Down!
私は、全てを知っていながら口を噤みます。
もうここからは悪くなるだけです。
美しい思い出だけを忘れずに持っていくのは、決して悪いことではありません。
〇
1:名無しさん ID:1wrzQUMUam
【朗報】ティーン●イジャーの貴重な指名手配
≫≫≫画像
15:名無しさん ID:uC07oLVC0Q
高校生?自分の子供がこんなんなったら泣くわ
17:名無しさん ID:tZJje9rcnn
高校生一人すら捕まえられない無能警察定期
20:名無しさん ID:veg2Kdt5qB
ガキが一人で逃げられるかよもうとっくに海に沈んでるかヤから始まる自営業の人たちと仲良しだったんだろ
25:名無しさん ID:Imx5rZ4p8d
どうせ捕まらないなら死んでてほしいな
てか死んでくれ
26:名無しさん ID:gnaV7taDis
俺たちの安心のためにR.I.P
32:名無しさん ID:N62JzUXbAs
誰かに匿われてんだろ
35:名無しさん ID:UYS47gbGtH
人殺せるんだから自分も殺せるだろ
責任取れよ人生敗北者乙
〇
私は、全てを知っていながら口を噤みます。
もう、ここからは悪くなるだけです。
「美しい思い出だけを忘れずに、あの世に持っていくことは、」
これから訪れる苦しさを味わわなくて済むのなら。
「今ここで死ぬことは、決して、悪いことではありません。」
〇
教壇に向かっていくつかの段差を有するような広さの音楽室には、二面に渡って広い窓が外界を映している。
清々しく晴れ渡った空が、胃液の味を憶えるほど不快で仕方なかった。
私は人を殺しました。
私は人を殺していません。
しかし、この世界で語られる私というのは、あくまでも大衆の集合意識の中に存在する一個体のことであって、俺という自我を確かに加味したものではない。そう考えれば、俺は、この清く無罪の手で以て、人を殺したということになるのだろう。
その通りだ。ぐうの音も出ない。
人を殺すような奴は死んだ方がいい。いつか、俺の手が真っ赤に染まり、その血は、俺をあんなにも愛してくれた両親のものかもしれないのだから。そういう殺意の芽は、害意の芽は摘んでおくべきだ。
「ふざけるな……」
爪をひっかけた窓を力の限り引いた。けれど、鍵がかかっていて開かなかった。思わず殴りつけた空に、たんぱく質に似た亀裂が入る。
防護フィルムは、軽快な粉砕音すら聞かせてくれない。
大人しく鍵を開けて、ガラガラと窓を開けた。広い窓を断頭台にしないため、太い手すりが胸の高さに横一文字に引かれている。俺の飛び込み台への導線を邪魔する一線。俺の人生のゴールテープのようだった。でも、俺は正しく人生を終わらせるわけではないから、それを切ることはできない。
ステンレスのゴールテープを切るのに、人の肉は柔らかすぎる。
だから、窓枠を掴んで、手すりを超える。そのゴールテープに腰を据え、片手を突き、窓枠に握り込んだ手だけが、俺の体を生に結び付けている。なんてことはないと思っていた三階の景色は、きっと俺に、満足のいく加速度を提供してくれる。
お前たちは、自分と同じ制服を着たぐちゃぐちゃの血肉を見て、四半期くらいは肉を喰えなくなる。お前たちは、未来ある子供の象徴である制服を纏った死骸を知って、夕方のニュース番組から夕食までの時間を憂鬱に過ごすことになる。お前たちは、自分が打った些細な一文字が、確かに一人の人間に作用し、その果てに死体を生み出したという事実に、微かな吐き気を覚える。
これは復讐になる。ここから身を乗り出して、死骸に加速していく俺の体は、ほんの一瞬の走馬灯で、どす黒い爽快感を得て復讐を果たす。そして、世界に復讐を果たす。
「俺は、お前たちに勝つ」
喉が勝手に締まっていて、ぼんやりとした聴覚がようやく自分の哄笑を認識する。手を離した。体が傾く。
死に前傾に、緩やかな加速が、その一息の間に逆行した。窓枠に頭を打ち付けて、背中から放り出される感覚に、教室の床の硬さが追い打ちをかけた。
視界の全てに、俺が飛び出すことのできなかった世界が広がっている。だだっ広く晴れた空が、澄み渡っている。
「っ死んじゃだめだ……自殺は、人生に敗けたやつがすること、だ……っ」
色を持たない声色。その透き通るような聞き心地に、俺は何度も名前を呼ばれることを夢見た。
そうやって過呼吸気味に息を切らしても、その声は綺麗で、そして、その姿もまた綺麗だった。
そうか、俺を止めるのは、あんただったわけか。
「央神くんは……私が匿う。」
ずっと、変な奴だと思ってたよ。でもそれが、信じられないほど好きだったよ。
繰芽刻子。
「なんで、……助けたんだよ。俺のこと」
繰芽は、さっきまでの息も絶え絶えな様子は早々に引っ込めてしまって、いつも通りの飄々とした様子で答えた。
「央神くんさ、あのとき。アタシに連絡先聞いたよね。」
車が通るたびにフードを深く被りなおす俺を見て、繰芽は「心配しすぎ」と笑った。見慣れた街中が、俺は息苦しくて仕方がなかった。
「アタシ、死のうとしてたんだーあのとき。」
「あのとき……」
「央神くんがぁ~、めっ、ちゃ緊張してまーすみたいな顔で、アタシに連絡先聞いてきたとき」
んふふ、と揶揄うみたいに、綺麗な形の瞳が笑みを象る。
繰芽に、連絡先を聞いたとき。
普通の放課後だった気がする。珍しく、教室にはほかに誰も残っていなくて、教室の鍵を返しに行くのは億劫だろうと思って、唯一残っていた繰芽が出ていくのを待っていた。でも、なかなか出て行かないから、勇気を出して、連絡先を聞いた。
───話したこと、あんまりないよね?ま、いいけど。
そっけなかった割に、簡単に交換してくれたのを覚えている。
「……死にたかったのか。」
「うん。すっごく、ね。」
なんで?
躊躇したと思う。それは、貴方の込み入った事情に、私は足を踏み入れて、必要に駆られればその事態の収拾に乗り出すことになりますが、支障はないでしょうか?という文脈を、丁寧に折りたたんだ反問だったからだ。
けれど、そういった遠慮を、どうにも俺は、もう持てそうになかった。
「なんで、死にたかったの。」
「親だよ。父親。アタシの両親、離婚してるから。もう父親とは会わないって思ってたんだけど。家に乗り込んできた。
お母さんに相手にされなくなったら、次はアタシだったみたい。お前が家にいて、家事とかやれ、って。でも、アタシ、お母さんをあんな風に捨てた奴のこと、心の底から嫌いだったから、死んでやろうって思ったの。それで、はやくお母さんに会いたかった。」
繰芽が平然と言ったことは、多分平然と聞いていい話じゃなかった。でも、繰芽は平静を装っている、という感じではなかったから、俺も、わざわざ動揺を装う必要はないんじゃないかと思った。言い切った最後の言葉を放った繰芽は、幸せそうな目をしていた。
「でも、君が。邪魔してきたからさ。」
「……連絡先聞いただけだろ」
「充分だと思うけど?」
俺が繰芽の思考回路にどんな水を差してしまったのかはわからないけれど、それは彼女の希死念慮を、もう再起不可能なほどにショートさせてしまって、だから繰芽は俺に、あんなことを言った。
───っ死んじゃだめだ……自殺は、人生に敗けたやつがすること、だ……っ
立体駐車場のスロープは天敵だろうスポーツカーが、喧しい音を立てて走ってきた。飛び込んだら、いろいろと楽になるだろうと思った。繰芽の優しい微笑みが、俺を見ていた。
「これ、ウルフカットっての?」
「ん、そーだよ。」
繰芽の首筋をくすぐっていたウェーブがかった髪に触れた。多分やらない方がよかったのだろうけど、そこで愛想を尽かしてくれるのなら、俺は復讐を遂げられる。好都合だった。でも、そうじゃなかったなら、それはそれで嬉しかったから、俺は嬉しかったんだと思う。
「女の子の髪、そんな簡単に触ったらだめ。だから。」
「ごめん」
「アタシにしかしないなら、許してあげる。」
「んだよ、それ。」
立ち止まって、俺の手に自分の手を重ねて、こそばゆそうに目を細める繰芽が、また、その優しい瞳で俺を見ている。
「行こうぜ、はやく。」
「ん。だね。」
そういえば、繰芽のその髪型は、多分校則違反だった。繰芽が不良っぽく見えないのは、その整った顔と落ち着きのある雰囲気が、多少の校則の逸脱くらいは凌駕してしまうからだろうと思った。
「夜ごはん、なに食べたい?」
「え、……あ、おう……夜ごはんね」
繰芽がなんでもないみたいにした質問に、俺は久しぶりに人間みたいな感情を抱いたと思う。
もう、最期の晩餐だと決めたものは胃に収めていたから、これ以上俺の喉元を食物が通ることはないと思っていた。胃液に浸されたコンビニのホットスナックを想った。
「……いや、なんでもいいや。……別に、残り物とか貰えれば。俺、養われることになるわけだし。」
「だめ。一緒に暮らすんだよ?その意味、わかってる?」
俺は、一緒に暮らす、という繰芽の共通認識を一切共有できていなかったから、つまりその意味をわかっていなかった、ということになる。
「……死ぬつもりなんだ。んなこと、考えるリソースない。」
「だめ。そういう、ちょっと先の未来のこと、考えないと。そーやってさ、ずっと先の未来のこと、考えられるようになるんだから。」
ちょっと先の未来のこと。警察に見つかって、会ったこともないような人間の死体に、握ったこともないような凶器の場所を自供して、許しを乞う。
ずっと先の未来のこと。顔も名前も、検索エンジンの常連になって、ゆるやかに人生を締め付けられて行って、未来という幅を持った概念が、やがて自死に収束する。
折角繰芽にかけてもらった、あんなにも夢に見た状況で、俺は、全く楽観的な未来を想像できなかった。
「いいよ。三秒後に食べたいものとかで。」
「……お前の、手料理が食べたい。」
繰芽は、ちょっとだけ驚いたように見えた。そもそもあまり表情が変わらないやつだから、もしかしたら俺の回答に内心で鳥肌を立てていたかもしれない。すぐにいつも通りの少し微笑んだように見える表情に戻った繰芽は、頬に手を当てて明確に微笑んだ。
「嬉しいこと……言ってくれるじゃん。」
三秒後に食べたいもの、といった繰芽の言葉に返信したような俺の言葉は、その実、俺がこれまで募らせていた願望のいくつかのうちの一つだったから、繰芽が考えていた未来という概念には、あまり抵触していなかったはずだけれど。不思議と、口に出したら、それが本当に楽しみになった。
好きな娘の手料理が食べられる、なんて。そんな普遍的な幸せを、俺はこんな状況になってやっと自覚するのか、と自嘲した。
「ハンバーグにしよっか?」
「得意料理?」
「んーん。男の子ってそーゆーの好きかと思って。」
「……別に男が全員肉食ってわけじゃない。」
「もっと肉食になったら~……?」
「考えとく。」
「で、ハンバーグは好き?」
「めっちゃ好き。」
「好きじゃん」
〇
繰芽の家は、風通しの良さそうなアパートだった。築年数が大分経っていたから、団地とか集合住宅という趣の方が強かった。
無菌室のような部屋を想像していたから、雑貨屋のように情報量の多い部屋に、少しだけ驚いた。
「あんまりまじまじと見られると、ちょっと恥ずかしいな……」
毛先をくるくると遊ばせながら、後ろ手に扉を閉める繰芽。制服なのに、その仕草がとても大人に見えた。
この年齢で一人暮らしをしているということを知ってしまったのも、原因だったかもしれない。
「ほら、あがって?」
「おぅ……お邪魔します。」
「ただいまね。」
何気なく訂正した繰芽は、すぐにキッチンに行って、冷蔵庫の中を漁り始めた。
「お茶でも出そっか?ジャスミンティー飲める?」
「あれ嫌い。」
「じゃー今日から好きになって。」
繰芽と同じ飲み物を共有できるのなら、あの草っぽい風味も我慢できる気がした。声には出さなかった。
どこに座っていいかわからなかったから、取り敢えず座布団に座っておいた。編み物みたいなデザインと赤い刺繍で、クッションと形容した方が名前を呑み込みやすかった。
「あ、君の荷物とか全然ないよね。取り行こっか?」
「……いや……いいよ。」
あの家には、両親がいる。
多分、俺はこの世界に復讐を果たすまで、精神や自我でなく、もっと根源的な魂があの場所にある。なら、それくらいは、あの場所に置いておきたかった。たまに思い出したように抱きしめてくる母親と、土曜日に俺を引っ張り出して銭湯に連れていく父親の顔が過る。
そうか、俺は、もうあの場所すら、失ってしまったのか。
真っ暗なテレビに反射する自分の姿を見て、涙が込み上げてきた。声をあげて泣いたのは、憶えているので小学生の頃だった。威勢のいい泣き方なんて忘れていて、滲んでくる鬱陶しい水分を、袖に吸わせることくらいしかできなかった。
「泣きなよ。……膝、貸してあげる。」
いつの間にか横にいた繰芽が、俺の体を横たえた。丁度いい位置にあった繰芽のふとももに、俺はおずおずと頭を預けた。
着替えていたのか、繰芽はショートパンツを履いていて、つまるところ、俺は繰芽の生足を枕にしていた。
「どう?楽になった?」
「……柔っこくて感動してる。」
「うわ、へんたい。」
優しい力で弾いた指が、俺のこめかみを叩いた。
「嬉しい?」
「……うん。割と。」
「ふふっ……そっか。」
「んだよ。」
「んー?ちゃんと肉付き気にしててよかったかなー?って。」
「ちょっとくらい太っても、繰芽は可愛いだろ。」
俺は純粋に本心でそう言ったのだけれど、繰芽は「はぁ~……?」と納得いかなそうだった。女子にはいろいろとあるんだろう。最期の晩餐に食品添加物まみれの揚げ物を選んだ俺にはわからなかった。
「お前ってさ。」
「おまえ。」
「あ、ごめん。違う方がいい……?」
「んーん。アタシにはいっつも、繰芽さん、って呼んでたじゃん。」
「ごめん。こっちが本性。」
「ん。男の子と話してるときは、そんな感じだもんね。」
俺が繰芽以外と話してるところまで見られていたことが、なんだか今になって恥ずかしかった。
だから、最初に聞こうとしていたことが、簡単に聞けるような気がした。
「お前って、……俺のこと好きなの。」
自意識過剰だろうか。繰芽は、純粋に優しさで俺を匿ってくれているのかもしれないし、俺は壮大な勘違いをしていて、いまこの瞬間にも、その優しさに愛想を尽かされるのかもしれない。けれど、そう結論付けるには、繰芽は優しすぎるような気がした。
「うん。結構、……好きだよ。」
「結構って……なんだよ。」
「あ、拗ねた?拗ねたなー、欲しがりだなぁ央神くんは。」
「拗ねてねぇ……」
本当に繰芽に好きと言ってもらえるのは嬉しかったけれど、もし言ってもらえるのなら、一番好き、と言ってほしかったというのは本当のところだった。強欲な自分が、途端に恥ずかしくなる。
「自分は全然そんなこと言ってくれないのに、アタシにだけ一番って言って欲しいの?」
「ぁ……まぁ……そうか。」
俺は、繰芽のことを好きだと、臆面もなく言えた。これまでも言ってきたし、今も、その少し揶揄うような意地悪な目に、ずっと思っている。でも、それは繰芽以外に対して発揮できることで、なぜだか俺は、ここで繰芽に愛の言葉を囁けるとは思わなかった。
それは、ただ恥ずかしいだけ、というわけでは、多分なかった。
「ふふっ……別にいいって。央神くんがアタシのこと大好きなのは、まぁ……わかっちゃうし?」
「……ぅ」
「でも……いつかはさ。」
繰芽は、泣きそうになるくらい優しい手で、俺に微かな摩擦を提供した。それは、俺の髪を少しばかり撫で、乱して、邪魔だった前髪のいくらかを視程外に追いやった。
「ちゃんと、一番好き。って、言ってね。」
いつか。いつか。
ずっとお前は、未来の話ばかりしているんだな。
俺は、頭の中で、刑事ドラマで見た犯人隠避という罪について、ずっと考えていた。ずっと、考えていた。
◯
それから俺は繰芽の手料理に行き着いて、別になんでもないハンバーグだったはずなのにやけに嬉しくて、繰芽に隠れて写真を撮った。目敏くそれを見つけた繰芽に揶揄われたから、風呂上がりの繰芽の写真も撮ってやった。「もっと可愛いときに撮って……!」と珍しく焦ったようだった繰芽に、これが可愛くないならなんなんだ、と思ったが、繰芽がそういうならと思って、もっと可愛い写真が撮れるまではロック画面じゃなくホーム画面にしておくことにした。
次の日、繰芽は平然と学校に出かけて行って、昼休みには学校を抜け出して帰ってきた。勝手に使ったら悪いかとも思ったが、繰芽は弁当も持たずに出かけて行ったから、冷蔵庫のもので適当な食材を炒めて米を炊いておいた。お粗末なそれに、繰芽は過剰に喜んで、俺に器を持たせて写真を撮った。証拠が残るからやめろ、と言ったけれど、嬉しそうだったから別にいいかと思った。
繰芽は、もう学校に戻るのが面倒くさくなったと言って、午後はそのまま家に居た。地面にお粗末に埋もれていた固定電話に電話がかかってきたが、ずっと無視していた。
そんな日常を、ずっと繰り返した。
俺は、毎日制服を着て、復讐の機会をうかがっていた。でも、繰芽の部屋は二階だったから飛び降りても死ねないだろうし、俺の死に方で繰芽に迷惑をかけたくはなかったから、握った包丁も野菜とか肉を切る時以外には使わなかった。
学校から帰ってきて、俺が制服を着ているのを見た繰芽は、少しだけ悲しそうな顔をするから、繰芽が帰ってくる時間には貸してもらったスウェットに着替えるようになった。
繰芽がいない時間は暇だったから、適当なテレビを見たり、繰芽が置いていった小説を読んだりした。それを読みつくしたら、繰芽は恥ずかしそうに自分の部屋の本棚を紹介してくれて、俺はそこに入っていた有名な少女漫画を読んだりした。
自分の分と、繰芽の下着以外の洗濯は自分でやって、今までどれだけ生活というものに無頓着だったのかを思い知った。繰芽の下着を洗わなかったのは、洗濯の仕方がわからなかったからだった。「興奮しちゃうもんね……?」といつもみたいに揶揄ってきた繰芽が可愛かったから、別に反論しなかった。間違っていたわけでもなかった。
ずっと部屋の中にいる生活は窮屈で、退屈だったけれど、繰芽は俺が気に入った小説に似たようなものを買ってきてくれたり、買い物中に電話をかけてくれたりした。スマホはずっと機内モードだったから、固定電話で話した。
「今日はなに食べたい?」
「………ごめん。」
「ふふっ……いいよ。カレーにしよっか。」
「うん。」
自死に辿り着かない未来について想像することはまだできなくて、それのせいで繰芽に答えを返せないこともよくあった。
繰芽は俺が謝るたび、嬉しそうに笑った。
目が覚めて、デジタル時計を見る。
繰芽用のベッドはあったけれど、もちろん繰芽の生活領域をこれ以上侵犯するわけにはいかなかったから、俺はその下の地面にマットレスを敷いて寝ていた。
繰芽の枕元のナイトテーブルに置いてあるデジタル時計。確かめたのは、時間じゃなくて曜日だった。
土日祝も平日もなにも変わらなくなってしまった俺の感覚を、そのデジタル表示の漢字一字だけが世界に繋ぎ止めている。
時刻も見ると、すでに午前九時になっていた。繰芽は寝起きが結構悪いので、俺が起きる頃にまだ寝ていたら起こすようにしているが、今日は土曜日だったからわざわざ声はかけなかった。
ただ、寝顔が見たかったのでベッドは覗きにいく。
「あー、現行犯。」
「起きてたんかよ……」
ぱっちりと目があって、意地悪な声音に心臓が跳ねた。
「えっちなこと考えてる気配がして起きちゃったー」
「考えてねえ。」
「じゃあ、何しにきたの?」
スマホを充電ケーブルから引き抜いて、十八歳というカテゴライズでは薄着に分類されるだろう格好のまま、繰芽は俺の返答を待っていた。
「寝顔見ようと思って。」
「ん〜……いや、普通に変態じゃん」
誤魔化せなかったか。
おいおい、と俺の服を引っ張ってくる繰芽の手を引き剥がす。
「でも、ふふ……ちょっと嬉しいかも。可愛かった?」
「おぅ……。」
「そ。ならいーや。」
何を許されたのかわからなかったから、もうそれ以上掘り返さなかった。
部屋を区切る仕切り戸のレール。すこし出っ張った縁にハンガーでぶら下げていた制服を羽織る。わざわざネクタイを締めたりはしないけれど、アクセント程度に校章があしらわれているジャケットは、絶好の復讐の材料になる。
俺がそれを羽織ったのを、繰芽が小さく制する。
「央神くん……洗濯でもしよっか、それ。」
耳鳴りみたいに、パトカーのサイレンが聞こえた。思わず窓の外を眺める。耳を澄ませても、何も聞こえない。
「いや……いいよ。」
「毎日着るなら、たまにはいいじゃん。ほら、貸しなよ。」
ショートパンツから覗く美脚を、やけに滑らかに飛び上がらせて、繰芽はその反動で立ち上がった。その狭いベッドの上で翻る彼女が、ひどく身軽そうで羨ましかった。俺は、こんなにも、窮屈なのに。
「クリーニング屋さんに持ってってくるからさ。」
俺の懐で、ジャケットのポケットを漁る繰芽。その顔が近い。長い睫毛の奥に、切長の、綺麗な瞳が埋め込まれている。
「触んな……勝手にするから。」
ポケットから手を引き抜いて、俺は意識的に繰芽を黙らせた。一緒に、行動にも制限をかけたはずだ。
もし俺が、警察に追い詰められたり、懸賞金目当ての一般人に追いかけ回されたりしたとき、俺の死の拡散力を増幅させるのはこの制服なんだ。
それを、クリーニング屋に預けられる、?わけないだろ。
「俺が復讐するためにはこれがいるんだよ……!」
握ったままだった繰芽の手首。力を込めすぎたから、そこには赤く、痕が残っていた。
「俺が落っこちて、墜落して、死ぬためには、……これが。」
繰芽は黙り込んで、それに緞帳をかける前髪の奥は見えなかった。俯いた繰芽の顔を上げさせてやることは、多分、俺にはできないんだろうと思った。
「離して。」
小さく呟いた繰芽におとなしく従った。だらりと両腕を垂らした繰芽は、ポケットにスマホを突っ込んで出て行こうとした。
ほぼ下着みたいな露出度で外に出ようとするから、「待て」と制して、上着を羽織らせた。振り払われるかと思ったけど、繰芽はおとなしくそれを羽織ったまま玄関を出て行った。
顔が見えないと、あんなに不安なものなのか。
多分俺は、声をかけてくれた繰芽に、ずっと俯いたまま応じていただろうな。物理的な意味ではなく、もっと精神的な意味で。
頭の中ではもう、帰ってきた繰芽にどう謝ろうか考えている。このまま、繰芽が交番のお巡りさんをたくさん連れて帰ってくるかもしれないのに、呑気なものだった。
それなのに、この制服の袖から腕を引き抜くといったような、方法のわかりきった決断だけは、俺の思考の議題にすらあがらない。
死ぬなら。
「できるだけ……いろんな人に見られてるところがいいなぁ。」
◯
「ただいま〜」
繰芽は、ものの十分くらいで帰ってきた。俺は、せっかく繰芽がずっと家にいたかもしれないのに、俺が意固地なせいで一日中会えないことを想像して勝手に自己嫌悪に浸っていた。
彼女のただいまは、全く予期しないタイミングで訪れた。出迎える暇もなく、リビングに座ったままの俺に、繰芽はアイスとお菓子をいくつか抱えて立っていた。そんなに買うんなら袋貰えばいいのに、と思った。
「ただいま。」
「ぁ、、ぉう。おかえり。」
「んふっ、なんでそんなキョドってんの。」
まんまと何も言えなくなった俺に大した興味はなかったのか、繰芽はアイスを冷凍庫に仕舞い始めた。
怒っていたように見えたのは、勘違いだったのだろうか。繰芽なら、どっちでもあり得る気がした。どちらでも、というのは、実は今この瞬間も怒り狂っていて、次の瞬間には俺をバイオレンスに罵り始めるとか、である。
「あのさ……くる、め」
「はいっ」
俺は、どうせしどろもどろになっていただろう謝罪の句をキャンセルされて、目の前で両手を広げる繰芽に疑問符を返すしかなかった。
「はい」
「いや、何を求めてんだよ」
「ハグでしょ。」
なんで?と聞いて、また繰芽をコンビニに送り出すようなことは避けたかった。おとなしく指示に従って、おっかなびっくりその首に腕を回す。
少しだけ汗ばんだ首筋が艶やかに見えて、細く見えても柔らかい体に体温が上がる。
「リラックスできる……?」
「……なんで、いきなり……?」
「膝枕したとき、嬉しそうだったから。そういうの必要だと思わない?ケアっていうかさ。」
「あ、あぁ、なるほど。」
どちらかというと、リラックスという感じではないかもしれない。むしろ緊張で疲れる。
繰芽の含意が読めたところで、そっと腕を離した。繰芽も、互いの胸の間に柔らかな隙間ができるくらいに離れて、俺の目をじっと見つめてきた。
まるで唇を交わしたあとのような妙な空気感に、思わず目を逸らした。
「リラックスできた?」
「あ、あぁ。ありがとう。安心した。」
「んー?なんかカマトトぶった感想だ。」
「柔らかくてよかったです。」
「ふふっ……そ。へんたいっ」
ぼすっ、と俺の肩を小突いた繰芽は満足したみたいに、日常というものに戻っていった。まだ、そっち側に戻れていない俺を置き去りにするように、ベッドに寝転がってスマホを見始める。
「繰芽、もっかい……してもいい……?」
「ぇ……うーん。ま、いいけど。ほい。」
軽やかに立ち上がって、さっきと同じように両手を開く。次は、目的が抱擁じゃなくて拘束だった。
互いに交わし合った頭。互いの表情は、少し身じろぎすれば、至近距離に見えるはずだった。首を捻った俺の頬が繰芽の耳朶を掠めて、「ぇ」と声を漏らした繰芽に構わずに、その顔を見た。至近距離、その控えめな涙袋に、少しだけ煌めいた雫。
「ちょっ……見、んな……!」
じたばたと暴れて、手足が長い繰芽に、俺はあっという間にバランスを崩された。繰芽のベッドに倒れ込んで、それでも、彼女の肩を抱いた手は離さなかった。
俺たちの体重に浮き上がった薄手のシーツが、遅れて繰芽の横顔に落ちた。
その滴が落ちるのを、俺は確かに認めていた。
「ぅ……ぐすっ……うぅ……もぉ……さいあくっ……泣いてるとこ、見られるとか……っ」
繰芽は俺を振り払うよりも、自分の涙を拭う方に膂力を使うことにしたらしく、その力は、俺を引き剥がそうとした力よりよほど華奢だった。
俺は、あの繰芽が泣いているということに現実感を得られなかった。まるで妖精でも見てしまったかのような神秘的な夢見心地の中で、ただ、泣き止んでほしいと思った。
「ごめん、俺が……わがまま言ったから。」
「……わかってないじゃん。アタシがわざわざ出ていって泣いてた理由……わかってないじゃん。」
俺がわがままなせいじゃないんだろうか。それとも、少しだけ、強い言葉で言ってしまったからだろうか。
本気でわからなくて、無理矢理拘束しているのは俺なのに、俺の方が言葉に窮した。
「なんでそんな難しく考えるの。アタシ、そんなわかりにくいかな。結構わかりやすいと思うんですけど。」
繰芽を泣かせてしまった理由。
「君に、死んでほしくないからじゃん。
どうしたらいいの。一緒に死んで、とも言ってくれないし、ただアタシから絶対に届かない場所に行きたがってるだけなのを、アタシは、……引き留められるような魅力的なもの、持ってないし。」
ちょっとは考えてみたら?と涙に濡れた瞳で少し怒ってみせる繰芽。それは、俺と繰芽が初めて、互いに顔をあげて、本当の意味で、顔を突き合わせて話した瞬間なのだと思う。
俺がある場所から落下して、墜落して、そこで得られる重力加速度。その果てにあるセンセーショナルな死を、俺は求めている。重力加速度のその先のために、延命している。
着地した瞬間に、それが失敗して、接地する。肉体は、あらん限りの方角に折れ曲がり、陥没骨折と解放骨折に体をぎざぎざにさせて、液体として流れ出したヘモグロビンの臓器が俺という人間をからからに枯らしていく。
「これ以上は、悪くなるだけだ。本質的に、落ちようとしてる俺は、ちょっとだけお前たちより早回ししてるだけだよ。
人生が現状よりよくなることなんて、絶対にない。」
「それは、……ちょっとわかるかも。」
繰芽は、泣き止んでくれて、そのうえ、柔らかに微笑んでくれる。
「人生って落下だよね。落ちてくしかないの。」
平均八十〜百年の重力加速度。あんまりにも、長すぎるだろう。お前はそう思わないか?
「でも、いつか着地するよ。」
繰芽がそう言って、形容し難い微笑みをするから、俺はお前を大事に思わざるを得なくなる。
無理矢理作ったわけでも、弾けるようでもない。でも、心の底から笑っているんだろうなとわかってしまうくらいには、明るい微笑み。でもそれは、注視していなければわからないほどに些細。
その日常のような笑顔のせいで、俺はまた、お前に対する希死念慮の手札を削られている。
繰芽に突然「はい」と雑誌を手渡されて、もちろん俺はその含意に辿り着かなかった。
しかも、いつも飄々としている繰芽が少しだけ気まずそうだったものだから、俺は少し不思議に思いながら繰芽の手に握られていた雑誌を受け取るほかなかった。
「ぇごめん、なに?」
「いやほらさ。今日、クラスの子が話してるの、聞いちゃったんだけど。」
繰芽は今日も学校に行って帰ってきたところだった。
「男の子って……その、……発散しないと、つらい、って……。」
全く、繰芽に聞こえるような場所でそんなことを話していた連中には是非とも俺が挨拶をしてやりたいが、本気で殺されると思われるかもしれないからやめた方が賢明だろう。
それに、俺はもう少し前からそういう昂ぶりとは無縁だった。生きるつもりがない人間には、その本能の代謝も現れない。
「その……ごめんね?今まで。」
なにか保護者のような擁護っぷりを見せてくるのも違和感だが、それよりも奇妙なのは手渡されたのが青年漫画雑誌なところだ。
確かに、表紙とそのあとのカラーページ数枚はきわどい格好をしたアイドルの写真が続くが、それ以降は普通の青年漫画だ。そういう欲望の処理を目的とした漫画はあまりないだろう。
受け取った雑誌のページをパラパラと捲って聞いてみる。
「なんでこのチョイスだったんだ。漫画雑誌って。」
「え……!なんでっ、漫画だったら、なんで表紙に女の子載ってるの……!?」
それは……と考えたが、俺もわからなかった。浅く推測すれば読者層に対するサービスというのがそれっぽいが、俺は確かな答えを持ち合わせていなかった。
「アタシ……てっきりそういう雑誌だと思って……結構恥ずかしかったのに……」
本当に恥ずかしかったのだろう、珍しく赤くなった頬。もしこれが本当に成人向け雑誌だったのなら、制服を着た繰芽には売らなかっただろうから、むしろよかったというべきか。店員からは、雑誌で最新話を追う熱心な漫画読者という印象しか持たれなかっただろうし。
繰芽はため息をついて、わざわざ買ってきた雑誌を俺から強奪してテーブルに放り投げた。
「な~んだ……コンビニ寄り損だったなぁ」
「いや、せっかく買ってきてもらったから読むけどさ。」
生憎俺は、最悪途中からでも漫画を楽しめるタイプだった。その雑誌を、本来の目的で楽しめるだろう。
「んでも、そしたら央神くんの性欲処理はどうするの?」
「……そんなこと口走るな。」
ベッドに滑り込んだ繰芽が、生娘にあるまじき語彙をしていることは一旦棚上げにしておく。
「心配してもらわなくても、別に俺は大丈夫だよ。」
「えー……また、無理してない?」
柔らかな感情を宿した優しい瞳だったのに、俺はその繰芽の双眸を真っ向から見つめることができなかった。その声が、信じられないほど優しかったから、見つめ返すことができなかった。
繰芽は、器用に靴下を足の指だけで脱いで、脱衣所の方にこれまた足だけで放り投げた。スカートの下に履いていたショートパンツが見える。
俺のその視線をどう捉えたのか、繰芽はまた意地悪な瞳をして「ふ~~~ん?」と可愛らしい鳴き声を上げた。断じて、俺の視線は彼女の上品さを憂いたものだった、というのを表明しておきたい。
「君のそれ、さ。」
なんだか嫌な予感がしたが、俺の言葉は間に合わない。
「アタシで、……シとく?」
無視することで抗議としておく。つい数十日ぶりに感じた生殖本能の片鱗に、俺は本当に繰芽のことが好きだったんだと思い知らされる。あれだけ自死だとか自殺だとかについてうだうだと考えていたくせに。繰芽とそういう関係になるのは、自死から最もかけ離れた選択だと思った。きっと。
「そういうの、好きじゃない。」
「えーそっか。」
繰芽はなんでもないみたいにスマホを眺めはじめて、寝返りを打ったから俺から彼女の顔は見えなかった。
もう少しだけなにかを話したかったけれど、家主のパーソナルスペースを常に侵害している居候は、我儘など言える筋合いはない。
繰芽が置きっぱなしにしていたビニール袋を覗き込む。雑誌をそこから取り出したから、コンビニで買ってきたなにかだろう。普段なら気にはならなかったけれど、繰芽は相当なことがない限り袋を貰わない。そんな、ほんの少しの違和感だった。
かさ、と触れたビニールが鳴らした音。
「ぁ、ちょ、それ見ないで……!」
「え」
袋の中には、コンドームが入っていた。
「いや、ちょ……違うっていうか……アタシ、その……わかる?」
「あー、そう、そうだよな、わかるわかる。……いや、ごめん、なんもわかんねぇ。」
「なんで……!わかってよ……!アタシのこと好きなんでしょ!」
そんなところで俺の好意を揶揄されても、と思わなくはなかったが、繰芽の恋愛観というのはそういうものなのだろう。
息と声を荒げて、初めて見た困り眉の繰芽が本当に可愛い顔をしている。
「……もしかしてこっちが本命だった……?」
こくり、と頷いた繰芽。まさか、あんなに冗談めかして本命の提案をしてきたのだろうか。あれは、断られるのが前提の、繰芽のいつものからかいの一種だと思ったのだが。
なら、前座みたいに差し出してきた雑誌が、全く処理に適していないものだったのも、計画のうちだったのだろうか。
うぁぁ……、とまた新しい鳴き声を出して、繰芽はじたばたともがいて、ブランケットとか毛布とかを巻き込みながら、その殻に隠れてしまった。サラサラの髪の毛だけが、隙間から流れている。
繰芽はるまき……、と思ったのは、口に出さないことにした。
珍しく気を遣って立ち上がった俺を、何かが掴んでいる。はるまきから伸びた繰芽の腕だった。
ゆさゆさと揺らしても、中々話してくれるつもりはないようだった。
「繰芽さーん。これなにー?」
「ん”ー……」
くぐもった唸り声が返事をくれる。結局、その親指と人差し指の力についての答えがなんだったのかはわからずじまいだった。
ふと、ひょっこりと顔を出した繰芽が、殻から出てくる。スタイリッシュなイメージの繰芽が、のそのそ動いているのが珍しくて思わず笑みがこぼれた。
「性欲……ないの……?」
「……ぁ、ー……うん。」
なんだか素直に肯定するのに力を要した。男というもののプライドみたいなものを、俺も持ち合わせていたんだな、と自覚する。
この年で機能不全とは、あまり好ましくない。
「そっか。じゃー仕方ないや。アタシの魅力に関係ないならどーしよーもないし。」
仕方ない、とか言われると、そもそもの目的は俺のことを心配していたというところに立ち返るわけで、それが解消された、もとい心配の必要がなかったことが発覚したのだから、どうしようもない、というのは違うような気がする。
まるで、俺との行為が目的だったような言い方は、いつもの繰芽の言葉足らずの結果、そう聞こえただけなんだと思う。
「じゃ、これは見えるとこにおいとこ。」
取り上げたコンドームを、ナイトテーブルに置く繰芽。
「仕舞っておけよ。」
「突然迫られたときにないと、アタシ困っちゃう。この年で妊娠したら、大変でしょ?この先。」
まず前提として否定しなければならないところがいくつかあったが、形容しがたい感情に胸がいっぱいになってしまったので、発声には辿り着かなかった。
「……そういうのを自分でつけるくらいの理性はある。心外だ。」
たとえその赤い箱を持ち出してくるのに多少の時間がかかったとしても、その間くらい理性を保つ堪え性はある。すると、繰芽は「いやいや」と半笑いで言った。
「アタシの理性があぶないかも、だからさ。」
その言葉を聞いた瞬間の俺の脳波を解析すれば、俺は前言を撤回することになるかもしれない。
つまるところ、俺の理性は斯くも容易く揺らいでしまう。特に、この繰芽とかいう女の前では。
その日は、繰芽の対応がいつもより素っ気なかった。
もちろん、俺を蔑ろにするような言動をしたとかではなくて、いつもなら彼女からいろいろと話題を提供してくれるのに、それが極端に少なかったというだけなのだ。少しだけ訝しんだのは、それと同じくらい、彼女の色を見せない表情が、ほんの少し赤らんでいたから、というのもあった。
「体調、悪いのか。」
「……ぜんぜーん。今日も普通に学校行ったし。」
健常者を装っているやつの虚勢とは、こんなにもわかりやすいものだったか。
俺は、まだ制服だった繰芽に無理矢理毛布をかぶらせて、問答無用で額に手を当てた。
「まだ言い訳するか?」
「……いじわる。ほっといてよ。」
そっぽを向いた繰芽の視線の先には、窓の奥に見える集合住宅の景色がある。
俺のことをこんなにもほっといてくれないのに、俺にほっといてくれだなんて無理がある。
そうして目を瞑った繰芽は、やはり無理をしていて、すぐに寝息を立て始めた。規則正しく酸素を交換する呼吸は、人間が意識的に管理していないからか、とても深い。
少しだけ声色が溶けだしたような、そんな、色を伴った空気の音。深く肺腑を満たして、また、あるいは口腔から抜かれる。
彼女が確かに生きている証として、その音は、まるで足跡のように、この空間に繰芽刻子という少女の体温を伝播させる。俺はその寝息の音に、形容しがたい愛らしさを感じて、少しばかり、その寝顔を眺めていた。
いつの間にか繋がれていた手を、彼女が起きない程度に解いて、俺は冷蔵庫を開けた。
繰芽は結構ちゃんと自炊している方がだから、ある程度の食材はあった。けれど、それが病人に飲み込みやすいかというと首をひねらざるをえなかった。
窓の外は、少なくとも街頭なしでは心もとないほどには暗かった。
玄関を開けて、思う。
あぁ。
「いつぶりに、出たっけ。」
〇
近くのスーパーはまだ開いていた。繰芽がたまに飲んでいるのを見ていた市販薬を買って、大して自炊もしたことがない癖に一丁前に食材を吟味した。繰芽が好きなアイスも把握していたから、バニラ系のものをいくつか買った。
店内は明るくて、全てのものに反射した光が、真っ直ぐに俺の方に飛んできて、少しだけうざったかった。
久しぶりの外に解放感を感じるようなことはなくて、不織布の変哲のないマスクをつけた俺は、むしろ繰芽の部屋にいるよりもよほど窮屈だった。俺の方に向けられた視線が、誰かの話している声が、警察官立寄所のステッカーが、全て俺という人間に疑心暗鬼を植え付けるために設置されたセットの一部であるように感じられた。
自動ドアを抜けて、足早に薄闇に繰り出した。家までは五分くらいだった。
「こんばんは。ちょっといいですか?高校生かな?」
それなのに、なんで。
「警察の者なんですが。」
なにを話したのか、ほとんど覚えていなかった。
多分、高校生じゃないとか、家で病人が待ってるとか、身分証は家にある、とかそんなことを矢継ぎ早に話して、買い物袋の中を見せた気がする。
もう、一生この鼓動は早鐘を打ち続けるんじゃないかと思うほど、心臓が痛かった。家についたときには、呼吸は少しだけ落ち着いていて、それでも、指先が震えていた。
もし、捕まったら。
糾弾される。繰芽と一緒にいることができなくなる。なにより、繰芽に匿ってもらっていたことが露呈すれば、繰芽も、俺のせいで犯罪者になってしまう。たった一人で懸命に生きている彼女の人生に、俺が、酷く、裂傷を与える。
半開きになった扉。ほんの少しの間隙から光が漏れ出していて、その奥から、小さく呼ぶ声が聞こえる。
「ぉ、おがみ、くん……?」
家を出る前より苦しそうな繰芽を見て、すぐに薬を取り出した。冷えピタも貼ってあげようと思って袋の中を漁っていると、繰芽の手が俺の袖を掴む。熱い。
「冷えピタ貼るから……ちょっと待って。」
「いい……先に、手繋いで……?」
「駄目。こっちが先。」
人に冷えピタを貼るなんて初めてだったから、少しだけ苦戦する。
繰芽の手が、さっきよりも苛烈に俺の腕を掴んで、ぶんぶんと振り回す。
「っあーもう、わかったから。」
無言の抵抗に諦めて、つんとした表情の繰芽の手を握った。
しっとりとした指が、俺の指の間を這って、互いの手を絡ませる。女の子と男では、こんなにも手の構造が違うものなのか、と思った。繰芽の手は、全てのバランスが奇跡的に構成されていて、思わずじっと見つめてしまった。桃色の爪が、綺麗な形をしている。
「満足した?」
ぶんぶんと首を横に振る繰芽。そこまでするなら喋ればいいのに、と少しだけ思った。
ゆっくりと、気付かれないように手の力を緩めてみる。「離すな。」とでもいうように、強く握り返される。
「いろいろ終わったら、なんでもいうこと聞くから。ちょっと離してくれよ、頼むからさ。」
繰芽は、ちらりとこちらを睥睨して、前髪に隠れて見えなかったから、綺麗な片目だけが俺を睨みつけることになった。
子供みたいな少女に、指先で頬を突いてみる。ふに、と少しだけ唇が歪んで、繋がれていた手から力が抜けていく。
「体、起こせるか?」
繰芽は、大人しく俺に従ってくれて、枕に片腕を突いて上体を起こした。制服のままだった。寝心地は悪かっただろう。
突いた腕があまりに華奢で、折れてしまいそうだったから、少しだけ体を寄せて、空いている腕を抱かせた。最初はそれに力を込めた繰芽は、すぐにその手を離して、反動にバランスを崩す。ご、という硬い音を立てて、その小さな頭が壁を殴打した。
「ちょ……大丈夫か……?」
「あんま……ないで……」
「なんて?」
「あんま……近づかないで……お風呂、入ってない……汗臭いから。」
繰芽にも、そういう常人の羞恥心があったのだな、と我ながら失礼なことを考えた。
「わかった。じゃあ、体、起こして。」
「ん。」
繰芽は、危なげなく体を起こして、前髪を上げて目を瞑った。視界の全てを、俺に託してくれるのは、もう繰芽だけだと思った。
冷えピタを貼って、少しだけ巻き込んだ髪の毛のいくらかを丁寧に剥がした。
せっかく体を起こしてくれたので、ブレザーを脱がせる。ポケットの中で、じゃらじゃらと音がした。
「何がこんな入ってんだ。」
「……みないでぇ~……」
「見ないけど。」
それ以上の服については脱がすかどうか悩んだ。
「服、どうしたい?」
「全部……脱ぐ。」
「一人で着替えられるか……?」
「なんで?央神くんが、……着替えさせてくれるんでしょ?」
ブレザーをハンガーにかけるために立ち上がって、服薬用にコップの水を用意する。俺がベッドの傍に戻ったときには、もう繰芽の機嫌は悪くなっていて、弱々しいパンチが胸に入った。
「なんで無視すんの。」
「……学生としてふさわしくない発言があったから。」
「別に、着替えさせてほしい、としか言ってないよ。」
繰芽は、久しぶりにいつもみたいな笑みを見せた。ほんのりと上気した頬に、よくない想像が立ち上がる。
「なに?そーぞーしたの……?」
まるで事後みたいな顔をしているが、実態はただの病人だった。錠剤とコップを握らせて、早く飲め、と視線だけで促した。
繰芽は少しだけ泣きそうな顔をした後、俺に手を差し出そうとしたけれど、両手が塞がっていたからなんともできずに終着した。
「……口移しじゃないと飲まない。」
唯一自由だった口だけが、そんな世迷い事を吐いて、今日の繰芽さんは過激だな、といたく冷静に考えた。
「着替え、なにがあればいい……?」
「っ!シャツと、ショーパン。体も拭いて……」
「うん。」
俺が立ち上がると、繰芽は大人しく薬を飲んだ。脱衣所から適当なTシャツとショートパンツを持ってくる。寝転がっていてもよかったのに、繰芽は健気に体を起こしていて、汗ばんだ首筋を壁について待っていた。
繰芽からコップを取り上げて、キッチンに放置したあと、風呂桶に四十度くらいのお湯を注いで、ハンドタオルを浸した。
ベッドに戻ると、繰芽はそこに腰かけていて、その視線が俺を見つけると、へにゃりと和らいだ。
「はい」
繰芽は、両手を広げて何かしらの承認の意を見せた。わからなかったので、繰芽がつけていたネクタイを解いた。
俺は見当違いなことをしていたわけではなかったらしく、繰芽は両手を落とす。ベッドに腰掛けた繰芽と、地面に跪いた俺とでは、視線の高さがだいぶ違った。
ネクタイを解き終えて、そこで一呼吸を置いて仕舞えば、そこからの行動がとても億劫になると思った。呼吸の流れを寸断しないよう、努めて無感情にブラウスのボタンを外していく。
「ふふ。恥ずかしいね。」
「……そうですね。」
ちらりと頭上の繰芽の顔を窺ってやる。本当に恥ずかしそうだった。笑っていた。
ブラウスを脱がせると、繰芽はそのままインナーをぽいと脱ぎ捨てて、正真正銘下着だけの裸身を、恥ずかしげもなく見せつけてきた。
黒の下着が大人っぽくて、繰芽によく似合っていた。
首筋を流れた汗の滴が、鎖骨の微かな傾斜を躍動して、湿った肌の軌跡に小さな光を灯していった。艶やかな肌を滑った汗が、繰芽の胸の谷間に流れていって、滴の形を潰された。
「見すぎ」
「ぁ……すまん。」
断じてやましい気持ちで見たわけではなく、その肉体美が完成されすぎていて、目が離せなくなっただけなんだ───と説明しても結局は変態的だったので、謝るに留めた。
「私のこと、好き?」
タオルを絞って、繰芽の首筋を拭いた。頬をぐりぐりと拭いたら、返事は?と言わんばかりにその目に視線を絡めとられる。
「……あぁ。そうだな。」
「うぇー……いけず」
俺が答えられないとわかっていただろうに、わざとらしく落胆してみせる。
片腕を上げさせて、腋からあばらにタオルを流す。もう一方も同じようにした。視界の中に肌色ばかりだったのと、繰芽の腋が思っていた以上にエロかったせいで、務めて腕が鈍足になる。
「見たいなら正直に言ったら?」
「はいはいうるさいうるさい。」
「はぁ〜?なにその態度ー。ガン見してるくせに。」
名残惜しかったが、腕の中の繰芽がうるさかったので下ろさせる。そのままお腹も拭こうとしたが、どういう基準なのかそれは嫌だったらしく「そこは……自分でやる」とそっぽを向きながらタオルを奪われる。
手持ち無沙汰だったので、さっきから俺の腿の上に置いたままだった繰芽の足から、靴下を脱がせる。
もしも繰芽スタンダードが足への接触も禁じていたら、繰芽の蹴りはそれはそれは綺麗に俺の顎に入っただろう。でも、そこに関しては別にいいらしく、片方ずつ脱がせにかかる。靴下と繰芽の肌の間に滑り込ませた人差し指が、やけに背徳的な感触を提供してくるので、考えないようにしてずり下ろす。もう片方も同じようにして、眩しい生足が露わになった。
繰芽に返されたタオルを再び浸して、膝から下を拭いてやる。どうやったらこんなにきめ細かい肌になるんだろうか。変な性的嗜好が悪戯に拡張されていく気がする。
「ん」
「えー」
タオルを返した。膝から上は自分でやれ、と言ったつもりだった。繰芽は、ちゃんとそれを理解して、その上で、えー、とガキっぽい反抗を発した。
まだスカートは履いたままだった。
「触っちゃうだろ、ダメなとこを。」
「触っちゃえば……?」
「触んねえ。」
「じゃあギリギリまでやって?声、我慢するから」
「それ触ってるじゃん。」
意を決して、スカートの中にタオルを突っ込んだ。断じてタオルを。手ではない。
絶対に侵入してはいけない場所、絶対領域の最奥に、汗を拭くためとはいえ自分の手が伸びている現実に、変な動悸がしていた。
スカートの中は少しだけ温かくて、片足を拭くごとに意図せず触れてしまうもう片方のふとももの感触が、随分前にしてくれた膝枕を思い出させる。
柔らかくて、人間の歯でも突き立ててしまえば、すぐにでも血が噴き出してしまいそう。脆くて儚いその柔らかさが、繰芽という女の子の主成分なのだと思った。
「もう気持ち悪いとこない?」
「うん。ありがと。」
オーバーサイズのシャツを頭からすぽんと被り、器用さに感心していると、頭と両腕をあるべき袖から出した繰芽が、次の服を要求する。ショートパンツを渡せば、スカートの下から履けばいいものを、わざわざスカートを脱ごうと腰を浮かした。
すぐに顔を逸らすと、俺の膝の上にスカートが投げ捨てられる。繰芽の行動の早さを示す指標に基づいて、彼女がショートパンツを履き終えただろうタイミングで振り返る。
目論見通り、繰芽はちゃんとお着替えを終えていた。
「どこに仕舞っとく?」
「ぇ?使わなくていい?」
スカートは繰芽の顔面にぶん投げておいた。
深い寝息が、完全な夜闇の中を満たしている。俺は、繰芽に繋がれたままの手のせいで、繰芽のベッドに寄りかかりながら眠らないといけなかった。
「じゃあ、一緒に寝たら?」と揶揄う言葉にも、俺は適当なその場しのぎをしたはずだ。
さっさと瞳を閉じてしまえばいいのに、俺はずっと、繰芽の横顔を見ていた。呼吸とともにゆっくりと上下する、その儚い肢体。
ふと、その目がゆっくりと開いた。
「せーふく。着ていかなかったんだね。」
そのとき初めて気づいた。
外に出て、捕まるかもしれない危険を犯すのなら、俺は絶対に、あの制服を着ていかなければならなかった。
捕まって、この生活を失うのなら。この、緩やかな下降を阻害されるのなら、俺は、急激に墜落しなければならない。
そしてその墜落の方法は、センセーショナルな墜落死でなくてはならない。正装は制服だ。あれが死装束だ。それなのに、俺はそんなことも忘れて、普段着のまま棺桶の淵に足をかけていたのか。
「なにが言いたいんだよ。」
「んー?……嬉しかった、ってだけ……」
そう言うと、繰芽はまた寝息を立て始めた。
そうだな。多分俺は、思いつかなかったんだ。
苦しそうな繰芽をどうにかしたいという考えに、自分の末路までを含めることができなかった。
死にたいんなら。
復讐したいのなら。
「さっさと、飛んじまえばいいのにな。」
繰芽の手に、一際強く握られる。俺は、君と一緒に着地できるか?
どが、と鞄を投げつける音がして、俺は思わず玄関を振り返った。時刻は十三時、暦に照らせば水曜日。平日だった。
「央神く〜ん……!」
なにをするでもなくテレビを見ていた俺の膝に飛び込んでくる。そんなに濁点ばっかりの声で呼ばれても嬉しくない。
「学校は?」
「ダルかったからバックれてきた。」
悪びれもせず頬を膨らませて、繰芽はむふー、と怒りを排熱した。
「お前……まぁいいか。」
女子高生に養ってもらってぐうたらしている俺が、その宿主にまともさを説くなんて、まったく馬鹿らしかったからやめた。
繰芽を宥めようとして、半分くらいは俺が撫でたかったから、繰芽の頭を撫でる。今日も拒絶はない。
「なににそんな怒ってんの。」
「福地がさぁ」
「委員長?」
「そぉ。あいつ、クッソ性格悪い。」
真面目で優秀な雰囲気を出しつつ、どんな男子と話すときも気後れしない社交性。むしろ悪い噂を聞かないから、どこか不気味な女だった。
「んだよ……学費免除がそんなに悪いことかよ。」
繰芽がいつも見せる蠱惑的な仕草。あれも、対俺用のパッチで、プレーンな繰芽は口調が荒かった。
大方、繰芽の家庭環境に起因する社会保障についてを、委員長が妬みの対象にしたのだろう。まだ自分で納税もしていないのに、大した当事者意識である。
繰芽の上を失礼して、机に置いていた麦茶を飲む。俺が極端にジャスミンティーを飲まないので、わざわざ繰芽が用意してくれたものだった。
俺が机に戻そうとしたコップを、下から伸びてきた手がひったくり、顔だけあげた繰芽がそれを飲み干した。
「なんか復讐してやらないと、気が済まないよ。央神くん。」
知らないが……とわざわざ口にはしなかったし、俺はどうにも繰芽のことが好きすぎるようだから、できれば俺もそうしたいのが本心だった。
しかし、所詮学生と指名手配犯では、やれることも幼稚になる。繰芽のこの小さくて綺麗で柔らかい拳が、委員長の頬に少しばかりめり込むのが関の山だろう。
「どんな復讐してやろうか。」
「んー、そうだねぇ」
くるりとデスロールさながらに回転した繰芽は、俺の膝を背にして考える繰芽になった。Now Loading...の唸る声が可愛い。
「幸せになっちゃおっかな。」
「ほぉ」
繰芽は結構ロマンチストで、ときに抽象的だ。言葉足らずでもあるし、突拍子もない。俺はもう、彼女の言葉を一度で理解しようとは思っていないし、その読解を彼女とやるのも、少し楽しみなのだ。
「福地に言われたんだよね。なんかだらだら言ってたけど、意訳:死ね、みたいなことさ。」
俺は、穏やかに相槌を打った。
「だから、一番そこから遠いことしてやる。」
「幸せになること?」
「ていうか、死から一番遠いこと。」
死から、一番遠いこと。俺はそれに、なにかある答えを持っていたような気がした。持っていたというよりは、その解法を知っていただけだったかもしれない。
「死ぬってさ、全部自己満足だ。あと自己責任。あぁ、央神くんのそれをなんとかって言ってるわけじゃなくて、アタシの意見なんだけどね?」
俺が息も絶え絶えで考え続けている希死念慮が、繰芽にかかればそれで片付けられる。
「自分が自分だけのものじゃないと、人って死ねない。だから、死から一番遠いのは、アタシの身体と心が、アタシだけのものじゃなくなること。」
「窮屈だし、怖くないか。」
「アタシは、多分幸せだと思うけどなぁ。」
自己満足、自己責任。
俺の自殺を止めたとき、繰芽が言っていたことを思い出した。
自殺は、人生に敗けたやつがすること。
自分の人生に、あるいは自分自身に負けた奴が、ある重力加速度を夢見て、その果て、コンクリートに激突する。
「なんだと思う?アタシがアタシじゃなくなっちゃうって。」
繰芽は、またいつもの瞳で俺を見た。俺は問われて、もちろん答えを返せない。
「ケッコン、でしょ」
繰芽は、泣きそうになるくらい眩しい目をしていて、俺は陽光の暖かな原っぱに引き摺り出されて、昼寝を強要されるような感覚に陥った。
繰芽は言語野から直接言葉を生み出すから、自分が言った言葉が、どこか退廃的な含みを持っていることに気づいていない。だからこそ、彼女の純粋な羨望が、こんなにも熱い。
「責任の分担だもんな、結婚って。」
「んふ。でしょ……しかも、結婚できたら多分、アタシ幸せになるから。」
繰芽に手を引かれて、彼女の頭を撫でた。指が目に入らないように、殊更優しく撫でた。
「だから、アタシにとって最高の復讐は、幸せになること。」
繰芽が結婚したら。
俺のよく知る繰芽の笑顔。本当は結構無邪気なところがあって、甘えん坊なときは力が苛烈で、変なところで恥ずかしがったりする。
俺しか知らない繰芽の表情。いつもの淡白な表層からは、わからないだろうこの子の核心。
もし、俺が独り占めしているそれを、繰芽が、他の誰かに分け与えてしまったら。泣きそうになるような繰芽の瞳が、彼女の掌が、その全部に含まれる熱が、俺以外の場所に費やされたら。
真っ白のウェディングドレスを着て、満面の笑みを見せる繰芽の姿。その隣の奴は、一体誰なんだよ。
「幸せに、なれるといいな。」
少しだけ、突き放すような言い方をした。俺もよっぽど、幼稚だった。
繰芽は俺の指を弄りながら言う。
「君が幸せにするんだぞー。」
むー、と唇を尖らせる。
俺は思わず笑ってしまった。繰芽は、最初は不思議そうにそれを見ていたけれど、途中からは訳もわからないだろうに一緒に笑った。
訳もわからずに同調するな。そんなぼやきさえも、俺の笑い声の狭間には入り込めなかった。
「もし、結婚できたら……どんな感じだろうな、俺たち。」
俺は、あるはずのない未来を想像する。
その反動として、今ここにある現実を自覚させられる。戸籍は真っ黒に汚れ切っていて、アカウントだって擦り切れている。俺は聞かれた名前を名乗れずに、つまりは名前を失っている。
何者でもない宙ぶらりんで、何者、つまりは俺になった途端、そこには俺のものではない断罪がある。
現実逃避は上手くなった。俺はまだ、繰芽との結婚生活に頬を緩めている。
「っ……ぉ、央神くん……さ。」
繰芽の声が、いじらしく聞こえる。
きゅっと身を縮めて、気まずいくらいに見つめてくるはずの目線が、くたくたになって折れている。少し赤くなった頬と、上擦った声。赤く、熟れた声。
「んーん……なんでも、ない……」
立ち上がってキッチンに逃げてしまった繰芽に、懐いていた猫が突然立ち去ってしまう切なさを覚える。
今日は、もうずっと繰芽が家にいてくれる。それだけで、俺は随分と嬉しくて。その一端はもちろん、繰芽が、想像上の相手に俺を選んでくれたからだった。
◯
繰芽は、「幸せな結婚生活のために!」と意気込んでキッチンに立った。俺はダイニングから拍手をする係に任命され、さすがの手際と多少の雑さで料理する繰芽に惜しみなく拍手を送る。
「焼肉のタレ入れたら絶対美味しくない?」
「めっちゃありかも。」
「鶏ガラは?」
「それもありだな。」
「じゃ肉も入れよ……っ。豚と牛あるよ?」
「豚かな」
フライパンをぐちゃぐちゃにかき混ぜて、肉から卵と、刻んだ野菜、さまざまな調味料を注ぎ込む。最後に米をぶちまけて、ドヤ顔の繰芽がフライパンを繰る。
ワッ、と空中を舞った米が、しっかりとフライパンに着地した。犠牲者数粒、指先で掬ったそれを、繰芽が口に運ぶ。
「ぁ、でも央神くん働けないから、専業主夫ってことになるね。」
「おぉ、任せろ。毎日美味しいご飯作って待ってるからな。」
「ほんと……?じゃあめっちゃ稼いできちゃうよ、アタシ。」
なんとなく、繰芽はめちゃめちゃ仕事ができそうな感じがする。
原材料名不詳のチャーハンを、大皿にまとめて盛る。
俺は座っていただけだったから、せめてスプーンとコップを用意する。キッチンは狭いから、コップを取る俺の腕の中に、繰芽がすっぽりと収まった。無邪気な嬉しそうな顔をするから、そのサイズ感も相まって無駄に可愛い。
どちらともなく取り皿はいらない、ということになって、二人でその山を切り崩すことにする。
二人並んで手を合わせる。いただきますの声は揃わなかった。
スプーンを差し込んで、そのまま口に運ぶ。横目。繰芽も咀嚼したところだった。
「うま。アタシ、天才……?」
「あぁ、そうだなシェフ」
半笑いで同調する。明らかに体に悪そうな味だが、めちゃくちゃに美味かった。多分、塩分過多の調味料を惜しまずに配合すれば再現は可能。
「ね。子供の名前、なににしよっか。」
「繰芽の名前、結構可愛くて好きなんだよな。」
「アタシの名前……?」
繰芽刻子。子、というのが時代錯誤な感じに見えてもおかしくないのに、繰芽にはすごく似合う感じがする。
「刻子、って。いい名前だよな。」
「ふ、へへ……そっか。たくさん呼んでよ。」
それぐらいなんでもないだろうに、なんだか俺はやけに恥ずかしくて、当分呼べないだろうと思った。
「お父さんがつけてくれたんだー、名前。ろくでなしだけど、この名前に関しては、結構感謝してる。央神くんにも褒めてもらえたし。」
「そ……っ、か。」
繰芽の父親。
やっぱり、血はそう簡単には分つことができない。彼女の全てに紐付いている、とある識別子。刻子、という名前。
俺は、そんな風に話した繰芽の境遇に、人生は落下、なんていう思想を許容されている。俺たちは、その環境の中、違う口で、「これ以上良くなることはない」と同じことを言う。そしてもちろん、思い描く終着地も、違う。
「子、がつく名前にしたいな。」
「いいね〜。央神くんの名前からも取ろうよ」
俺も、自分の名前については納得感があって好きだが。
「慶って字、男っぽいし、男の子だったら俺のから取りたいな。」
「あ、そっか、女の子って前提でずっと考えてた」
どっちが生まれても、きっと幸せになる。
繰芽を見ていると、そう思う。
「生まれた月に因んだ名前がいいなあ。素敵じゃない?」
「あぁ、そうだな。」
「何月に産む?計算しよっか」
「待って、ちょっと具体的すぎるかも」
これはありもしない夢を語るシークエンスなんだ。そこまで仔細に詰めても、きっと無駄になる。それなのに、繰芽は手を抜くつもりがない。
「いつか、着地する、って言ったよな。」
少し前、繰芽が言ったことだった。
落ちるばかりの人生も、いつかは着地する。もう落ちないような、そんな場所に、いつかたどり着く。
「うん。地に足が着くんだよ。バタバタさせてた手足を、ちゃんと地面に立てて、惑わなくなる。」
それは、随分魅力的だ。人間社会から浮遊して、宙ぶらりんの俺には。
「アタシにとっての着地は、君との結婚。きみは?」
俺にとっての、着地。
それは、赤黒い血肉の塊になって、復讐を果たす。
復讐。復讐?
自分で死を選ぶことを、繰芽は敗けだと言った。そして、そこから最も遠いことこそが、幸せであり、最大の復讐であるとも言った。
繰芽は、俺の死生観についてを揶揄していないと言ったけれど、それでも、俺は考えずにはいられなかった。
俺は、俺が求めている激突は、敗北だろうか。復讐になるんだろうか。
俺もどうにも、馬鹿な恋心に振り回されているみたいだった。俺には、今こうやって繰芽と話したことを現実にすることが、最も復讐に足る未来だと、そう思わざるを得なかった。
それが、俺が最も幸せな結末だと思ったから。
俺は、この世界に望まれていた自死という概念から、最も離れた概念へと辿り着き、そしてそれは、この世界に対する最大の復讐となる。
最大の復讐とは、俺の幸せであり、そこには、落下する人生の果ての地面がある。手足を無様に振り回すようなことのない、地に足のついた終着地。
俺はそこに、着地する。激突してぐちゃぐちゃになることはなく、両の足で、確かに地面を踏み締める。
なにか、昔のことを思い出した。地面に思い切り着地して、反作用の力に足を痺れさせるような体験。あれは、一体なんだったっけ。
「復讐しよう、繰芽。」
お前が未来の話ばかりするから、俺は、想像もできなかった未来についてを、こんなにも考えてしまうようになった。
俺が踏み締めるべき場所が、眼下に見えた。
繰芽の実家は、県を少し跨いだところにある、小さな町だった。両隣を大きな市に挟まれて、その中継地点のような立地にある。どちらの市へもアクセスできて、国道が走っているからトラックドライバーがコンビニに立ち寄ったりする。そんな町。
俺は、ストリートビューで見ただけの一面の田畑に、言いようのない爽快さを感じていた。
繰芽は今日も学校だった。でも、昼には帰ってきてくれるらしい。俺たちはもう、取りこぼす単位についてを思考しない程度には麻痺していた。そして、抱えきれないほどの単位を保持しても、それが結局必要ないということに、浅はかな納得を得ていた。
ドンドン、と扉が強烈に叩かれる。
また繰芽が乱心かと思ったが、それならば鍵を開けて入ってこないのがおかしい。少し、鼓動が嫌な拍動を取る。
インターホンはないので、扉の覗き穴を覗く。と、その直前。
「なにしてんの?おとーさん。警察呼んじゃうよ?」
くぐもった声。でも、わかった。繰芽の声だった。そして、その声が端的に教えてくれた、扉の外の状況。
「警察ぅ?呼べよ、てめぇ、誰の金で生きてんのかわかってんのか!?」
「お母さんが勝ち取ってくれた養育費と遺産でしょ。お父さんの金じゃない。」
「お前ッ!!」
扉を蹴り開ける。
そこには、驚いたような顔の繰芽と、扉に吹き飛ばされて廊下の錆びた手すりに背を投げ出す小太りの男。おそらく、繰芽の父親がいた。
顔が赤く、肥えていた。酒気を帯び、視線もおぼつかない。が、俺の持っているものを見て、その酔いは少しばかり醒めたらしい。
「ぉ、お前っ……!なんで、刻子の部屋から……!」
幸せになるためには、自死から最も遠いことをしなければならない。そして、そのための道程に、障害があるのだとすれば。
俺は、握りしめた包丁を手に考えた。
殺人は、得てして自死から一番遠い行為かもしれない。と、そう思い当たった。
「央神くん……」
一人も二人も、変わるだろうか。
どうせ俺の手が穢れているのなら、いまさら増えても変わらない。殺してもないのに殺人犯なら、殺して殺人犯になった方が道理じゃないか?
繰芽刻子に与えられた血の呪縛は、俺たちの幸せには必要ない。
「刻子!脅されてんのか?はやく、警察呼べ!指名手配っ!」
俺の顔まで気付かれていたのか。殺人という無意識的なイメージが、俺の持った包丁に励起されて、記憶の底から手配書の顔を引きずりあげたのかもしれない。
指名手配犯の顔とか、覚えてないもんだよな。
息を吸い込む。
包丁を突き刺すのなら、どうやるのが一番手っ取り早いだろう。手っ取り早いというのは、最も効率的に命を損なわせるということで、俺のやろうとしていることと、この考えは、殺人というより屠殺に近いのかもしれない。
繰芽は、いつもの微笑みで俺を見ていた。でも、それが殺せ、なのか、殺さないで、なのか。それだけは、わからなかった。
そうだ。俺はまだ、俺の自己満足と、自己責任で生きている。俺は、繰芽に、一緒に責任を負ってくれ、と、一度でも言ってはいないのだから。俺はずっと、そこから逃げてきたのだから。
自死を目指していた俺には、そんな真反対のことは、できなかったから。
だから、俺が決めなくちゃいけないんだよな。
殺すか。殺そう。殺して、殺したとして。
立ち上がった男に、俺は包丁を取り落とした。
「馬鹿が……」
殺せるわけ、ないだろう。
生きてるんだぞ?目の前で、呼吸している。その、息の根を、止める?それが、一体どれだけ悍ましいことなのか、殺すと簡単に口にするやつは、わかっているのか?
きっと、包丁の鋭さは、痛い。確かに自分でありながら、しかし自分では見ることない自分の肉の断面を、激痛の中で見ることになる。噴き出した血の中で、溺れて、泣いて、苦しんで。
普通の人間の心を持っているやつなら、人を殺すなんてことが、できるはずがない。クソ異常者共が。
俺みたいな凡人は、お前たちの土俵には立てない。立てないんだよ。
へたり込んだ俺の前で、男は思わずといった様子で後ずさった。その背中が、手すりにぶつかる。足がもつれて、その体が傾く。くるり、と面白いくらいに、男の体が落ちていく。落下する。
「あ」
ほんの数秒後、重苦しい音と小さな呻き声が、眼下三メートルあたりで聞こえた。
地面に激突したか、上手く着地したろうか。多分、激突しただろうな。呆然と、眼下を見下ろした。
痛みに顔を顰めながら、呻いている男の姿が見えた。
「そりゃあ……死なないよな、こんな高さじゃ。」
人の道を外れた、とまでは言わないけれど、きっと健全な親としては失格の男が、その着地、あるいは墜落に、命までは取られない。
墜落死は、思っているほど簡単じゃないし、呆気なくもない。それは、もっと凄惨で、陰鬱なものだ。
「殺さないでくれて、ありがと。」
繰芽の小さな頭が、俺の肩を小突く。俺は、なんて返そうか迷って、結局黙った。
繰芽は、手すりに手をかけて、大きく状態を乗り出した。転落の再演をされても困るから、仕方なく腰を抱く。
繰芽の下腹のあたりを支えた手に、ふわりと膨れる空気の塊を感じる。
「おとーさーーーん!!!」
繰芽は、それはそれは大きな声で、眼下で苦しむ肉親に呼びかけた。
「今までありがとーー!!!大っ嫌いだし全然感謝してないけど!!!この名前つけてくれたことだけは感謝してる!!!!」
聞き慣れない繰芽の大声に、どこか、温かな心地を覚える。
「でも!!今日でさよなら!!!!寂しくなるかもだけどごめんね!!!自業自得だから!!!これ!!アタシの彼氏!!!」
繰芽は俺に真正面から抱きついた。バランスを崩しそうになって、強く繰芽を抱きしめた。
「この人と結婚するから!!!あんたの前からも消えるね!!!救急車は自分で呼んでね!!!!」
繰芽は、最初と同じように、大きく息を吐き出して、また吸った。でも、次は大きな声は出さなかった。
繰芽は、最後に小さく言った。
「もう、二度と会わない。」
◯
繰芽は、俺にありったけの私物を持て、といって、俺は制服のジャケットとスマートフォン、お気に入りの小説を一冊持った。繰芽が買ってくれたものだった。
繰芽は、俺が用意を済ませると、キッチンの棚の奥からごそごぞと何かを探って、可愛らしいデザインのトートバッグを取り上げた。
「アタシの全財産。……まとめといた。」と得意げな顔をして見せた。こうして夜逃げするのを、繰芽はちゃんと計画していたわけだ。さすがは未来を語りたがる女。
「逃げる場所は……前、お前が行ってたとこ、で……いいんだよな。」
「うん。お母さんのいたとこだし、少し前までおばあちゃんが住んでたから、傷んでもないはず。」
繰芽が迷わずに先導するから、俺はそれを追いかけるだけだった。俺たちの逃避行の目的地までは、到底徒歩では辿り着けない。最初のチェックポイントは駅だった。
しかし、繰芽はぐねぐねと裏道を抜けていき、そして、俺はある見慣れた光景にたどり着いた。
「高台公園……懐かしいな……」
「あ、やっぱ央神くんもここなんだ。」
繰芽はしてやったり、と笑みを見せた。
「央神くんと同じ中学の友達が、よくここで遊んでたって言ってたから。」
そうだ。そうだった。なんなら、俺自身がそんな話をしたこともあっただろう。ここは、俺がずっと遊んでいた公園で、この街を見渡すような緩い崖の上にあって、俺はその場所を、ずっと憶えていた。
「央神くん、多分、もうあと二十年は会えないよ。」
だってそこは。その場所は。
公園の真向かい、少し前に流行った、洋風の一軒家がある。
「央神くんも、ちゃんとバイバイ、しとかないと。」
そこには、俺の魂がある。
◯
差し込んだ家の鍵が、すんなりと開いた。
隠し場所は、ポストの下にある花瓶の下。俺が小学生だった頃に、決めたものだった。
もう六年は使ってないのに、鍵はずっとそこにあった。それとも、わざわざ置いておいてくれたのだろうか。
「た、……だ、いま。」
繰芽は、駅前の喫茶店で待っていてくれる。夜の二十時までなら、待つと言ってくれた。もし間に合わなかったら、現地集合で。
俺が放った挨拶に、しんと静まり返る玄関。平日の昼間だ。父親はいるはずがないし、母親が出かけていてもおかしくなかった。
巡り合わせが悪かった。踵を返す。
ほんの少し前まで住んでいたのに、随分懐かしく見える我が家。
「おい、待て。」
「っわ、びっくりした……」
振り返ると、母親が立っていた。
「なーにしたり顔で行こうとしてんの?アタシが寝てたらどうするわけ?部屋くらい覗きに来い。」
「いや、指名手配犯だぞ?俺。んな呑気でいられるかよ。」
「あんたに人が殺せるわけないじゃん。どっちかっていうと殺される側でしょ」
我が母親ながら、随分と肝が座っている。こういう血は、俺には流れなかったみたいだ。
母さんは、まだ使っているガラケーを開いて電話をかけた。LINEくらいやりなよ、と言えば、聞き飽きたわ、とはねのけられる。
「お父さん、すぐ帰ってくるって。昼ご飯くらい食べてくでしょ?」
「あぁ、だな。」
否が応でも突き付けられる。多分もう、これが最後だ。
俺は、今から。母さんと最後の言葉を交わす。父さんと最後の言葉を交わす。家族で最後の食卓を囲み、この家での最後の時間を過ごす。
これから行われるすべての行動に、最後という枕詞がつく。
母さんは、こちらを見ないで聞いた。
「あと、どれくらい……居れるの」
俺は、久しぶりに声を上げて泣いた。
◯
豪快にビールを開けて肩を組んだ父親に、俺もちびちびと缶に口をつけた。
「いやぁ、感激だなあ。もう息子と酒を飲めるなんて」
「冗談も大概にしろよ。めちゃくちゃショートカットしてるじゃねえか。」
「お、懐かしいな。マリカやるか?」
下手くそな癖に。
我が子に未成年飲酒を強要した挙句、自分の方が楽しそうに酔い始めた父親。これも、最後の親子での晩酌になる。
「父さん落ちまくって完走できないじゃん」
「あれはコースが悪いんだよ。宇宙空間じゃ、落ちるって概念がない。」
レインボーロードのことを言ってるんだろうけれど、うちの父親はどんなコースでも虚空を走る。呆れたような俺に、そういえば、と母さんが言った。
出来立ての唐揚げをテーブルに置く。俺の好物だった。
「あんた、落ちるの好きだったよね。子供の頃。」
「落ちるの……?ジェットコースターとか……?」
「じゃなくて、ほら、遊具とか。昔っから目離せばいろんなところから飛び降りてて、自殺願望でもあんのかなって思ってたわ。」
あながち間違ってもいない推測に、変な汗が出る。もう思ってない。もう。
しかし、母さんはそれを否定して続ける。
「あとから気付いたけど、あんたって、着地するのが好きだったのよね。地面にドシーンって、両足で着地するのが。」
なんだか、思い出せそうで思い出せない記憶が、宙ぶらりんになっている。なんだっけ、なにかを、思い出せそうな気がする。
唐揚げを頬張って、少し考えた。
「あぁ、そういえば、一回すごいのしでかしたよな。」
「あったあった。流石に死んだと思ったわ」
父さんが切り出した思い出話。俺が記憶を掘り起こすより早かった。同調した母さんが継いで、俺に話し出す。
「高台公園から飛び降りたの、憶えてる?」
俺は、完全にその記憶を思い出した。むしろ、なぜ今まで忘れていたんだろう。
「お前、あのときの傷、まだ治ってないだろ。」
「ある。流石に小さいけど、背中に。」
父さんとは毎週銭湯に行っていた。俺の背中を見る機会もあっただろう。もうほとんど疼痛もない、古傷を。
「よく生きてたわよね、あの高さから飛んで。」
「……別に、大した高さじゃない。途中から傾斜が急になるから、先が見えなくて高く見えるだけだよ。」
「さすが経験者。」
ガキながら投身自殺未遂をしでかしたという事実が大きすぎて、俺は母さんの茶化す声になにも反論できなかった。
「実はお前、なんかすごい運動神経持ってたのか?」
「いや……あれは……」
高台公園から望む街並み。そこに、駆け降りて、混ざり合うような投身。地面に激突したら、全然死ねると思った。
時計を見る。
もう、十九時半だった。
◯
俺を見送るためにわざわざ庭まで出てきた二人は、初めて学校に行く我が子を送り出すような生温かい目をしていて、少し居心地が悪かった。
「じゃ、行ってきます。」
ぎこちない挨拶。これが、最後になるのか。
「あんたさ、彼女できた?」
「は?いきなりなんだよ。」
母さんの突拍子のなさは昔からで、その癖、この人は勘が鋭かった。俺は、繰芽と結婚したい。でも、まだ好きともプロポーズも言えていない。なにより、俺なんかを繰芽が選んでくれるということに、まだ現実感がない。
「いやあ、別に?」
「おい紹介してくれたらよかったのに。」
あんな可愛い子連れてきたら、多分あんたらびっくりさすぎて腰抜かすよ。
「その子を選んだんだな。」
父さんの声は、刺すように、俺の心臓に届いた。
「うん。」
「どんな子だ?」
「母さんに、ちょっと似てるかも。」
「いい子選んだわね。」
「ほんとだな。」
空を見る。もう、暗くなっていた。
俺にとっては好都合だった。もうさっきから、大分涙腺が危うい。涙に濡れたまつ毛が、ばしばしと涙袋を叩いてくる。
「銭湯の回数券、お前の分も、まだたくさんあるからな。」
「おう。」
サムズアップする父親。俺が断ろうとするたびに、もう回数券買っちゃったから、使いきれないんだ、とか言ってた。
母さんが、俺を抱きしめた。少し細くて、歳の割に綺麗にしてる見た目も、近くだとちゃんと歳を刻んでる。俺を産んだ。育てた、その時間を刻んでいる。
そんな母さんの抱擁のせいで、俺はもう泣いていた。厳密に言えば泣いてはいなかったと言いたいけど、これだけ顔をぐしゃぐしゃにしていては説得力もない。
抱擁を解いた母さんが、父さんと並ぶ。
俺は、
「ごめんっ……せっかく、育ててくれたのに……こんなっ、ことしか……う……ぐっ……もっと、立派な姿、見せないとって、……思ってたのに……」
父さんみたいに、いい大学に入って、稼ぎのいい仕事をして、母さんみたいに、強くて優しい人に。
「なにもっ……恩返しできてない……!二人に、迷惑ばっかかけて……おれ、父さんも、母さんも、大っ好きなのにッ」
涙でなんにも見えなくなった。どうして、あんたらみたいな人間のもとに、俺みたいなのが産まれちゃったんだろう。
「本当は、父さんと銭湯行くの、好きだったよ……っ。母さんがたまに抱きしめてくれるのも……嬉しかったっ……!」
誰かが、俺の頭を撫でている。しゃくりあげて、呼吸もおぼつかない俺を、宥めるように、落ち着かせるように。優しい手だった。
「さよう、なら……ふたりのこと、っ……死ぬまでずっと、……大好きだ……っ」
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
何回も謝った。何回も撫でてくれた。抱きしめてくれた。でもそれも、今日で終わりだ。
◯
なんとなく、高台公園に寄った。夜の空気は澄んでいて、気持ちよかった。
絶対に、後ろは振り向かないようにした。あの家の、ほんの少しでも目に入ってしまったら、俺は、この決断をすぐにでも放り出してしまうかもしれないから。そうしても、別に誰も責めないんだろうけど。俺は、この世界に復讐しないといけないし、なにより。
「繰芽が、待ってるな。」
喫茶店まで、ここから歩いたらニ十分はかかるだろう。できれば、二、三時間電車に乗るなら、繰芽と一緒がいい。それに、現地集合は心細い。高台公園、この場所に、もうこれないとは思わないけど、戻ってくるまでにどれくらいの時間がかかるのかは想像できなかった。
この場所から、飛び降りた日を思い出した。
俺は、どんな場所からでも着地できると信じていた。どこから重力加速度を得ても、絶対に自分は、その地面に足を突ける。そう信じ切っていた。それが、今となっては着地に失敗してコンクリートに激突するのを夢見るような希死念慮に憑りつかれている。
はやく、歩き出した方がいい。でも、俺はどうしても、そこから離れられなかった。
この高台から、踏み出して。駆け抜けた先で、虚空を走る。そして、やがて俺の身体は順当に重力加速度を得て、その果てに、コンクリートに激突する。ぶちまけた血潮が、俺の人生を象徴する。
制服のジャケットを羽織った。
息を吐く。暗い公園の静謐に、俺の吐息の音が嫌なくらい浸透する。
さぁ、央神慶慈。決断の時だ。
俺は、死に装束を羽織って、トラックにスタートの構えを取った。
どうも、声援をありがとう。死ね、とか、自殺しろ、とか、そういうたくさんの声援が、俺を鼓舞していく。これはこれは、ありがたいことです。
「さぁ、行こうか。」
踏み出した。助走は充分、ジャングルジムを通り抜け、ブランコの脇を駆け抜ける。あのときも、同じ道程で飛び出した。たしかあの日は冬で、温かいジャンパーを着ていた。目前には、夜景を見せる街がある。キラキラがゆっくりと動いていく。電車だろうか。車かもしれない。俺の足は、依然回転し続けている。人生最高速度かもしれない。
トラックは、もう終盤。俺の飛び込み台は、最後に、その手すりを超える必要がある。
子供のころはあんなにも高く思えていた柵は、むしろ高校生になった今の方が、飛び越すのが若干怖かった。俺はちゃんと、怖さを知ったんだな。
左足で踏み切った。昔、体育の時間で、利き足で踏み切れ、といわれたけれど、それに意識を取られて助走の速度どころじゃなかったことを思い出した。はっ、馬鹿らしい。飛び上がった俺の右足は、いい感じのところで柵を踏んで、ほら、別にどっちの足だってよかっただろ、と思った。二段ジャンプの要領で、俺の体は更に舞い上がった。
夜景の中に、紛れる。
崖は、ゆるく下降して、最後に急に直角になる。眼下の街並みを見渡せるのは、ここに飛び上がった人間だけの特権だった。
重力は、正しく演算して俺を地面に引き寄せる。俺は多分、あの日と変わらないくらいのところまで飛んでいて、空中で宙ぶらりんになる。じたばたと振り回した手が、なんにもつかめない空を掴んだ。
「俺は、お前たちに勝つ」
眼下、夜景に前傾に。
これは、復讐になる。ほんの一瞬の走馬灯が、俺の脳裏を走った。
泣きそうになるくらい優しい微笑みで、俺を見る繰芽。なんでそんなに不機嫌なんだってくらい、子供っぽい拗ねた顔をする繰芽。ミステリアスに見られているくせに、なんだか自信過剰で、ことあるごとにどや顔してくる繰芽。
ああ、もう。繰芽ばっかりじゃんか。
俺は、復讐を果たす。
ここから飛び降りて、地面に足を突ける。
俺は、全てを知っていながら、口を噤みます。
俺に、殺人者の罪を擦り付けた奴。俺が、抱いていた希死念慮。
もうここからは悪くなるだけです。美しい思い出だけを持っていくのは、決して、悪いことではありません。
でも、いつかは着地する。
俺は、着地する。地に足をつける。
コンクリートが迫ってくる。風に膨らんだジャケットが、パラシュートさながらだった。もちろん、それが俺を浮かせてくれることはない。俺はもう飛び降りてしまったんだ。
痛いのは、嫌だな。
目を瞑って、訪れる未来を待った。
地面まで、あと何メートルか。ゆっくりと暗闇に落ちて行って、そこに混じり合う。その直前で、
「う”ぇ”ッ”」
絡まったジャケットが破れて、嫌な音がする。脇と背中が、思わず声をあげるほど痛んで、ぐわん、と揺れる体が宙づりになる。
そうなんだ。この公園から飛び降りたことのある奴だけが知っている、安全装置。
崖は、緩やかに高度を下げて行って、最後の直角には、人間の跳躍では超えられないような木々が植わっている。
たしかあの時も、こうだった。
俺は、着ていたジャンパーが枝に引っかかって、首を絞められた。急いでファスナーを下ろして、肩がすごく痛かった。俺は、こんなにも高いところからでも飛び降りることができる、ということを証明したかったのに、その邪魔をされて不機嫌だった。そのせいか、背中に突き刺さった枝が、血に塗れていたのにも気付かなかった。
今回は、うまいこといってくれた。鋭利な木の枝は、俺のジャケットだけを切り裂いて、俺の体に傷をつけることはなくて、ただ、予想以上の勢いに、右腕に鋭い痛みがあった。ぶらぶらと滑稽に、俺は宙づりになっていた。
「ぁぁ~、これ、脱臼してるよなぁ。いやだなぁ」
意を決して、着地することにする。
こうやってぶら下がっている木から、その下の地面までには結構距離があった。多分、普通の建物の二階相当はある。でも、二階から落ちたくらいで人が死なないのは、ついさっき証明されていた。というか、子供のころの俺が、既に証明していた。
俺は、着地できるだろうか。
「え~!央神くんだよね!?」
「ぉ、おう……さっきぶり、繰芽。」
「ふふっ……なにやってんの?楽しそう。」
「うっせ。」
右腕をジャケットから引き抜いた。信じられない激痛が走って、一瞬で脂汗が全身から噴き出す。気絶するかと思うような痛みのあと、左手を引き抜きにかかる。左手だけが、俺を宙づりにしている。
「くるめー、今から降りるー!」
「おっけー!」
なにが?と思わなくはなかったが、逆に俺のその問いかけに、何を返すのが正解か、というのもわからなかった。ふっ、と呼吸を切って、思い切って左手を引き抜く。重力に、引っ張られる体。
「う、ぉ!ッ!?」
「わぷ」
鈍い音がして、俺は空を眺めている。
その横で、繰芽も倒れていた。
「お前、もしかして受け止めようとした?」
「え、そういう意味じゃなく?」
「そういう意味じゃなく。……体重差考えろっての。」
「ふへへ、ごめんね。」
締まらない。これは、着地できたと言えるんだろうか?
まぁ、でもどうでもよかった。俺は、言っておかなければならないことを思い出した。でも、言っておかなければならないことが、繰芽に対してはたくさんありすぎて、よくまとまらなかった。だから、俺の本心に一番近いことだけを言うことにする。
「繰芽、愛してる。お前のこと、一番。」
繰芽は、潜めていた笑い声を絶やした。なんの音もなくて、星だけが、静かに哭いていた。
「ぅ、うぉぉ……」
「なんで唸るんだよ」
野生動物みたいな唸り声をあげた繰芽に思わず笑った。視線を寄越すと、感動しているのか驚いているのか、瞳に涙を溜めて、必死にそれを溢さんとする、愛らしい表情があった。
「あ、た、……あたし、央神くんのこと、……ぜったい、幸せにするからぁ……!」
俺のセリフじゃないのか?と言おうとして、口をふさがれた。
柔らかくて、少し湿っていた。なんだか、思わず蕩けそうで、震えた吐息が漏れる。儚い、儚い感触。俺はその正体を、多分知っていた。
俺たちは、満足がいくまでその星空を眺めて、そして、逃げ出した。
車から下りて、伸びをした。バキバキ、と軽快な音を鳴らした骨。
駐車場からは、青々と茂る公園が見えて、走り出してしまいそうなのがちょっとだけ心配だった。
少しだけ歩いて、入り口の自動ドアの横に灰皿とベンチがお粗末に置いてあるいつもの光景。田舎の方が、こういう昔ながらのものをお目にかかる機会が多い。
自動ドアを抜けて、靴箱は三人分は入りそうな広いものを選ぶ。六枚組の整理券を半分の所で千切って、受付に差し出した。心配になるくらいのじいさんに促されて、男、女、とかかれたのれんの前に立つ。
「じゃあ、ごめん。ひな子、頼むわ。」
「はーい。この子大人しくさせるのに結構かかるかも。先、出てていいからね?」
「うん。」
財布を取り出して、百円玉を一枚渡した。
「ロッカー代。」
「やったー。ひな子、コーヒー牛乳飲もっか?」
「うん!」
風呂からあがったあとにする会話じゃないか?とも思ったが、やはり妻と我が子は可愛いもので、特になにも言わなかった。
「あ、先あがったら、ビール飲んどきなよ。」
「いや、帰りの運転。」
「アタシやるよ?今の車、やっと慣れてきたし。あ、でもひな子の面倒は見といてね。」
「……そうか。じゃあ頼む、繰芽。」
あ、と心の中で思った。もしかしたら口にも出ていたかもしれない。からかうような笑みで、繰芽が目を細める。
「頼まれました。央神くん。」
「間違えただけだ。」
「ふふ。久々に呼ばれて、嬉しいかも。」
そう言い捨てて、俺が反応を返すより先に、ひな子が走り出す。いきなりだったのに、それに対した驚きもなく追いかける。優しい視線が、俺を見る。「じゃ、あとでね。」みたいなことを言っていた、と思う。
二人が暖簾をくぐったのを見て、俺も男湯の暖簾をくぐった。
サウナに入って、体を洗った。内風呂と露天風呂のどちらにも浸かって、頭がぼーっとしてきたから切り上げる。脱衣所の水を飲んで、頭をドライヤーで適当に乾かす。外にでる支度を大方終えるまでに、存分に時間を使ったけれど、ロビーにはまだ二人の姿はなかった。
お言葉に甘えて、冷蔵のケースからビールを取る。受付で金を払って、ついでに回数券も買っておく。不親切にも有効期限は書いていないので、ボールペンを借りて自分で記入した。重力のある場所で生活していてよかった。じゃないと、俺はボールペンじゃなくて鉛筆を借りることになっていただろうから。
重力加速度を、得ることはできなかっただろうから。
回数券をバッグに入れて、待合所の畳に足を踏み入れ、なんとなく、一段降りた縁側に座った。ビールを開けて、一口目は豪快に流し込む。目の前の掲示板に、指名手配犯の名前と、顔写真が貼ってある。俺の名前と、俺の顔写真が貼ってある。
「っぱ、まだ目元は似てんな。」
なんとなくバスタオルで横顔を隠した。
そんなとき、女湯の暖簾をくぐって、思わず目を奪われるような美人と、将来は引く手あまたになるだろう可愛らしい子供が出てくる。
あぁ、そうか。ここからなら、浴場への廊下が見える。なんで自分がここを陣取ったのか、遅れて理解した。
厭世的で、蠱惑的な瞳をしたその女性は、太陽のような微笑みの我が子がせがむのに応えて、アイスの入った冷凍庫を見せてやる。背中に背負った女の子は、嬉しそうに指を指して、そして、俺の方を見る。繰芽の、日常のような優しい目が、我が子を見ている。
微かに、バランスを崩す。母の背を離れて、中空で微かに浮いた、まだ小さな体は、重力加速度を得る。
その小さな足が、確かに着地する。
「今日の夕飯、何にすっかなぁ……」