お嬢と執事の弁証法
残酷な描写を含みます
俺の家はお世辞にも裕福ではなかった。大学に行く余裕はなくて、妹を大学に通わせるために、早く社会に出て金を稼ごうと思っていた。
───黒乃巣家、住み込み。執事募集。
俺が見つけたのはそういう怪しさ全開の求人だった。
基本給は高かったし、それが手当頼りの高給でないことも確認していた。年間休日日数は正直あまり注目していなかったけど、金さえ稼げればいいと思っていた。
想像していた執事の服は、燕尾服とかに近い、言ってしまえば時代錯誤なものだとばかり思っていたから、入社?してからすぐにオーダースーツを作るように言われて、勤務中はそれを着ろ、と言われたときは正直拍子抜けした。
もちろん、俺はそっちの方がよかった。
無難な色合いのスーツを着て、ネクタイを締める。ベストもついていたから、ジャケットのボタンは留めない。三日間の研修で、何度も教えられた身だしなみだった。
夜勤を担当している統括執事から引き継ぎを受けて、だらしない挨拶をして仕事にかかる。
「折戸。ネクタイが悲惨なことになってるけど。」
俺は、多分嫌そうな顔を隠せていなかった。
「おはようございます。お嬢。」
黒乃巣家の一人娘、黒乃巣えこ嬢だった。
地球環境に優しそうな名前だな、と最初は思ったが、とんでもない。こいつの口と態度の悪さは、その目つきの悪さと相まって優しさとは程遠い。
その視線の冷たさで、地球温暖化を少しくらいは遅らせることはできているかもしれない。
「私は、そんなみすぼらしい姿の従者を近くに置いておきたくはないの。……そのスーツのために手を煩わされた職人が、可哀想でならないわ。」
本当に、雇用関係と主従関係がなかったら、その無駄に整った顔にアイアンクローを決めていたことだろう。分別のある俺は、黙ってネクタイを直した。直ってたかはわからないけど。
「文明に頭が追いついていないようね。」
マジで泣かしてやろうか、この主人。
「貴方は、私を着飾る服飾、あるいはアクセサリーよ。私に見合うようになってもらわないと困るわ。」
人を装飾品扱いか。
呆れ果てる論理に言葉も出なかった。
「精進します。」
俺は、日常といえるお嬢からの猛烈な誹謗中傷に、もうある程度見切りをつけていた。というか、こんなことでいちいちメンタルを揺さぶられていれば、憤死しかねない。
ただ、それだけではないのも、俺は知ってしまっている。お嬢様は、自己中なんだ。
自己中心的で、自分の存在に対して不利益をもたらすようであれば、躊躇なくそれを歯牙にかける。けれど、もし自分が中心の世界で、世界の方に不利益をもたらしてしまったときは、それが自分という中心が原因であると行き過ぎた猛省に心を閉ざす、らしい。
俺は、生憎そんな愉快な場面を見たことはなかったから、又聞きでしかないが、それでも、お嬢が寝坊をしたところは見たことがないし、高校の定期考査で上位を取りこぼしたという話も聞いたことがないし、彼女の心の弱い部分にも触れたことがなかった。
なんでも自分、って考えてしまうような性分なんだろう。自分のために執事に小言を言うし、直面した困難の発端は自分にある、と考える。
どでかい斧を持った甲冑が飾られた広い廊下を、背筋を伸ばして歩いて行くお嬢の後ろ姿を見る。
「難儀なお嬢様だな。」
⭐︎
その日は、いつも通りの朝だったと思う。
ネクタイを結んでいる途中で、女の人の叫び声が聞こえた。別に、どうすることができるとも思ってはいなかったけど、何かできることがあれば、と思って、部屋を飛び出した。
声は、お嬢の部屋の前でがくがくと震えながら尻餅をついていて、その前に仁王立ちするお嬢の手に、シザーが握られていた。
そのお嬢の頬に、一筋の切り傷がついていた。
そのメイドは、最近入ってきた新人だった。女性、ということでお嬢の身の回りの世話についていたらしいが、今日の朝、突然、お嬢の首に片刃を押し当てた。
お嬢はすぐさまに反撃して、そのときに、頬に切り傷を貰ったらしい。幸いにも、血も出てないような浅い傷だったけれど、女の子の顔にそんなにも刃物が近づいた、という事実が、妙に俺の心を冷えさせた。
お嬢に蹴り倒されたメイドが、執事に連れて行かれるのを尻目に、俺はお嬢の方に近づいた。
きつい目つきの双眸と目が合った。
「私が、あんなのを従者として認めていたからよ。私の過失だわ。だから、これはその報い。もう、間違えない。」
俺の手を振り払うような言い草に、自己中心が高々と聳え立っている。
「そんなに、自分のことばっか考えてたら、誰も貴女のことを考えてくれなくなりますよ。」
まだ寝巻き姿だったお嬢を廊下にそのままにしておくのも気が引けて、同時に、このままお嬢を一人にしておくのも気が引けて、俺は「失礼します。」と先導してお嬢の部屋に入った。
お嬢は、珍しくおとなしい様子でついてきて、俺の存在などないかのように平然と化粧台の前に座った。
「問題があるかしら。」
次に出てくるのは俺に対する強烈な拒絶の言葉だと思っていたから、まさかそれが会話の続きであると気づくまでに少々の時間を要した。
「私が、自分本位に生きていることに、なにか問題があるかしら。」
その家名に恥じない綺麗な黒髪を梳かしながら、お嬢は言った。
「人間関係は、相互作用するんですよ。常に、貴女が与える側なわけじゃない。貴女が何かを与えられることもあるし、……逆に、危害を加えられることもある。
その全部が、自分の責任だ、っていうのは。無理がないですか。」
お嬢は、俺の方を振り返って、珍しく固まったので、都合がいいと思って絆創膏を頬に貼り付けた。俺が持っていたのは味気ない絆創膏で、可愛らしいデザインもなにもなかったから、少しだけ申し訳なかった。
お嬢は、その絆創膏に指先で触れて、また髪を梳かしはじめた。
「ありがとう。」
小さく言われたお礼を、俺は多分真っ直ぐに受け止められたと思う。とりあえず、絆創膏を貼ってあげられたのなら上出来だろうと思って、部屋を出ようとしたときだった。
「……居てよ。貴方がいなくなったら、誰が、私の身支度をするの……?」
自分でやれよ、というのは酷か。お嬢だって自分でできるだろうし、やりたいはずだ。それでもわざわざ人の手を借りているのは、そういう対応に慣れるためなんだそうだ。
「俺、何も手伝えないと思いますけど。」
「なら、せめて話し相手にくらいなりなさい。それと、ネクタイ。」
俺は慌ててネクタイを締め直す。
「悪かったわね。身支度の途中に。」
なんというか、本当にもどかしい人だな。
俺の身支度の不手際まで掻っ攫われては困る。
「服、用意します。クローゼットを開けても?」
「えぇ。制服を取ってもらえるかしら。それと」
お嬢が言い終わらないうちに、俺は部屋みたいにでかいクローゼットを開けて、制服を探し始めていた。
それで、手近なところにあったラックをふと見た。
「下着も一緒に仕舞っているから、見ないで。」
「……は、はい……」
意外と刺激的なやつを持ってるんだな、とかは、絶対に口に出さないようにした。
目的の制服をお嬢に手渡した。お嬢はこてん、と不思議そうに首を傾げた。
「着替えるけど、……見たいの?」
「ぁ、悪い……!じゃなかった、すみません、すぐ出ます。」
そりゃそうか。着替えを手渡したんだから、そりゃ着替えるよな。ていうか、出ていけ、とかじゃなくて、見たいのか、と聞いてくるのがお嬢らしい。
「出てなくても別にいい。あっちを向いているか、目を瞑っていればいいわ。……まぁ、別に見られてもいいけれど。」
羞恥心とかはないんだろうか。本当になんでもないように寝巻きを脱ぎ始めたお嬢から、すぐに顔を背ける。
「意外と乱暴なのね、素の貴方って。」
お嬢の声が少しだけ弾んでいるように思えて、もしかしたら、少しだけ微笑んでいるんじゃないかと思った。けれど、そこで視線を投げればお嬢の裸体も一緒に見てしまう。少しだけ気になったが、もちろん振り向いたりはしなかった。
「そんなもんじゃないですか、男って。」
「私、女子高なの。男性のことってよくわからないわ。それと、みんな絆創膏を普段から持ってるくらい気が利くの?」
「いや……それは」
男は、下手したらハンカチを持ってるだけでも女々しいとか言われるときがある。俺からしたらハンカチもポケットティッシュも絆創膏も標準装備だが、男というカテゴリ全てに当てはまるとは思わなかった。
「揶揄ってます?」
「あら、そんなつもりはなかったわ。でも、できたらもっと目立たないものだったらよかったけど。」
「……医務室から持ってきますよ。」
よくわかった。お嬢は俺のことを揶揄っている。
お嬢から顔を背けたまま部屋を出ようとした俺の手を、お嬢が掴んだ。
「いいわ。わざわざ張り替えるのも、面倒臭いし。」
そうですか、と言おうとして振り返る。
下着姿のお嬢が、少しだけ微笑んでいた。
「っ!!ちょ、お嬢っ、服!」
「……執事でしょう?別に、見られても不都合があるような体はしてないと思うのだけど。」
不都合があるのはこっちだ馬鹿。このままめちゃめちゃに叱りつけてやろうか。でも確かに不都合どころかよく引き締まった体をしていた。
目を瞑ったまま、わずかに後ずさる。
「俺、出てますから!……遅刻しないでくださいよ。」
後ろ手に扉を開けて、わずかな隙間から外に出る。
はぁ、とため息をついた俺の目前で、扉がわずかな隙間を開ける。お嬢の片目だけが、その隙間から見えた。
「ごめんなさい。揶揄いすぎちゃった。」
随分楽しそうな声が出せるんだな、お嬢。
⭐︎
あれから、お嬢の世話係は俺ということになったらしい。大事な娘に一番近しい従者が、なし崩し的にではあるが俺みたいなよくわからない男になったというのに、黒乃巣家は傍観するばかりで、当の本人のお嬢も、それを受け入れたみたいだった。
俺としては、出勤時間が早くなったり、見境なく服を脱ぎ始めるお嬢のおとぼけさに心労を募らせたりと、正直勘弁してほしかった。
もちろん、給料は上がったし退勤の時間も早くはなったから、好都合な部分もあるが。
「おはようございます。お嬢。入ってもいいですか?」
「どうぞ。」
ノックして返事が返る。俺はドアを開ける。
いつも通りの朝の支度。
俺が入ってきたのを見て、お嬢は立ち上がった。それで、向き合った俺に目を瞑って「ん」と頬を差し出してくる。
「もういらないでしょう……痕もなく、綺麗に治ってますよ。」
「そう?じゃあ、いいけど。」
それは、俺に絆創膏を貼らせようとするお嬢の揶揄いの一環だった。医務室からくすねてきた目立たないものを貼ってたときもあったが、もうわざわざつけてやる必要はないほどに、お嬢の頬の傷は完治していた。
しかし、昨日までは風呂上がりに自分で貼ったのだろうものをわざわざ俺の前で剥がしてこの問答をやらされていたのだから、お嬢の考えていることはよくわからない。
頭がいいやつの発想は、俺みたいな人間にはよくわかんないもんだ。
お嬢はいつも通りに鏡に向かって化粧をしていて、俺もいつも通りにお嬢の制服を取りに行った。
そんな俺の背中に、お嬢はこともなげに言った。
「そういえば、吉田が呼んでたわよ。貴方に用があるって。」
「吉田さんが……?」
吉田、とは統括執事を務める本物の執事の家系の人だった。黒乃巣家に代々仕えていて、俺みたいな見かけだけの人じゃない。
「今日一日くらいなら、お喋りの相手がいなくても自分で支度するけど、行ってくる?」
吉田さんは基本的に夜勤の人だ。この時間はまだ勤務中だろうが、お嬢を送り出してから会いに行っては流石にそうもいかない。
だが。
「俺は……お嬢のこの時間を任されてますから。差し支えなければ、いますよ。」
「……そう。」
吉田さんなら、俺がここでお嬢をほっといてきたというほうが怒りそうだ。怒られるのは面倒臭い。
「……そんなに私の下着姿が見たいのね。」
「ちげぇ……!ますよ……」
本当に違うのだから手に負えない。
もちろん、お嬢の美貌は認めるところだが、まだ高校生のがきんちょだ。本気で欲情するはずがない。
お嬢は寝巻きを脱いで、下着姿で俺の持っていた制服を受け取った。
「もう飽きたの?……最近、前みたいに反応してくれなくなったわ。」
「お嬢が別に見てもいいって言うからでしょう。」
「見るからには感想くらい聞きたいし、……前の反応の方が可愛かったわ。」
恥ずかしそうでもなんでもない下着姿を見ても、正直あんまりなんとも思わない。もちろん、最初こそは面食らったけど。
そういう男の感性についてを、もちろんお嬢が承知しているわけもない。
「……黒が好きなの?」
「はやく服着てください。風邪ひきますよ。」
お嬢はやっと俺から身を引いて、いそいそと制服を着始める。
状況としては明らかに不健全なのだが、これでお嬢の普段の気苦労が晴れるというのなら、俺がわざわざ是正を求める必要もない。というか、面倒臭い。
あらかた支度を終えたお嬢に鞄を渡す。扉を開けて、お嬢を促した。
「お気をつけて行ってきてくださいね。」
「うん。……見送ってはくれないの?」
いつもは玄関まで一緒に行くが、流石に時間を取りすぎた。吉田さんを待たせすぎても悪いから、今日はここまでにしようと思っていた。
「一人じゃいけませんか。」
「……大丈夫よ。……服を着た私には、興味がないってことよね。」
「元気そうでなによりです。さあ、遅刻しますよ。」
「……帰りは、出迎えを待っているわ。」
「わかりました。絶対、行きますから。」
お嬢は小さく手を振って「いってきます」と言った。
ちょっとだけ、悪いなと思った。
⭐︎
吉田さんは俺に仕事を教えてくれた、直属の先生だった。割と年はいってるはずだけど、そんなことを感じさせない逞しさがある。
メイドと執事の割合的に女性が多い職場において、俺が気楽に話せるのは吉田さんくらいのものだった。
「コーヒーでいいですか?折戸くん。」
「ありがとうございます。ぁ、全然粉のやつでいいんで。……その、カフェオレとかで……」
「苦いのは苦手ですか。」
「すんません……子供舌なんですよ。」
柔和に笑った吉田さんは、流石の手際で二人分のマグカップを満たし、互いの前に置いた。
「それで、今日わざわざ呼び出したことなのですが。この間、お嬢様に鋏を向けたメイド、覚えていますよね。」
「そりゃ、もちろん。名前とかまでは知らないですけど、顔も……多分見たことありましたし。」
「彼女、……ヴォルトレクス・ムーヴメントの社員だったようなんです。」
俺は、吉田さんの言ったそのゔぉるとれなんとか、について全く納得を得られなかったので、なるほど、そうだったのか、というような顔をした。
「わかってないのはわかりましたから、そんなに難しい顔をしなくても大丈夫ですよ。」
「……すいやせん……勉強不足で」
「クロノス社が最近参入したアジア事業の競合です。微細な針を刺した状態を感知するセンサーが有名ですね。
お嬢様は、その潜入を見破ったのでしょう。」
クロノス社は、名前の通り黒乃巣家の財を成す我が社のことだった。ということは、
「産業スパイってことですか?」
「えぇ。大仰に聞こえますが、目的はそうでしょう。おそらく本丸は旦那様だったのでしょうが、目論見外れてお嬢様に見破られてしまった。」
それで刃傷沙汰なんて起こされたら、たまったもんじゃない。前にも感じた凍えるような悪寒が、心臓を凍てつかせる。
「俺も、疑われてるってことすか。」
「いいえ。折戸くんはむしろ一番潔白です。あれだけお嬢様の近くにいて、何も問題が起きていない稀有な人物ですから。」
毎日下着姿を見せつけられているのは、果たして問題ではないのだろうか。というか、人に向かって稀有とか言わないでほしい。俺だって、好きでお嬢の世話をしてるわけじゃない。
「伝えておきたかったんですよ。お嬢様を、守ってくださいね。」
これは仕事だ。言われなくても、そうするつもりだった。
⭐︎
お嬢の出迎えに行くと、先客がいて、お嬢はその先客と談笑していた。同年代くらいのメイドだったので、女の子同士のそれを邪魔するのも野暮かと思って踵を返す。
前は従者たちから怖がられるばかりで、そんなふうに話しているのなんか見たことなかったのに、少しだけ安心する。
すると俺の後ろから刺すような声が飛んでくる。
「折戸。」
お嬢からの愛の鞭が厳しかったときのくせで、びく、と体が跳ねた。そういえば、俺に対してもあんまり毒を吐かなくなったと思った。
「おかえりなさいませ、お嬢。」
「出迎えにきた主人に背を向けるなんて、いい度胸ね。」
お嬢は、わざわざメイドとの話を切り上げてきたようで、屋敷の玄関ホールには俺たち以外には誰もいなくなっていた。
「いや、他の出迎えがいたので……」
「私は、貴方に出迎えに来てほしい、って言ったのよ。」
言ってたか……?言ってたか。
「すみません、お嬢。おかえりなさい。」
「ええ。ただいま。今日は何時まで勤務なのかしら。」
「16時までですけど、なにかありましたか。」
「それじゃあ、それまで私と付き合いなさい。」
この時間になると、ほとんどの仕事はなくなっていて、メイドたちとお茶するくらいだったから、別にそれはよかった。でも、それはこれまでにはなかったイベントだったから、返答が遅れる。
「嫌なの?」
「……いいえ。何をすれば?」
「朝の分、私の話し相手になりなさい。ついでに、紅茶も淹れて。」
わかりました。そう答えた。
いつも通りの表情だったのに、ちょっとだけお嬢が寂しそうにしてるみたいに見えた。
「嬉しい……?」
「ぇ、嬉しい?あ、はい……光栄ですけど」
「……嘘が下手ね。」
あれ、怒られただろうか。
お嬢はじっと俺の顔を見て言った。
「安心なさい。私の側付きは、貴方だから。」
「……はあ、……それはどうも。」
「また嬉しそうじゃない。」
嫌な顔はしてなかったし、嫌だと思ってるわけでもないのに、伝わらないものだな。
「なんで俺を嬉しくさせようとしてるんですか?」
「私があなた以外の従者と仲良くしていたから、やきもちやいたのかと思って。」
「はぁ?……じゃなかった……そんなことないですよ。」
「そう……」
「はい」
お嬢はそのまま歩き出した。
俺もついていく。
「嫉妬、しなさいよ。」
多分、お嬢の機嫌は悪かったと思う。
⭐︎
お嬢は、俺の淹れた紅茶を飲みながら課題をやっていた。前に一度入れた時は、その味に大変後学のためになるお言葉をいただいていたから、少しだけ緊張する。
「ていうかこれ、俺いる意味ありますか?」
お嬢とテーブルに向かい合っている俺は、真面目に勉強なんてしたことがなかった。かたや、お嬢は名門女子校の主席である。教えられることなんてないし、逆に俺が教えてほしいくらいだった。いまさら勉強なんてしないけど。
「……帰りたいの?嫌だったからしら、私と二人は。」
「いやそういうことじゃなくて、俺、お嬢になんもしてあげられないですし。」
「いてくれればいいわ。暇だったら、たまに私を愛でてもいいわよ?」
「愛でる?」
お嬢は俺の手をとって、その小さな頭にのせた。
「こうやって。」
「は、はい……」
俺の暇つぶしにお嬢の頭を使えるわけないだろう。
状況が謎すぎて、お嬢が手を放してくれたらすぐにでも自分の手を引っ込めるつもりだった。
それなのに、お嬢はなかなか手を放さない。
「……撫でないの?」
「は、……はい……」
「撫でないの?」
「なんで二回目に入る。」
「撫でなさいよ。」
「大丈夫ですって。」
「撫でるべきだわ。」
「あー、もうしつこいなぁ……!」
お望みなら撫でてやる。でも、俺は大雑把だからそんな甘々な撫で方はしてやれないぞ。ちょっとした反撃も込めて思いっきり撫で回してやる。
「ほら、お嬢。あんまそんなことばっか言ってると、こうなりますからね。」
ぼさぼさになった黒髪。それでもアンニュイな美貌になるのは、もはや遺伝子レベルで敗北感を感じる。
ちょっとだけ傷ついていると、お嬢は自分の頭に触れて、笑った。
「ふふっ……あははっ……私のこと、犬とか猫みたいに思ってる?」
それはもう笑っていた。
今までも、お嬢の笑った顔は見たことがあったけれど、あれは微笑みとかそれくらいのもので、こんなに年相応の女の子らしく笑ったのは、初めてだった。
「勉強中にこんな撫で方されたら面倒でしょう。滅多なこと言うもんじゃないですよ。」
「そう?楽しくて好きよ。……強引にされるの、嫌いじゃないの。」
なんだか淫らな物言いになっているのは、多分俺の心が汚れているからだ。お嬢にそんな知識があるはずもないし。
「はぁ、ほら、髪、直しますから。勉強しててください。」
「うん。おねがい。」
お嬢のコームを拝借して、綺麗な髪をといていく。どうやったら、こんなに艶やかになるんだろう。思わず、その綺麗さに見惚れてしまう。
「私の髪、好き?」
「……綺麗だと思いますよ。」
「そう。なら、よかった。」
何が……?勝手に満足そうにされたので、わざわざ聞き返さなかった。
「どうして、ここで働いているの?」
お嬢の問いかけは、問題集のページに向けて放たれたから、そこに激突して俺に跳ね返ってくる頃には、随分か細くなってしまっていた。
「妹を、大学に行かせるためです。」
「……自分でそれくらい、どうにかするべきじゃないかしら。」
「お嬢はそう言うでしょうね。あ、いや、うちってあんまり裕福じゃないんで。俺くらいは、あいつが生きやすいようにしてあげなきゃ。」
お嬢は、そこから何問か問題を解いたと思う。
「貴方は、誰かに生きやすくしてもらったの?」
お嬢がそうやって言ったから、初めて言われた反問に手が止まる。
「さぁ、どうっすかね。」
⭐︎
「折戸くん、今、時間いいですか?」
寝る前に、玄関の横にある自販機に寄った帰り道だった。俺がカフェオレを持っているのを見て、吉田さんは揶揄うみたいに言ってきた。
「今日は徹夜ですか?」
「すみませんね。寝る前に。」
「いや、全然っす。明日、休みだし。」
俺の部屋は、お嬢の部屋と同じくらい広いものを用意してもらっていた。もちろん、寮だからあんなに大胆に家具を置いたりできるようにはなっていないけど。
「この前のメイドの話なんですが。」
「あぁ、お嬢を守れってやつ……それは」
「守らなくてもいいです。」
吉田さんが言った言葉を、俺はあんまり上手く飲み込めなくて、「えっと、」とか「あぁー」みたいな意味のない言葉でしか返せなかった。
「中東戦、はご存知ですか。」
お嬢に、ニュースくらい毎日見たら?となんの悪気もなさそうに世間知らずを突きつけられたばかりだったから、最近のニュースは見ていた。
この時代の日本で、爆破事件をしでかしたような連中だった。たしか、正式名称はもう少し長かったけど。
「ヴォルトレクス・ムーヴメントと繋がりがあるかもしれない、と。私たちに向けられた刃の柄を、テロリストが握っているかもしれない。
君に、そこまでの危険を強いることはできません。だから、危険だと思ったら、お嬢様を見捨てて、自分の命を優先していい。そこからは、私たちの仕事です。」
吉田さんは、何も言えないでいた俺に、爆破事件のことをいろいろ喋ったと思う。その事件に使われたセンサー技術が、調整されたヴォルトレクス・ムーヴメントのものだったとか、そんな感じだった。
俺は、その話を半ば他人事のように聞いていた。
吉田さんが帰るような素振りを見せたので、俺は何かを聞かないと、と思った。そうすることで、何かを誤魔化したかった。
「吉田さん。……その技術って、一体、なにに使われたんですか。」
俺の疑問に対して、吉田さんは疑問を抱かなかったみたいだった。それとも、全部わかった上で、知らないふりをしてくれていたのか。
「……遺体からは、アクセサリーの類は外すでしょう。」
俺はその前置きの意味がよくわからなかったけど、吉田さんが言った言葉の意味はわかった。
吉田さんはこう言った。
「デッドマンスイッチですよ。」
⭐︎
「おはようございます。お嬢。」
「おはよう。……少し、顔色が悪いようだけど。」
こっちが隠してんだから、見抜いてくんなよ。表情には出さなかった。気のせいですよ、お嬢。
いつも通りにお嬢の話し相手になって、制服を渡す。
視界がぼやけて、自分がちゃんと立てているかわからなくなった。
まずい、しゃがみこんだら、お嬢に体調が悪いのがバレる。弱いとこ見せてちゃだめだ。
「お、折戸……?ねぇ、……大丈夫……?」
やばい、心配されてる。もう、声しか聞こえなかった。お嬢って今、服着てたっけ。
微かな浮遊感があった。それで、なにか柔らかいものに受け止められた気がする。思わずそれを抱きしめて、回らない頭で必死に考える。こっから、挽回する方法は……
「おりど……っ、ねぇ……ねえってば……!力……つよい、いたいわ……」
「ぁ、……ごめん、おじょぉ……」
「折戸……」
俺が抱きしめてたのは、お嬢だったみたいだ。次こそ本当に意識が遠のいて、俺は情けなくぶっ倒れたと思う。
もう取り繕うのを諦めたおかげで、さっきより少し楽になった。
「……難儀な人ね。貴方も。」
お前にいわれたくねぇ。最後に、そう思った。
目が覚めて、医務室にいるのがわかった。
天井を見上げていたから、ベッドに寝かされていたんだろう。補強工事の関係でここだけ剥き出しになった配管が天井を這っていた。
「私が君にあの話をしてから、二日ありましたね。折戸くん。」
「うげ……吉田さん」
今、一番会いたくはなかった人に出会ってしまった。
俺がうげ、とか言ってしまったから、吉田さんはやっぱり、みたいな顔をした。
「お嬢様が、大変でしたよ。」
確かに、珍しく狼狽えてたもんな。なんにも見えなくなった視界の中で、俺を呼ぶお嬢の声を聞いていた。
「大泣きして私のところに着て、話もまとまっていないから君が倒れたというのを聞き出すのにも時間がかかった。」
「お、大泣き……?お嬢がっすか?病み上がりでも流石に騙されないっすよ。」
「なら、本人に聞いてみることですね。あんなに取り乱したお嬢様は、子供の頃以来です。」
吉田さんが、少しだけ優しい目をした。
自分の子供を思い出すようなその瞳が、俺にも向けられているのが、なんだかむず痒かった。
「さて、君を怒るのは、私の役目ではありませんね。頑張ってください。」
「え、なんすか……誰が怒るってんですか」
俺が倒れて怒る?そりゃ、勤務をほっぽり出したんだからそれは怒られても仕方ないけど、それなら怒るのは吉田さんのはずだ。
嫌な予感のする笑みを残した吉田さんと入れ替わるように、誰かが入ってくる。華奢で、綺麗な黒髪が、ぴょこ、とカーテンから覗いている。
「ぉ、……お嬢……」
「……、ふぅん…………」
変な冷や汗が出る。
「やっぱり、無理してたのね。」
「いや……そんなつもりはなかったっつーか。」
「……朝から、顔色、悪かったもの。私のこと、そんなに信用ならなかったかしら。私なんかより、よっぽど吉田のほうが頼りになるものね……。」
う……めんどくせぇ。
お嬢は、多分怒ってるんだろうトゲトゲした雰囲気で、俺のベッドの側にあった椅子に座った。学生服と鞄を持ってるから、学校から帰ってきたばかりなんだろう。
時計を見たら、もう夕方だった。
「やっぱり、……私のため……?」
「え?」
「貴方が無理するなら、私のためかと思って。」
自信過剰なのか読心が上手いのか。実際、違うとは言い切れないのがなんとも難しい。
「……別に、お嬢のためだけってわけじゃ、……ない。」
「それもそれで……嫌。貴方は、私の執事でしょう。」
「雇い主は黒乃巣さんです。」
「でももっと嫌なのは」
華麗に無視されて黙らされた。
「貴方が無理して……苦しそうな顔すること。」
妹にも、学費の話をするたびに、似たようなことを言われた気がする。あいつの場合は、もっと語彙が幼稚で汚いけど。
「……俺は、……お嬢のために無理したいんだ。お嬢だって、自分のために、無理するらしいじゃないですか。」
「貴方が私のことを大好きなのは、わかったわ。私もそれなりに好きだから、……安心していいわよ。」
なにを。
というか、好きとか嫌いとか一言も言ってない。
「でも、そんなに人のことばっかりじゃ、辛いわよ。」
お嬢の綺麗な瞳が、少しだけ赤らんでいる。見たくないものを見た。
「誰かのためばっかり考えていても、誰も、貴方の人生の責任は取ってくれないわよ。」
一瞬、お嬢のことを睨みつけそうになって自制した。どうせ、睨みつけてても、お嬢のその顔のせいですぐに萎縮したろうけど。
なんでまだ、泣きそうな顔してるんだ。
「痛いとこつくなぁ……お嬢は。病人なんだから、優しくしてくださいよ。」
「ふんっ……言うこと聞かない従者に、優しくなんてしてあげないわ。」
「悪かったから、機嫌なおしてくださいよ。」
お嬢は、握りしめた自分の手を見つめて、ぽつりと言った。
「……十年ぶりくらいに、大泣きしたわ。息もできないくらい泣いたの。足が震えて、うまく歩けなかった。目の前で倒れるんだもの。心が、びっくりしたんだと思う。」
「……それは、ごめん。」
「悪いと思ってるなら、抱き締めるべきだわ。私、心配したの。主人を安心させるのは、……従者の務めでしょ……?」
お嬢が腰をベッドにうつして、俺に両手を広げた。その体は、俺の両手の射程圏内にある。
なんだか、俺の理性は思ったより疲れていたみたいで、言い訳とか周りくどい言葉のいろいろが出てこなかった。というより面倒くさくて、なら、何も言わずにお嬢を抱き締めたほうが簡単だった。
痛くないように力を込めて、不安になるくらい華奢なお嬢を抱きしめた。自分からやれって言った癖に、ぴく、と驚いた風なのが心臓に悪い。
「しないほうが、よかったですか。」
「ううん……本当にしてくれると、……思わなかったから。少しだけ。少しだけ……びっくりしたわ。」
「すぐ放しますよ」
「ま、待って……っ」
腕を解こうとした俺の動きは、至近距離のお嬢には丸々と伝わってしまった。苛烈な細腕が、俺を強く掻き抱く。
まぁ、どっちかというと拘束が近かったんだろうけど。
「ちょっと……いま……貴方の顔、見れる気がしないの。」
思わずきゅんとしてしまう。耳元で囁かれたからだろうか。自分の見境のなさに自嘲する。
「下着見せるのは恥ずかしくないくせに、なんで抱きしめられるのが恥ずかしいんですか。」
「……わよ……」
「え、なんて……」
お嬢が呟いた言葉が小さくて、思わず聞き返す。
「最近は……恥ずかしかったわよ。貴方は全然、狼狽えてくれなかったけど。」
じゃあやめればいいのに。変なところで頑固な性格に、思わず笑みが漏れる。
「……ちゃんと……一番、色っぽいのを選んでいたし、……可愛いの、着けてたわ……」
「どこに労力発揮してんですか。」
「……でも、貴方は感想のひとつもくれないし。ちょっとくらい、可愛い、とか、綺麗、とか言ったらどうなのよ。」
「従者が言ったら、お世辞みたいになりません?」
お嬢の抱きしめる力が苛烈になる。
「女の子は……嬉しいわよ。お世辞だってわかるくらい適当でも、……褒めてくれたら、嬉しいの。」
「……そういうもんすか。」
「そういうものなの……っ」
ギブアップみたいにお嬢の肩を叩いて、腕をほどいてもらう。お嬢は、言葉の通りに俺の顔から目を逸らして、ちょっとだけ涙が光る瞳を、床に向けていた。
「今日からは……少し、休養を取りなさい。拒否したりできるような状態じゃないのは、わかってるわよね。」
お嬢の言葉は弱々しかったけど、逆らえるほどには弱くなかった。
「はい……明日一日、お休みをもらいます。」
「はぁ……?」
「え?」
あれ、なんか今、会話を間違えただろうか。
呆れたような、というかもうちょっと敵意すら感じるような視線が、俺に突き刺さる。
「三日は休養しなさいよ」
「いやいや一日寝てりゃ治りますよ。そんなに迷惑かけられません。」
「一日貴方のこと心配して過ごしたんだからもう迷惑よ。今日の授業の内容、ほとんど覚えてないのよ。
なら、あと一日も三日も同じよ。」
「じゃあ一日でいいじゃないですか。大体、朝ちょっとお見送りしなかっただけで寂しくなっちゃうような人が、俺なしで三日も生活できるんですか?」
「さ、寂しくなんてなってない……っ。あれは補填よ。だから、貴方が気に病む必要なんてないもの……!」
このお嬢さまは全く頑固な。ただの寝不足で三日も休みを取らされては、体が鈍って仕方ない。
「じゃあ一ヶ月お休みしてもいいですかっ!寂しくないならいいですよね」
「もちろんよ。それで貴方が万全になるならね。」
大見栄を切ったお嬢に、思わず極端な発想が口に出る。
お嬢はこともなげに言い張って、言い切ったその口で少しばかり疑問を問うた。
「…………本当に、一ヶ月も休むの……?」
めんっっっどくせぇお嬢様だな。
そうやって上目遣いで庇護欲をくすぐってるのは、遺伝子に刻まれた女の子の本能なのだろうか。
なら多分、それを可愛いと思ってしまう本能は、男の側に刻まれている。
「一日。」
「……みっか」
頑固なお嬢と、頑固な俺。どっちも折れることはないと察したのか、お嬢はピースして俺に言う。
「弁証法よ。間をとって、二日にしましょう。」
「べ、弁証法……?」
「対立している二つの意見を、上手く折衷して本質的な解決に導く方法よ。」
それは一体どの教科で習うんだろうか。
だか、それならまだ納得できる。俺とお嬢は、どっちの意見も通らない代わりに、どちらの意見も取り入れた折衷案で本質的解決である「俺の休養」という解決を手に入れるのだから。
「わかりました……二日、お休みをいただきます。」
「約束よ?私の部屋にリラックスしに来る以外に、仕事なんてしちゃダメだからね。」
「なんでお嬢の部屋に行くことになるんですか。」
「会いたくなったときに会えないのは可哀想だからよ。だからほら、指、貸しなさい。」
変な論理に付き合わされている気がするが、これも弁証法というやつがもたらしたものなのだというなら、納得するしかない。
俺は咄嗟に利き手を出して、同じタイミングでお嬢も利き手を出した。
「あ」
「あ」
俺の左手と、お嬢の右手が、中空で気まずげに向き合っている。
「……左利きだったのね。」
「えぇ、まぁ……」
「気づかなかったわ。」
「なんでちょっと怒ってるんですか」
「怒ってないわよ……ただ。あんまり、貴方のこと知らないのかな、って……不安になっただけ。」
変なところで素直なのが、お嬢に調子を狂わされる原因だ。利き手を知らなかったくらい、なんだっていうんだ。
「貴方のことをもっと知ることにするわ。」
「はぁ……」
「好きな女性のタイプを教えなさい。好きな下着が黒色なのは知ってるわ。」
引っ叩いてやろうか本気で迷った。
「ちなみに、黒髪、細身、清楚以外の特徴をいうのは禁止よ。」
「ひっでぇ誘導尋問。」
別に、俺のタイプは金髪でも巨乳でもギャルでもないからいいんだが。
「んじゃ、お嬢のタイプはどんなんですか?別に、制限はしませんけど。」
お嬢は俺から聞かれるなんて思ってなかったのか、少しだけぽかんとした後、「えっと、えと……」と考え始める。視線が上を向いていて、必死に想像してるのがわかる。
「……貴方は、どういう人がタイプだと、嬉しい……?」
「人のタイプをいいなりにしたりしないです」
「だ、だって……傷つくじゃないっ……全然違う子のこと、言われちゃったりしたら……」
俺の嗜好を検閲している自覚はあったみたいだ。
「だからっ……貴方も、もし女の子にそんなこと聞かれたら……私みたいな人、って、ちゃんと答えるのよ……?」
貴方も、って。もう既にお嬢はそういう答え方をしたみたいな言い方だ。頼むから貴方のお父さんの耳に入らないところでの会話だったと思いたい。
「ま、お嬢は魅力的ですからね。」
心の底から出た言葉だった。なのに、お嬢は「ぅ、うそ、……うそつきっ」となにやら動揺して出ていってしまった。
あんたほど真っ直ぐで眩しい人、俺は知らないよ。
お嬢に言われた言葉が、まだ頭をぐるぐると回っている。
⭐︎
次の日、俺は朝早くに目が覚めてしまって、外をぼんやりと眺めながら温かいカフェオレを飲んでいた。ベランダが心地いい季節になったものだ。
お嬢は会いにきてもいい、と言ったが、普通に考えたら休みをもらってるやつがのこのこ屋敷に行ってお嬢のもとに転がり込むなんて軋轢を生むだろう。
そんな自戒と純粋なめんどくささで、俺はぼんやりと外を眺めて時間を潰した。
すると、珍しいことにインターホンが鳴った。
俺は、気怠げな声を押し殺して応じた。
「はーい……って、なにやってるんですか、お嬢。」
お前が来るんかい、といった感じで、お嬢が俺の部屋に居た。お嬢の部屋は完全に洋室だから、座布団でよかったのかわからなかった。
「なんか飲みますか、お嬢。つっても、インスタントしかないんすけど。」
「敬語。」
「え?」
甘いものばっかりの飲み物のラインナップを手にしながら、俺はお嬢にたったの二文字で制されていた。
「今日はお休みでしょう。なんで敬語なのよ。年は、貴方の方が上でしょう。」
「いやいや、流石にそんな失礼なことは」
「主人の命令に従えないっていうの?」
「主人って自分で言ってんじゃないすか。ご主人様にタメ語なんて話せないです。」
むぅ……と見るからに不満そうなお嬢。
その膨らませた頬に、少しだけ赤みがあるのに気付いた。
「お嬢……ちょっと、それ」
そんなに目立ってるようには見えなかったから、肌に触れないようにお嬢の首を傾げさせた。
「っ、そ、その、っ……部屋に、来たのは……お見舞いのっ、つもりで、その、そんな気はなかったのよ……っ。そりゃ、なかったわけじゃなくて、あるかも、くらいは思ってて、そりゃ下着も……ちゃんと、したのに、してるけど」
「勘違いでよくもそこまで話せますね。顔近かったのは俺が悪かったです。」
お嬢から手を引いて、頬を染めたお嬢の視線がちゃんと定まるのを待つ。
「……お嬢、ほっぺた、どっかにぶつけました?」
「ああ、これね。本館でボヤがあったのよ。それで、どさくさのうちにぶつけたみたい。」
「ボヤ……?それ、……」
「ええ、大丈夫。ほんとに大したことはなかったから。心配してくれたの?」
「そりゃ、するでしょう……」
お嬢はついこの間死ぬかもしれないような刃傷沙汰に巻き込まれたんだ。怪我の絶えないような年齢でもないのに、そんなにわんぱくな頻度で怪我をされたらハラハラもする。
「ありがと……大事にされてるのね、私。」
俺を揶揄うみたいに見たお嬢は、俺が視線を逸らしたのを見て、また満足げにほくそ笑んだ。
「それにしても、結構綺麗にしてるのね。」
「あーまぁ。綺麗好きなやつがよく来るんで、一応。」
「だ、誰か……遊びに来るような人がいるの?」
この間も、使った皿を水に浸してただけなのに随分な誰ようだった。
「俺が外出ないんで、わざわざ来るんですよ。別にいいって言ったんだけどな。」
「な、なによ……その言い草。随分親密みたいじゃない。」
「親密って感じじゃないっすけど、まあ、切っても切れない関係ってのは、そうでしょうね。」
「その子には、敬語なの……?」
「なわけないじゃないっすか。あっちだって俺に敬語使ったことなんてないですよ。」
「ッ、そっ……じゃあ、その子とよろしくやってればいいじゃない。私なんか、ほっといて……」
そこでやっと、お嬢がなんか勘違いしてるのに気づいた。
「お、お嬢?」
「なによ。」
「よく来るやつって、妹ですよ」
「……そ、っか……ぇ、へへ……なら、よかった。」
うぉ……お嬢のちょっと蕩けた笑い方、可愛すぎて危ないな。思わずときめいた鼓動を落ち着ける。
「で、でも。私にだけずっと、その他人行儀な敬語なのは許せないわ。ずるいじゃない。」
何が。コロコロ変わる機嫌を秋の空に例えた人は、ちょっとオブラートに包みすぎたと思う。もっと雷雨とかにしたほうがよかった。
「お。お嬢、私服珍しいですね。可愛いですよ。」
「ふんっ……どうせ、誰にでも言うんだ。」
めんどくさっ。
─ * お嬢 と 執事 の 弁証法 * ─
中心東洋闘争戦団。通称、中東戦は、先鋭化しすぎた資本主義に対する闘争を掲げ、その手段は近年ではテロに分類されるほど凶悪化。
上場企業を中心に警告文を送りつけ、従わない企業へ破壊工作を行った。
しかしその裏側には、中東戦へと資金提供を行う組織の存在が指摘されていた。
組織犯罪ジャーナリストたちは、八◯一一革命の極左テロリストの残党を仄めかし、またある者は真の平和思想のために暗躍する原理主義者たちを揶揄した。
状況が一変したのは、神奈川県横浜市の警察署で起きた爆発事件であった。銃刀法違反といくつかの犯罪幇助により捜査対象となっていた男が、遺体として見つかった。
男は中東戦のメンバーが持つという地下出版の⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎を所持しており、これにより捜査が警視庁公安部の管轄へと移った。
捜査員は、身元と所持品から組織の背後関係を調べるため、遺体の手首についていた宝石のアクセサリーを取り上げた。その際、遺体の胸ポケットからの発火と予測される爆発が起こり、捜査員二名と警察署職員一名が死亡、警察署周辺を歩いていた一般人に瓦礫が直撃し、意識不明の重態を引き起こした。
公安部はこれを、ヴォルトレクス・ムーヴメントの針感応センサーを利用した、証拠隠滅用デッドマンスイッチと結論付けた。
そしてそれは、中東戦の資金源が果たしてどこにあるのか、という問いへ足がかりを作るような事件であった。
このうち、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎社が保有する⬛︎⬛︎⬛︎家の邸宅、および社員寮が襲撃を受け、そこで、針感応センサーを利用した二つ目の爆弾が、爆発を引き起こすことなく回収された。襲撃の前日に偵察を行ったと思われる犯人の女が残した痕跡を通報していたことで、早期のSATの介入が可能となった。
この事件で、犯人と目される女は死亡し、爆弾が設置された本館には当時、逃げ遅れた二名の一般人がいた。
─①─
爆炎と粉塵が吹き荒れ、立て続けに屋敷の窓ガラスが割れた。灼熱を伴った宣戦布告の音色を、その少女は酷く不快に残響した。
少女───黒乃巣えこは、いつぞやに自分が正体を見破った女についてを思い出し、また、その姿を現実のものとして認識した。
女は、復讐の目的も語らず、犯行の予告も行わず、ただ、えこを傍観するのみであった。対してそれに、えこもまた同じであった。
火の手は屋敷に徐々に広がりつつあり、煙の機嫌次第では大量の一酸化炭素中毒の死体が生み出されるはずだった。
女は、手製の酸素ボンベを背負い、えこから視線を外すことなくマスクを装着した。夕刻を告げる薄闇が、仄かな焔の灯りと、立ち上る黒煙にコントラストを描いていた。
視界を埋め尽くす真っ黒の煙の中、女は手首に刺した針のいくつかを抜いた。まるで、手榴弾のピンのように。どこかで、爆発の音が連鎖した。
煙を吸い、虚になる景色の中、えこはある従者についてを思い出していた。頼むから、この場からは離れていてくれ、とそう哀願した。しかし、神は人の心とは相容れなかった。
えこは、意識を失う直前に、その従者の姿をしかと認め、そしてまた、自分のある願いについても自覚した。
最期にその姿を見られてよかった。そう終着して、えこの意識は煙の中に埋没した。
えこを抱き、軽々とそれを持ち上げた従者は、その女についてを承知していた。女が構えた歪な直方体が、彼の視界の中で照準を合わせる。
プラスチックが割れるような高らかな破砕音と、実際に砕け散った黒い直方体が、その破片の中から弾丸を撃ち出した。
暴発に近い発砲は、もちろんその弾速を鈍化させた。しかし、流体力学や弾道学についてを一切解釈しないような形状の弾丸であったことも、鈍足な弾道の原因だった。
鉄屑のかけらのような弾丸は、えこを連れて逃げようとする従者の腿に分け入り、皮膚から筋肉までを抉り取った後に、骨に激闘して停止した。
その弾丸を放った女も、暴発の衝撃波によって指先を著しく損壊していて、しかし、彼女はそれに無頓着だった。
従者は、激痛に眩む視界の中で、えこを見た。
彼女を救うことができなかったという失意だけが、ただ、彼に蟠っていた。
─②─
目を覚ました時に見えたのは、お嬢と繋いだ自分の手と、お嬢と繋がれた自分の手だった。
まるで一つの手錠を分け合うように、俺たちは互いの手首に引っ張られていて、その鎖は、俺たちをこの部屋に繋ぎとめていた。見渡したそこは、お嬢の部屋だった。
「あぁ……くそ。こんなのが……最期かよ。」
本棚に背を預ける俺たちの前には、少しばかり、2mくらいだろうか。それくらいの距離に、お粗末な配線と梱包を施された継ぎ接ぎの機械が置いてあった。その機械と、俺たちの手枷は銅線かなにかで繋がれていて、その手枷は、俺たちの手首に小さな針を刺していた。
爆弾だった。どこからどう見ても、爆弾だった。
機械式の時計の文字盤と、デジタル表示の、おそらくは俺とお嬢が生きていられる猶予時間が、そこに示されていて、俺がこうして踏めない地団太を歯痒く思っている間も、それは刻一刻と減り続けていた。
「あと、十五分ね。」
「起きてたんすか、……お嬢。」
もっと泣き喚けよ。お前を守れなかった俺を、詰ってくれよ。
それでも、お嬢はいつも通りの、というより、いつもよりもよほど朗らかに俺に笑いかけてきた。
「貴方にこんなに密着することなんて、あまりないもの。堪能しておくわ。」
「……そんな場合じゃ……!」
「ねえ、折戸。」
お嬢の掻き消えそうな囁き声に、俺は思わず怒号の力を緩めた。
「私達、助かるわ。」
お嬢が指さした先、お嬢の部屋にはなかったはずのものが、二つある。
一つは、その爆弾で。もう一つは、廊下に飾ってあった騎士甲冑の置物だった。よほど俺より大きいそれに、銃刀法とかに違反しているんじゃないかというような巨大な斧を持っている。
「この針を抜いたら、多分、すぐに爆発するわ。」
少し前、吉田さんが言っていたことを思い出した。お嬢の近くにいて、何も問題が起こっていないからこそ、俺を信頼できると。
それはつまり言い換えれば、お嬢は、なんでもわかってしまうということなんじゃないか。
この屋敷に火を召喚びだしたあの女を暴いたのもお嬢だった。お嬢にはきっと、なんでもわかってしまうんだ。
俺が人のことばっかり気にしているのが、誰かに助けて欲しいことの裏返しだということも、お嬢にはわかっていて、だからお嬢は俺に、誰もお前の人生の責任なんて、取ってはくれない、と言ったんだ。お嬢は、俺すらも気付いていなかった俺の浅ましさを、気付いていたんだ。
あぁ、そうだよな。この状況が、まさにそうじゃないか。
誰も、俺の、お嬢の、この状況に責任を取ってくれない。精々、俺とお嬢の散り散りになった肉片に、顔を顰めるくらいが精々なんだと思う。なのに俺は、お嬢みたいに、自分の人生の責任に向き合うこともせず、ただ、自分の人生から目を背ける甘美な優しさにばかり傾倒して、それが執事なんて職業に結実した。
その終着地に、この部屋がある。
「俺が、お嬢を庇うよ。生かしてあげられるかは、ちょっと微妙だけど。」
「お断りよ。ちゃんと、助かる方法があるわ。」
お嬢が指したままの騎士甲冑を見た。
「あれ、重さを抑えるために、中身は空っぽなの。それと、裏側も、開いている。もちろん、使ってる材質は本物の鎧と同じはずだから、至近距離の爆風も多少抑えられる。貴方の肉壁よりも、よほど生存率は高いと思わない?」
それは確かに。やっぱり、お嬢にはなんでもわかってしまう。
「二人で同時に、この手錠を外す。そのときに、一緒にこの針も抜けてしまうでしょうから、信号があの爆弾に届く前に、鎧を盾にする。貴方の方が体が大きいのだから、先に走り出しなさい。私の方が小回りが利くから、リカバリーできるでしょう?
死にはしないわよ。安心なさい。」
「お嬢は、なんでもわかるんだな。」
がちゃがちゃと動かした手枷。この枷を外せば、センサーは爆弾に爆発の命令を出す。もしくは、爆発するな、の命令を途絶えさせる。しかし、手枷を外さなければ、あと十四分あまりで俺たちの命は木っ端みじんに弾け飛ぶ。
お嬢が言ったのは、一番現実的な手段だ。俺たちのどちらかが手枷を外した時点で、爆弾は爆発するだろう。同時に手枷を外して、二人であの甲冑の中に入る。多少間に合わなくても、死にはしない、助かるかもしれない。
「でもさ、お嬢。俺だって、そんくらいわかるんですよ……!」
どう見ても、どう考えても。
「あの鎧には、一人しか入らないだろ……」
「……。」
心外だ。そんなこともわからないと思ったのか。
俺は、なにもわからない。あれが爆弾だと思ったのも、なにも論理的な説明はできないし、あの爆弾が爆発する条件についても、お嬢ほど整理して考えられてなかった。でも、それでも。お嬢のことについては、多少は知ってるつもりだ。
「なんでも自分の責任かよ?……そうやって抱え込み過ぎた結果がこれだろうがッ……なんでそんなに自分ばっかなんだよ。お嬢がそうやって独り占めしてる責任のうち、本当にお嬢のものって、一体どれくらいなんだ……?」
俺と一緒に手枷を外す。二人で走り出す。お嬢の言うとおりにした俺が鎧に隠れる。そこで、俺は初めて、その鎧に二人は入らないことに気付く。薄闇の中で遠近感が狂っていて、お嬢が隠れられないことに気付かなかったと思考が止まる。そして、その薄闇を切り裂く爆炎が、最期、お嬢の顔を照らす。満足そうな死に顔が、ぐちゃぐちゃに飛び散る。
「ふざけんな!俺はお嬢の言った通りの人間だ……誰かに救われたくて、誰かを思いやる陶酔に中毒になってる情けない奴だ。でも、今この瞬間だけは違うって言える!俺は、お前を助ける。それは、俺が助けて欲しいからじゃない。お前を、助けるべきだと思ったからだ!」
俺は馬鹿だ。でも、そんなに馬鹿だったわけじゃない。
俺は、俺という甘え切った人間に、俺という人間のことを教えてくれたお嬢を尊敬してる。誰かのため、誰かのせい、じゃない。自分を持っていて、自分の人生を、自分の手でなんとかしようと足掻いているお嬢を、心の底から羨望している。貴女こそ、生きるべき人間だと思っている。
「だからっ」
「貴方こそっ……いい加減にしなさいよ!」
お嬢の声がそんなにも大きく聞こえたのは、初めてだった。
「誰も……誰も私のことなんて考えてくれなくたっていいって思ってた。お父様も、吉田も、私の人生には関係ない。だから、私は、私だけの力で、生きていく。そうするべきだって思ってた。なのに……!」
お嬢は、零れる涙を拭くこともせずに、真っ直ぐに俺を見ていた。
「貴方が、私のことばっかり……!私に、手を差し伸べるから……!誰も、私のことなんて考えてくれなくたっていいのに、貴方は、こんな状況になっても、私のことばっかり考えてる……!」
俺の肩に縋りついたお嬢の涙が、じんわりとジャケットを濡らしていく。
「怒りなさいよ……!所詮仕事でしょう?それなのに、死にかけてる……死ぬかもしれないのよ?もっと私を詰りなさいよ!殴って、痛めつけて、誹りなさいよ……っ、なんでこんなときまで、私のことばっかりなのよ!」
お嬢を撫でてあげたかったけれど、俺の利き腕は手枷に縛られていて、お嬢の利き手もそうだった。
そうだよな。お嬢。俺たち、相容れないよな。
そこで俺は、ある決断をした。
「なぁ、お嬢。」
─③─
廊下の先、血まみれになった女がいた。
多分、追い詰めたのは吉田さんだった。俺が声をかけると、吉田さんは少しだけ悲しそうな顔をして、でも、心底ほっとしたみたいに、俺の頭を撫でてくれた。少しだけ、くすぐったい。
「ありがとうございます。折戸くん。……本当に、すみません。」
「なんでっすか……むしろ、ごめんなさい。ちゃんと、守ってやれなくて。」
少しだけ拗ねたお嬢が、俺の足を踏んだ。
「ちゃんと……守ってくれたじゃない。」
「そ、っすか……」
吉田さんの目が、ネクタイのなくなった俺の襟元を見る。
「吉田さん。」
「……折戸くん。それは、そういうことになるんですよ。」
「俺じゃ……力不足っすかね。」
吉田さんは、瞠目して感情を押し殺したように見えた。
でも、俺はそうするべきだと思った。
「君がそれを知るということは、そこから先、に、君が関わることになるということです。」
「……俺は、……そうしたいんです。」
吉田さんは、中東戦のことを随分前から知っていたようだった。俺はお嬢に言われてからニュースを見ていたけれど、ヴォルトレクス・ムーヴメントと中東戦に関係があるなんて情報は一切出回ってなかった。吉田さんに中東戦についてを知らされた後、二日間の休みを使って、屋敷中と社員寮を調べ回った。
ほとんど寝ずに、怪しい動きを悟られないように神経をすり減らした。それで、ある部屋に行き着いた。
「では、君も今日から、黒乃巣家のシークレットサービスだ。」
吉田さんから、銃を手渡される。あの部屋で見たものと同じだった。
安全装置のレバーの下に、小さなエンブレムで「EGO」と書いてある。
「Eco Guardian Ordinance、折戸くん、EGOにようこそ。」
吉田さんの目が、明らかに変わった。
「これが、君の初仕事です。できますか?」
「はい。俺に、やらせてください。」
お嬢を吉田さんに預けた。俺は、おぼつかない右手で銃を向けた。
俺の目の前で、女は一丁前に満身創痍という風な風貌をしていた。でも、どうか安心してほしい。俺は、お前にデッドマンスイッチを使わせるようなことはしないから。
お前は、俺が、俺だけで完結させて、殺すことにするから。
「吉田さん。」
頷いた吉田さんが、お嬢の瞳を隠した。いくつか不満の声を上げたお嬢を、しかし吉田さんは決して放すことがなかった。
女は、俺の銃口に向けて、小さく口を震わせた。自前の酸素マスクの隙間から、か細い声が聞こえる。
「た、……す、け……て」
連続した弾丸の銃創が、女の額に風穴を空けた。
─④─
「お嬢、弁証法だ。」
爆弾のカウントは、刻一刻と減り続けていた。
お嬢は、俺を見上げて、涙で随分と儚げになった綺麗な顔を少しだけ傾けて見せた。
「死なないでよ……折戸。」
「死なないですよ……でも、お嬢の願いはかなえられない。それに、俺の願いも、かなえられない。でも、その二つの折衷で、本質的な解決は導き出せる。」
お嬢と、俺の弁証法だ。
俺は、視線で甲冑を見やった。この距離なら、足でひっかければあの斧を引っ張ってこれるはずだ。
柄を蹴ると、斧は俺たちの方に倒れた。その厚い刃を爪先にひっかけて、手の届くところまで引き摺った。
「……ふふ……私、嬉しい。」
「なんも嬉しくないっすよ……状況分かってますか?」
「ううん。わかってないかも。でも、貴方とまた一緒に居られるのなら、貴方が、そうやって自分のことも考えてくれるのなら、惜しくないわ。」
お嬢は、さっきまでの泣き顔とは一転して、可愛らしい笑顔をしていた。そうだな、そっちの方が、百倍可愛い。
「折戸……貴方の利き手、左手だったわよね?」
「えぇ、ですけど……」
「なら、よかったわ。これで、対等ね。」
苦笑が漏れる。そんなことを気にしていたのか。律義というか、真摯なお嬢様だ。
俺は、今日も今日とて乱れていたネクタイを解いた。ゆるく結んでいたから、片手でも解くことができた。
「ちょ、ちょっと……!対等じゃ、なくなるじゃない……」
「俺の弁証法はここまでで完成なんです。これだけは譲れない。許してくれるでしょう……お嬢?」
お嬢の右手首に、きつくネクタイを結んだ。
「そんな顔……されたら、断れないわ。……悪い従者」
俺は、慣れない右腕で斧を浮かせた。
「ごめ……じゃないな、ありがとう、お嬢。」
「ううん。痛かったら、たくさん泣くわ。ちゃんと、慰めて?」
「俺だって痛いですよ、多分。」
「なら、慰めてあげるわ。」
思わず二人で笑った。
「じゃあ、ね?」
「はい。」
そして俺は、自分とお嬢の手首を切り落とした。




