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「ジェニー!? あいつと婚約したって本当か!? 嘘だよな!? あんな奴と!?」
「あんな奴って……ウィルお兄様、アーデン様とはご友人だったはずでは……」
「あんな奴、友人なんかじゃない! ジェニーに近づくような奴なんて!」
「お兄様……」
ユージェニーは呆れて溜息をついた。
呆れてはいるが、もちろん怒ってはいない。妹として大切にされてありがたいと思っている。ユージェニーが絡まなければ兄は良識的だし、その見識を尊敬している。ライルが悪い人ではないだろうか、ある程度の信頼を置いていいのか、そうしたことを考えたとき、兄の友人だから大丈夫だろうと判断したのだ。そんなことを兄に向かって直接言った暁にはどんな反応をされるか怖いから言わないが。
「お兄様だって分かっているでしょう? あのパーティでのことを収めるためには、こうするのが一番よかったのだもの。もちろんご本人のお許しを得なければ出来なかったことだけど……」
あれだけの人目のある中で未婚のユージェニーが男性とキスを交わしてしまったのだ。医療行為なのは事実だが押し通すには苦しいし、眉をひそめる者も多いだろう。いっそ本当に婚約者ということにして、あれをお披露目のようなものに位置づけるのが苦肉の策だ。
「だが……!」
ウィルは納得いかないように呻いているが、納得してもらうしかない。ウィル以外の二人の兄にも、父母にも。
一応、説得材料はある。
「婚約というだけで、結婚とはまた別なのだもの。それに、私の魔力過多が治まるのだから……」
正直それだけでも大ごとだ。ユージェニーの病弱さの根本的な問題である魔力過剰、それを解消する手段があるというのはありがたすぎる。魔力過剰は症状それ自体だけが問題になるのではなく、そのせいで体力を奪われ、間接的に他の問題が起きている。ひどい時にはベッドから起き上がれなくなるくらいだが、それがなくなるのだ。
(それを思えば、キスくらいどうってことない、はず……)
恋心を持たない者どうしで軽々しく行うものではないのだが、魔力過多の解消という理由は大きすぎる。
(健康なお兄様には分からないでしょうけれど……)
そんなことを分かってほしくもないが、体が弱ってベッドから起き上がれずにいる時の絶望とやりきれなさは耐えがたいものだ。体が弱っているときに心だけ強くあることはほとんど不可能で、心が体に引きずられるようにどこまでも落ち込んでいってしまう。世の中から取り残されるような感覚に焦り、健やかに幸せに過ごしている人を妬み、どうして自分だけ苦しまなければならないのかと憤る、そんな心情を兄たちは共有しないし、させたくもない。
(ああ、でも一人だけ、分かってくれる人がいた……)
小さい頃のことだが、ユージェニーと同じように魔力過多に苦しむ少年がいたのだ。病院で出会い、辛さを共有して慰め合った。熱を出して朦朧としていたこともあり、どんな少年だったかあまり覚えていないのだが、無事に成長できただろうか。
そういえばその少年は、魔力過多を治す方法を見つけたいのだと言っていた気がする。医療魔術師になって自分で自分を治すのだと。ユージェニー自身は医療魔術への適性がないことを自覚していたから素直に感心して応援するくらいしかできなかったが、もしもその少年の夢が叶ったら、ユージェニーの魔力過多も解決するかもしれない。ただの楽観でただの希望だが、そうした慰めがあってもいい。
「とにかく、そういうわけだから。お兄様もアーデン様にあまりあれこれ言ったりなさらないでね。お互い納得ずくのことなのだから」
「俺は納得していないぞ!」
そんな風に兄は認めまいと喚いていたが、ユージェニーは気にせず家を出た。過保護で心配性な兄の言うことをすべて聞いていたら何もできなくなってしまう。しかもそうした兄がユージェニーには三人もいるのだ。
道を歩く足取りが軽い。それは別にライルに早く会いたいからという理由ではなく、単純に体が軽いのだ。魔力過多をすぐに解消できるようになってから倦怠感が薄れ、体に本来の活力が戻ってきている。血色もよくなり、顔色がよくなったと言われる。……兄たちはそれを、まさか恋でもしているのではないか、などと騒いでいた。もちろん取り合わずに聞き流したが。
向かう先は、病院の敷地内の一角にある研究棟だ。ライルはそこに研究室を持っており、拠点にしている。仮眠が取れるくらいの設備はあり、食事はすぐに調達できる、洗濯できる場所もある、掃除も頼むことができるという便利さで、家にはほとんど帰っていないらしい。
(研究熱心な方なのよね……)
ユージェニーは医療魔術こそ専門外だが、研究活動自体には馴染みがある。いくつかの研究機関に顔を出しているし、研究者たちと親交がある。体が弱くなければ研究者になっていたかもしれない。兄たちが許さなかったかもしれないが。
そうした状況にあるユージェニーにとって、ライルとの会話は楽しいものだった。部外者が見てはいけないもの――患者の個人情報などが含まれていたりするもの――でなければ分析や実験にも参加させてもらえたし、良い刺激になっている。新しい魔術の着想を貰うことも多く、日々が充実している。
(……キスも、慣れてきたし……)
慣れてはいけないものだとは思うのだが、体が楽になるのだから仕方ない。褒められたことではないと思いつつ、そう思うのはライルに失礼とも思いつつ、なるべく考えないようにしてやり過ごしている。
救いなのは、ライルの態度があっさりしていることだ。べたべたと馴れ馴れしく触れ合うこともなく、礼節を保って適度な距離を取ってくれている。そうした相手でなければ、ユージェニーはとっくに我慢できなくなって逃げ出していただろうと思う。
婚約のこともそうだ。対外的に一応は婚約者であるということにしてくれているが、だからと言って何を要求されるわけでもない。一つだけ、よそに恋人を作るようなことはしないでくれと言われたが、当然の要求だと思う。
ライル自身も独身でパートナーもおらず、勘当されているため家どうしの面倒な付き合いも必要なく、名目上の婚約者として都合がいいことこの上ない。
万事うまくいっているのだが、強いて一つだけ問題を上げるとすれば……ユージェニー自身のことだ。ライルとのことによってとは知られていないだろうが、ユージェニーが健康になりつつあることを知った未婚の男性たちが、婚約を取り消して自分にしないかと言ってきているのだ。
(もちろん、取り合う気はないけれど……)
面倒なことにならなければいいのだが、と思いつつ、ユージェニーはライルの研究室のドアをノックした。