺が気になったのは、台所に奥さんが倒れていたのを見て、驚いたという言葉が出て来なかった点だ。普通、びっくりするだろう?驚かなかったということは、奥さんが倒れていたことが意外ではなかったからじゃないかと思った」
「ははあ~なるほど。やっぱり怪しいですね」
「怪しいな。これは事件性ありと報告して、遺体を司法解剖に回して徹底的に調べてもらった方が良い」
新井は一度だけ梅村邸を振り返ってから、門前に停めてあった警察車両に乗り込んだ。