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作者:

〔場面:中学校・面談室(空き教室)〕


夕方、傾いた陽が窓から差し込み、教室の中に長く机の影を伸ばしている。簡素な教室に並べられたコの字型の机を囲んで、担任、生徒、保護者の三人が向かい合って座っている。静けさの中に、かすかな緊張が漂っていた。


佐野啓太(14)「……よろしくお願いします……」


伏し目がちに小さな声で言うと、机の上の連絡帳の端を指先でいじり始めた。


佐野久美子(42)「先生、お忙しいところすみません。今日は……よろしくお願いしますね」


ゆるやかな笑みを浮かべながら、会釈する。目の下の隈が、日々の疲れを滲ませていた。


夜区 奈具流(20)「ぃよろしこな!」


佐野久美子(42)「……あ、ええ……」


少し間を置いて応じるが、その口元はこわばっていた。


佐野啓太(14)「……」


一瞬だけ担任に目を向けたが、何も言わずに視線を落とした。


夜区 奈具流(20)「……ん? どうしましたか? なんか変なとこでもありました?」


佐野久美子(42)「……いえ、そんな……ただ、少し元気なご挨拶だったので……ちょっと驚いただけです」


笑顔のまま答えながらも、声はどこか遠慮がちだった。


佐野啓太(14)「……先生、あんまそういう感じじゃなかったから……」


ぽつりと漏らすように言った。視線は机の上から動かない。教室の空気が、ゆっくりと重たくなっていく。


夜区 奈具流(20)「ふむふむ。なるほど…では、ちょっとすみませんが…啓太くん、こちらに」


椅子を立ち、啓太を手招きして教室を出る。扉が閉まり、静けさが一層濃くなった。


佐野啓太(14)「……なに?」


夜区 奈具流(20)「おい、余計なこと言うんじゃねえよ…。今はいい先生としてやってんだよ、あんま調子乗ってっと『また』足の爪剥がすぞ…?」


超絶小声、しかし耳元にねじ込むようなドスの利いた声で囁く。その目には一切の笑みがなかった。


啓太は青ざめ、何も言わずにただ頷いた。


夜区 奈具流(20)「──さて、では続けましょうか!」


にこやかな声と共に教室へ戻る。先ほどのやり取りをまるでなかったことのように振る舞う。


佐野久美子(42)「……あの、大丈夫でした?」


夜区 奈具流(20)「ええ、ちょっと確認しただけです。気にされないでください」


佐野啓太(14)「……うん、大丈夫」


声は平坦で、目の奥には何も映っていなかった。


夜区 奈具流(20)「ではっ!啓太くんですが、家庭ではどのような子ですか!?」


佐野久美子(42)「え? あっ、はい……そうですね……」


言葉を探すように目線を彷徨わせながら、手元の膝にそっと手を置く。


佐野久美子(42)「うちでは……まぁ、あんまり喋るほうじゃないんですけど、部屋にこもって何か書いたり、本を読んだりしてることが多いです。

ただ、最近はちょっと、口数が減ったような……そんな気もしてて……」


佐野久美子(42)「反抗期っていうか……学校で何かあるのか、私にはちょっと……わからなくて……」


佐野啓太(14)「…………」


何も言わず、ただ俯いたまま、机の上の通知表をじっと見つめていた。


夜区 奈具流(20)「ふむふむ…会話とかはされてますか?」


佐野久美子(42)「会話……ですか?」


少し考えてから、首をかしげるように答えた。


佐野久美子(42)「うーん……最近は、挨拶くらい……?『おはよう』とか『ごはんできたよ』とか、そういうのは返ってくるんですけど……

ちゃんと向き合って話すっていうのは、正直、あまりないかもしれません」


視線を啓太の方に向けようとして、途中で止める。


佐野久美子(42)「でも、小学校のときは、もっと色々話してくれてたんです。些細なことでも……『今日はこんなことがあった』とか……」


声がかすかに揺れた。


夜区 奈具流(20)「それはなんでだと思いますか?」


佐野久美子(42)「えっ……あ、えっと……」


突然の問いに、戸惑いを隠せず目を伏せた。


佐野久美子(42)「……たぶん……私のせい、かもしれません」


佐野久美子(42)「仕事が忙しくて、帰るのも遅いですし……家にいても、正直、ちゃんと向き合えてなかったなって……

話そうとしても、私が疲れてるのを気にしてるのか、あの子から引いちゃうことが多くなって……」


佐野啓太(14)「…………」


ただ俯いたまま、何も言わなかった。机の上に置かれた資料の端が、静かに震えていた。


夜区 奈具流(20)「んー、そっかぁ…」

(考えるそぶりをしながら、顎に手を当てる)


ゆっくりと手を顔の前に上げると、反対の手で資料をずらして手元を隠す。そのまま鼻へと指を滑り込ませ、静かに奥を探りはじめる。掘り進めること数秒、指先に硬い感触が当たり、わずかに眉が動く。


やがて──でかいのが取れた。


夜区 奈具流(20)「スッキリしました!」


佐野久美子(42)「…はい?」


夜区 奈具流(20)「いや!ですから、お母さんの抱える不安と啓太くんのここ最近の行動が今ので一致したんですよ!」


佐野久美子(42)「……はぁ」


夜区 奈具流(20)「…ニコッ」


にこやかな笑みを浮かべ、話し出す。


夜区 奈具流(20)「啓太くん、学校では思春期の具現化のような行動をされていまして、もしかしたらそのような行d…」


佐野久美子(42)「…ッ!…あの!!」


制止するかのように声を張り、担任の言葉が止まる。


あからさまに怒りを含んだ表情で続ける。


佐野久美子(42)「…啓太が、ここにいますが…?」


少しの沈黙──

数秒後、理解したかのように担任が口を開く。


夜区 奈具流(20)「あ!では、啓太くんは一旦廊下は出ていってもらえますか!?」


鼻くそを指に添えたまま、軽く手を差し出して廊下を指す。


佐野啓太(14)「……………はい……」


声は小さく、目を逸らしたまま立ち上がると、何も言わず教室を出ていった。


ドアが閉まり、静けさが戻る。

落ち着きを取り戻した佐野久美子が再び口を開く。


佐野久美子(42)「……あの」


夜区 奈具流(20)「はい」


佐野久美子(42)「ただ…先ほどのお話ですけど……わかる気がするんです。

思春期って、子どもがどんどん自分で考えて動き出す時期ですし……親としても、急に距離を取られたように感じたりして……。

何を信じて、どう見守ればいいのか、難しいですよね。私自身、今のままでいいのか、よくわからなくなります」


少しの沈黙後、担任は、これに対する回答として0点の答えを叩き出す。


夜区 奈具流(20)「何か、こう、ご家庭でもそのような動きがある感じですか?」


軽く手を握り、上下に動かす仕草を添える。その曖昧な動作が何を指しているのか、言葉以上に空気に含みを持たせた。


佐野久美子(42)「…………」


目を瞬き、何かを測るように担任の顔を見つめた。反応に困っているのは明らかだった。唇がわずかに開いたが、言葉は続かず、空気だけがゆっくりと重くなっていく。


その空気に気付き出した、担任が徐々に動きを遅くし、股間の辺りで人差し指を立てる。


人差し指の先には──鼻くそが。

これに気づいた担任が焦って口を開く。


夜区 奈具流(20)「…………あっ…申し訳ありません、これは、その…先ほどデカいのが取れてですね…啓太くんに引っ付けてから廊下に出したつもりが、あ…違くてですね…」


笑ってごまかすように、鼻先を指でかきながら説明する。まったく別の話をしはじめたその姿に、佐野久美子の顔から一気に血の気が引いていく。


佐野久美子(42)「」


唖然としたまま言葉が出ない。目を見開いたまま、ただじっと担任の顔を見る。


佐野久美子(42)「……は、はな……っ?」

(口元が引きつりながらも、何かを確認しようとするように)


その視線は担任の指先と、先ほどの不可解な手の動きの記憶を往復していた。まったく別の意味での動作だったと気づいた瞬間、戸惑いが倍加する。


夜区 奈具流(20)「やば」


そう小さく漏れるようにつぶやくと、次の瞬間、机の上に開いていた黒いファイルを勢いよく──いや、反射的に──パンッと閉じた。


乾いた衝撃音が静かな教室に炸裂する。紙の反響ではない、表紙が空気を叩いた純粋な音。音の芯が濃く、余韻さえ残るようだった。


佐野久美子(42)「………………っ」


瞬間、肩を跳ねさせ、目を見開いたまま固まる。呼吸が一拍止まり、視線が宙をさまよう。

まるで一瞬にして何かが初期化されたかのように、顔から表情が抜け落ちていった。


佐野久美子(42)「……………ここ……どこ……?」


微かに、まるで夢の中のような声でそう呟いた。完全に、飛んでいた。


夜区 奈具流(20)「あ!佐野さん、こんにちは!」


満面の笑顔で立ち上がり、佐野久美子の手を勢いよく握る。手のひらに、あの乾いた感触──鼻くそ──がそっと添えられている。


佐野久美子(42)「……ぁ……ぅ……?」


手を握られた瞬間、微妙な異物感に気づくが、それ以上にその状況が理解できず、口元が何度も開いたり閉じたりする。


夜区 奈具流(20)「アレ…?今日啓太くんは…?」


軽く首をかしげながら、周囲を見回す。生徒の姿がそこにないことをあえて指摘し、まるで最初から母親だけが来たかのような空気を作り上げていく。


佐野久美子(42)「……えっ……あれ……? 啓太……?」


目の焦点が合わず、動揺と混乱が表情に浮かび続ける。自分が何かを忘れているような、重大な勘違いをしてしまったような錯覚に囚われ、完全に言葉を失った。鼻くその存在に気づく暇もないほど、思考が追いつかない。


夜区 奈具流(20)「……ッッッ!」


こらえきれずに吹き出し、肩を揺らしながら爆笑する。その瞬間、右目から義眼がカランと床に転がり落ちた。だが何の説明もなく、ごく自然な手つきで拾い上げると、軽く息を吹きかけて埃を飛ばし、そのまま目元へ──何事もなかったかのように装着する。


夜区 奈具流(20)「お母さん…どうしましょう?」


目元をほぐし、急に優しげな声に切り替える。


夜区 奈具流(20)「一旦、お家に帰って啓太くんと一緒に、もう一度いらしていただいてもいいですよ!?」


満面の笑みをたたえ、さも“少し天然な保護者のうっかり”を笑って和ませたかのような雰囲気を装う。


佐野久美子(42)「……あ……はい……そう……ですよね……」


まだ混乱が残る顔のまま、曖昧に頷く。義眼の件にも、鼻くそのことにも触れられず、ただ自分が何か大きな勘違いをしていたような気がしてならない──その思いだけが彼女の中にじわじわと広がっていた。



夜区 奈具流(20)「うんうん!間違えは誰にでもあります!」


堂々と胸を張りながら、教卓の前で語り始める。


夜区 奈具流(20)「私も過去の過ちで右目は義眼になり、前歯は3本しかなく、指先には大きめのイボが出来る身体になってしまいましたが、こうして胸を張って生きています!」


義眼のことはサラリと流しながらも、指先はどこか不自然にポケットの奥へ──鼻くその件だけは頑なに伏せようとしているのが明らかだった。


佐野久美子(42)「………………」


その表情はもう“驚き”の域を超え、“無音の嵐”のような混乱のど真ん中にあった。額にはじわりと汗が滲み、視線はどこにも定まらず空を彷徨っている。


夜区 奈具流(20)「だから、お母様も是非今回のことはお気になさらないでください!」


夜区 奈具流(20)「本日は一度ご帰宅いただきますが、今のメンタルでは危なさそうなので、こちらの教室を使用していただいて構いませんので落ち着きましたらご帰宅ください!

では、私は一旦失礼いたします!」


締めの言葉を早口で畳みかけるように言い放つと、ドアを開け、ぱたんと閉める。


教室に残された佐野久美子は、しばらくその場に固まっていたが、ゆっくりと椅子に座り直す。


佐野久美子(42)「……私……どうして……来たんだっけ……?」


視線は遠く、記憶の糸を手繰るように宙を見つめながら、既にないはずの「今日の目的」を、自分の中に都合よく組み立て始めていた。


一方──


廊下を進んだ夜区奈具流の足取りは軽やかだった。まるで今の混沌を振り返ることもなく、啓太の待つ廊下の先へ、にこやかに歩みを進めていた。


夜区 奈具流(20)「おい、ガキんちょ」


先刻、ファイルを勢いよく閉じた音の余波で、啓太の耳はほとんど機能していない。


夜区 奈具流(20)「今日は……教頭んちへ帰れ」


口の動きと僅かな空気の揺れのみを耳が捉え、辛うじて一切関係のない“教頭”という言葉を理解した。

いや──正確には理解出来なかったが、今の彼にはどうにかして、僅かに機能するその耳で、既知の言葉として捉えて自らを安心させる必要があった。


啓太は聞き返すこともできず、ただ目を瞬かせている。


その瞬間──

夜区 奈具流は、啓太の耳元で指をパチンッ!と鳴らした。


その軽い動作からは想像が出来ない爆音が響き、ここで啓太の耳は完全に破壊された。


啓太が痛みを感じる間も無く、廊下の奥、ゆっくりと音もなく近づいてくる二つの影。

無表情で、トゲトゲの首輪を巻いた、まったく同じ顔を持つ人物が二人。制服の袖には「副管理指導」と読める刺繍が見えた。


その姿は、見上げるほどに巨大。


夜区 奈具流(20)「今、教頭を2体召喚した。Aの方に乗って、一緒に帰れ」


啓太の耳にはもう何も届いていないが、廊下の先から迫るその「二体」を前に、頭の中は真っ白になる。何も理解できない。理解するのを諦めるしかなかった。


気がつくと、そのうちの一体が目前に立っていた。


教頭A(年齢不詳/身長2m18cm)「Let’s go.」


低く落ち着いた声とともに、啓太をそっと抱え上げると、そのまま肩に乗せて歩き出す。もう一体の教頭は後方で静かに並走していた。無言で、完璧に同じ歩幅で。


啓太は抱き上げられた瞬間、天井に頭をぶつけ、鈍い衝撃が視界を揺らした。

感覚が遠のき、身体が後ろへと崩れていく。その途中で──


扉の隙間から、教室の中にいる母と目が合った。


だが、そこにいたのは「母親」ではなかった。


髪は乱れ、口角は不自然に引きつり、目はまばたきもせずこちらを見つめていた。

笑っているようにも見えたが、それは何かを忘れた人間だけが浮かべる、意味のない笑みだった。

両手は膝の上で固まり、指先だけがピクリピクリと動いていた。


顔立ちは同じなのに、そこに宿るものがまったく違っていた。

心の奥にあった「母の輪郭」が、ぞわりと剥がれていくのを啓太は感じた。


あの瞬間、彼は確かに気づいてしまった──自分はもう、あの人の「息子」ではないのだと。


どこで変わってしまったのか。誰が、何を壊したのか。

それを考えるには、啓太の意識はあまりに滑らかに、深く、遠くへ沈みすぎていった。


そして世界は、ふたたび音もなく、幕を下ろす。


──完

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