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「どうぞ。こんにちは、ユージェニー嬢」
「お邪魔します、アーデン様」
キスを交わしているとはいえ、婚約者どうしであるとはいえ、二人の距離感はこのくらいだ。少し意味は違うが、割り切った関係と言えるだろう。
(言えるはず……よね?)
キスの最中、その直前や直後、ライルの目に熱情のようなものが垣間見える時がある気がするのだが、気のせいのはずだ。錯覚のはずだ。今こうしているライルは涼しげな表情で、女性に執着するようなことがあるとは想像しにくい。白衣に眼鏡という格好もその印象を助長している。パーティの時は抑えめながら優雅な服装で、眼鏡を外してそうした正装をするとまた印象が変わる。
だが、眼鏡でも美貌は隠せていない。用があって同僚や他の魔術師たちと話をしている時も、女性たちからよく熱い視線を送られている。病の後遺症という問題を抱えていても、なお視線を惹きつけているのだ。
(……そういえば、どんな病だったのか、後遺症についても……あまり具体的なことを知らないのよね……)
魔力の生成ができなくなってしまったということは知っている。魔力貯蔵器官は無事だということも知っている。魔術師としても、年頃の男性としても、非常に大きなハンデを背負っていることは分かる。
だが、それがどんなものなのかよく分からない。痛いなどの身体的な苦痛があるのか、食事や活動に制限が加えられているのか、そうしたことが分からない。結婚相手として敬遠されているということだから遺伝的な問題があるのだろうとは思うのだが、いかんせん専門外だし、本人に聞くわけにもいかないので確実なことが分からない。興味本位で聞いていいものでもないので、迂闊に触れることができないでいる。
「どうかしましたか?」
「いえ、すみません。少し考え事を……」
不躾に見てしまっていただろうか。ライルが首を傾げるのにユージェニーは首を横に振った。
(見たところ、問題を抱えているようには見えないのだけど……)
ユージェニーが知っている限り、ライルは食べたり飲んだりするときにあまり気を遣っていないように見える。魔術を行使するときに結晶を使うのも、それだけを見れば特段おかしいことでもない。魔力が少ない人や、他属性の魔力も併せて必要になる魔術を使いたい人や、大掛かりな魔術を使いたい人など、魔力結晶を用いて魔術を使うことは往々にして選択肢に入る。魔力のすべてを結晶に頼ることが珍しいだけで、行っていること自体は普通と言ってもいい。
見れば見るほど、何というか……普通に問題なく生活しているように見えるのだ。そうした普通を実現するために多くの苦労をしているのかもしれないが、ユージェニーから見ても気づけない。
ぼうっと考えてなんとなくライルの姿を目で追っていたユージェニーは、ライルが何気なくしている行動にぎょっと目を見開いた。
「アーデン様!? 何をしていらっしゃるの!?」
驚きすぎて言葉が砕けてしまうが、そんなことを気にしている余裕はない。ライルの白衣の袖を掴み、彼がしようとしていることを咄嗟に止める。ライルは驚いたように振り返るが、驚いたのはこちらの方だ。
「何って……実験ですが」
ユージェニーが袖を掴んだ方のライルの手には、注射針が握られている。見間違いでなければ、彼はそれを躊躇いなく自分の腕に刺そうとしていた。袖まくりをしたこと自体には大して気を留めていなかったのだが、注射をする準備だと見ると話が変わってくる。
「実験って……その注射をご自身にお試しになることがですか!?」
「……? 実験は試しと同義だと思いますが……」
「ご自身に! 私が問題にしているのはそこです! 私の勘違いでなければ、その薬液はまだ人に試したことがない新しいものですよね!?」
つい先日、彼が構想したばかりのもののはずだ。ユージェニーもアイデアを出したから印象に残っている。
こうした実験に倫理的な問題はどうしても出てきてしまうものだが、この国では、重い罪を犯した者への新薬の実験的な投与が認められている。だからといって何でもしていいわけではなく、安全性の基準を満たすためのデータを提供する必要がある。そのデータをこんな短期間に集めて提出して許可を得るなんてことはできるはずもなく、ということはそうした過程を無視して自分自身を直接的に実験台にしようとしているということだ。
そこでようやく、ライルはユージェニーが言わんとしていることを理解したようだった。
彼の理解が遅いというわけではない。理解力や発想力などの頭の回転は相当な速さだし、人の心の機微が分からないわけではない。
(そうではなくて……)
焦れているユージェニーに、ライルは困ったように言った。
「人体実験には煩雑な手続きと短くない時間がかかりますし……自分で試せば早いので」
「早いとか……そういう問題ではありません!」
「大丈夫ですよ? きちんと計算しましたし、私なりに安全を確かめていますから。それに……」
ライルは途中で言葉を呑み込んだ。ユージェニーはそれに気づいたが、そこを追及するよりも他にすべきことがある。
彼を止め、認識を確認することだ。
「アーデン様がそう仰るなら安全なのだろうと思います。ですが、それとこれとは別です。そうした制度は発案者の身を守るためにあるんですよ? 煩わしいからといってすっ飛ばすなんて、そんなこと……」
唇を震わせるユージェニーに、ライルは少し困ったような、眩しいものを見るかのような表情をした。
「ユージェニー嬢は……ご家族に大切にされているのですね」
「確かにそうですが、どういった関係が……」
言いかけたユージェニーはライルの表情を見て口を噤んだ。こちらに向ける視線に悪意はもちろん無いが、隔意というか諦観というか、そういったものを感じる。それがひどくもどかしく思えた。
「アーデン様がご自身を大切になさらないのなら、私が大切にいたします! ご自身で人体実験をなさるような無茶な真似はお止めください!」
彼は勘当されたということだし、もしかしたらそれ以前から家族仲がよくなかったのかもしれない。そんなことを考えていたユージェニーは、自分が何を口走ったのか分かっていなかった。
目を見開いてこちらを見るライルの視線に、ようやく自覚が追い付いてくる。
「あ……! 私、えっと、あの……!」
慌てるユージェニーにライルが苦笑した。
「分かっていますよ。心配してくださっただけですよね」
自ら線を引いて後ろに下がるようなライルの態度に、放っておけないものを感じる。
「その……! アーデン様は兄のご友人ですし、私にとっても兄のようなものだと思っていますから……!」
「……兄、ですか。家族のように思ってくださるのは嬉しいですが、もっと違う形があるのでは?」
「え……?」
「冗談です。でも、あまり私を勘違いさせないでくださいね?」
そう言うライルの目に、キスのときのような熱が見えるのは……本当に、気のせいだろうか。




