ここより永遠(とわ)に
黒い渦が急速に近づいてきた。
魔法の遠視で視なくとも、すでに目視できるほどの距離だ。それは異様に発達した黒い積乱雲のようだった。
「な、なんだあのバカでかい雲は……!?」
「禍々しい力を感じる、邪悪な意思が感じられる……あれは、なんだ?」
魔法使いの一人がよろめいた。
「魔導師を倒したんじゃなかったのか!?」
「それとは違う、何かもっと恐ろしいものだ」
「じょ、冗談じゃねぇぜ……!」
魔導師の巨人を倒し、勝利に沸いていた兵士たちが悲痛な表情に変わる。周囲は再び騒然となった。
ベレルヘレム上空に達した黒い積乱雲は巨大で、ゆっくりと渦を巻いていた。中心には洞窟の入り口を思わせる黒い穴が開いている。そこは闇よりも黒く、光を吸収してしまう虚空があった。黒曜石のように滑らかな球体のようにも見える何かが。
「黒色球体、伝承の『冥界門』か……!?」
レブレフ副将が絞り出すように呻いた。屈強な大男の声は明らかに震えていた。
まるで夜の帳が下りたように、あたりは闇に包まれた。
黒雲が都市の上空を覆い尽くすと急速に周囲は暗く、気温も急低下。嵐のような風が吹き荒れた。
雲はかなり低く、尖塔の先端が隠れるほどだ。手を伸ばせば雲に手が届きそうな位置で、不気味な黒雲が頭上に垂れ込める。
「いったい、何がどうなってやがる!」
「魔導師でもねぇとなりゃ、何をすりゃいい!?」
「ありゃぁこの世の物じゃねぇ、俺たちにはどうすることもできねぇ……」
兵士や魔法使いたちは右往左往し、どうすることもできない。渦巻く黒雲と黒色球体を見上げるより他はなかった。
「どうやら、魔導師を失った暗黒の力が、ワシらを……感知し接近してきたようじゃな」
止血を終えたヒメノが上半身を起こした。視線の先、渦巻く嵐の中心には不気味な球体がある。
「魔導師の置き土産、地獄の門。ヘルズゲートってわけね」
肩をすくめる。風が金髪を弄ぶなか、アメリコは真っ直ぐに黒色球体を睨みつけた。
確かに何かの意思を感じる。とてつもなく邪悪な何かが此方をじっと窺っているような。肌が自然と粟立つのを感じる。
「これは……マズい展開じゃ。十中八九……ロクでもないものが出てくるぞい……」
刀剣召喚を試みるヒメノ。だが重症ゆえか、光が収斂せず刃を召喚できない。
「……ダメじゃ、力が入らぬ」
「ヒメノ、まだ動いちゃダメだよ」
チャイと救護班がヒメノをフォローする。
「オーケー! ヒメノをよろしくチャイ。なんにしても、あの気味悪い魔導師の遺産、ヘルズゲートを叩き壊せば今度こそハッピーエンド! 終わりって事に変わりはないわ」
アメリコは意識を集中、銃器召喚を行う。
超大型の高射砲、あるいは強力な地対空ミサイルが欲しい。
「Oh、マイガ。私もパワーが足りない……」
手から光が生まれない。やはり力を使いすぎたのだ。
召喚のパワーが枯渇し、巨大な銃器や兵器は形を成さなかった。辛うじてハンドガン、コルトガバメントを手にすることができた。
「ま、使い慣れた銃が一番ね」
楽天的に微笑んで見せるが、拳銃ではとても太刀打ちできないのは明らかだった。
「仕方なかろう。巨人相手にミサイルをバカスカ撃ちおったのじゃから……」
「ポジティブシンキング! 成せばなる、大抵なんとかなるわ!」
上空の黒色球体に狙いを定め、発砲する。
乾いた音が数回、響いた。
黒い雲を背景に、赤熱した弾丸の軌跡が吸い込まれてゆく。
「あー、ダメみたいね」
9ミリの弾丸では、上空の黒い孔には何のダメージも与えられない。
命中はしたが、まったく効果はない。
「いや、反応はあったようじゃ」
「って、悪い予感のする変化ね」
アメリコの攻撃に反応があった。黒色球体が黒い雲を引き寄せるように、渦が激しく回転しはじめた。ゴウゴウと吸い込む様子は、まるでブラックホール。黒色球体の表面が波打ち、ボコボコと泡立つように蠢きはじめた。
「物見の魔女! 詳細を観測できるか?」
「やってみま……………ヒッ、イイイイッ!?」
黒い球体に意識を向けた途端、魔女が白目をむいて失神した。
「なっ……!?」
アメリコとヒメノも恐る恐る、黒色球体に視線と意識を向ける。
禍々しい気配の先に感じる違和感。二人は思わず言葉を失った。
「な……なんじゃあれは……」
「Oh……マイガッ……!」
頭上の黒色球体の表面の泡立ちは、無数の黒い怪物どもの蠢きだった。信じられないほどの数。まるでキャビアの表面だ。目のない真っ黒なヌメヌメとした異形の怪物どもがひしめきあっている。
「あれは……異界の怪物どもの卵巣じゃ……!」
怪物どもの卵が今にも弾け、地上に墜とされようとしていた。
無量大数、どれほどいるかは想像もつかない。
粘液質の絡まる黒いロープ。あるいは悪魔の胎児の群れ。異質な異次元の生命体だ。それが黒色球体の正体だった。
「地獄のゲートとはよくいったものじゃ……」
「魔導師はあんな怪物をフレンド登録、地上に墜ろしたかったわけ!?」
「……あるいは騙されておったか」
「騙されて……?」
「わからぬ。全ては闇のなかじゃ」
ヒメノが青い顔で唇を噛んだ。もはや魔導師の真意など、知る術もない。
だが明らかに異次元の異種生命体――生命と呼んでよいかさえ定かではないが――は好意的とは思えなかった。
ヒメノは目眩を感じへたりこんだ。頭痛で視界が歪み、冷や汗が流れる。震えが止まらない。
傷の痛みだけではない。生命として、根元的な恐怖を感じているのだ。
「ヒメノ、僕がいるよ……!」
チャイが震えた手でヒメノを抱き抱えた。
「すまぬ……」
「わ、私まで震えてきたじゃない。でも、なんとかなる……なる……わよね」
アメリコでさえ恐怖で銃を持つ手が震えている。
「……もう、ダメだ……」
「世界の……おわりだ……」
「俺たちは…………ここで……死ぬんだ」
兵士たちから絶望した呟きが漏れた。目を虚ろにし、手から剣を落とし、膝を折ってゆく。
誰もが本能で理解していた。
対抗する手段はない。
圧倒的に邪悪な脅威を前に、なす術がない。
それは魔導師やスレイヴスの比ではなかった。
黒色球体を視界に捉えただけで脚がすくみ、恐怖で頭がおかしくなりそうだ。
「怖い……嫌だ……いやだぁああ」
「ああああ! 無理だ……こんな」
黒いオーラのような霧が、人々の身体から発せられた。
それは煙のように立ち上ぼり、上空の渦へ。集まりながら黒色球体へと流れ込んでゆく。
黒色球体がボコボコと激しく泡だち、むくむくと膨れ上がりはじめた。
『…………キ■§‰キ◆∈キキキ°¶……!』
「うっ……!?」
「なんじゃ……これは」
突然、頭の中に不協和音のような、不快な音が響きはじめた。
黒板を爪で掻きむしる音、頭蓋骨を引っ掻く甲高い角笛の音色。不快で苦痛で冷たい音階の濁流が、脳を浸食する。人々は悲鳴を上げて頭を抱え、叫び出すものさえいた。
歓喜している。
黒色球体で蠢く異次元の怪物たちが。
彼らの喜びを意味する歌が、地獄の鎮魂歌のように頭のなかで反響する。
人々から黒い煙のような何かが遊離し、それを吸い込んだ黒色球体はますます膨らんでゆく。
「そういうことじゃったか……」
ヒメノは理解した。震える唇から声を絞りだす。
「ヒ、ヒメノ」
「異次元の怪物たちは、人間の恐怖や絶望、負の感情を餌にしているのじゃ」
だから魔導師は無数の魂を集めた。生け贄、供物として人間の悲しみや恐怖、絶望という負の感情をエサとして差し出すことで彼らを呼び寄せた。それが意図してか、あるいは操られていたかは知らないが。
「だからって、今さらどうすれば……!」
アメリコは歯軋りしながらも耐えている。敵の素性がわかっても、絶望的な状況は変わらない。
呆けた顔で立ち尽くす兵士、泣き崩れる魔法使い。ケタケタと狂ったように笑いだす魔女。人々は完全に魂を侵されていた。
何も反撃の手段がない。
もう誰も何も――
「こんな気持ちの悪い声に惑わされちゃダメ!」
「せめて歌うよ……僕らが」
声が響いた。
「……に、兄ちゃんたち……?」
それはチャイの兄たちだった。
麗しい美少女にしか見えない兄弟が、手と手を取り合って立ち上がっていた。
苦痛に顔を歪め、恐怖に押し潰されそうになりながらも必死耐え、勇気を振り絞っている。
チャイが兄たちに駆け寄り、せめてもの支えにとアイテムで風の防御を展開した。
兄弟は息を吸い、静かに声を発する。
――――あぁ、天の光よ――――♪
凛とした歌声が響いた。
暗い地の底に、清廉なる聖歌が耳に届く。
「……なんと美しい歌声じゃ……」
「ビューティフル、コーラス……!」
まるで澄みわたった青空。光と風を思わせる清涼な歌声が、恐怖と絶望に染まっていた心に静かに染み渡ってくる。
――――輝く星の、聖なる導きを――――
「おぉ……これは」
「歌だ……」
「天使の……声?」
麗しい少年エルフたちの姿が瞳に映るや、兵士たちの目に光が戻った。
暗闇に包まれようと、勇気を忘れない。
勇気の炎を灯す限り、絶望などしない。
希望を失わなければ、道は必ず開かれる。
「そうだ……まだ……」
「立つんだ、俺たちが……」
「戦う意思を……示すんだ!」
「ここで終われるものかよ……!」
兵士たちが、歯を食い縛り立ち上がった。
怯えていた街の人々も顔を上げる。魔法使いが勇敢な顔つきで杖を構え、魔女が穏やかな表情で祈りはじめる。
魔法使いと魔女が歌を世界に広めてゆく。
世界じゅうに歌が届いてゆく。
魔法の波動に乗せて、人々に届ける。
絶望と恐怖に打ち勝つ、聖なる歌を。
「立て! 恐怖に負けず、あの化け物に戦う意思を示すのだ……! それこそが、我ら人類の抵抗の証! 掴みかけた未来を……手放して渡してなるものか!」
レブレフ副将が剣を振り上げ叫ぶと、兵士たちもそれに続き気勢をあげた。
『…………忌ィ¶ァ◆ニ§ヾ‰ルあ死……ッ!』
黒色球体が歪み、表面に皺が刻まれた。
不快だとでも言いたげに、身をよじるように。
「負のエネルギーが届かなくなり、苦痛を感じているんだわ!」
「アメリ子、ワシらも……ゆくぞなぁあ!」
ヒメノは立ち上がって己に活をいれる。気合いの叫びと共に空間から刀剣を召喚した。
妖刀、村雨。ムラサメ・ブレード。
あまりにも切れ味が鋭く、人の血を吸う呪われた刀、斬魔の剣と呼ばれた妖刀。
「もちろん諦めたりしない!」
アメリコもコルトガバメントを握り直す。強い弾丸がほしい。あの化け物を貫けるような。
――――輝きよ、聖なる導きよ――――♪
チャイの兄弟の歌声が高らかに響く。
頭の中の霧が晴れてゆく。人々がふたたび立ち上がるたび黒雲が明らかに乱れた。
渦を巻いていた暗雲がちぎれ、ついに雲間から太陽の光が差し込んだ。
『…………ギ■§‰ァ◆∈j9-2]ァア錏錏ァア!?』
黒色球体の表面が激しく波打つ。
悲鳴のような怒りの波動とともに、無数の触手が放たれた。
関節だらけの指が無数に絡み合う、狂気の鞭が襲いかかる。
「わ、わああっ!?」
チャイが悲鳴をあげた。黒い雨のような触手の束は明らかにチャイと兄たちを狙っていた。
「させぬ……!」
ヒメノは地面を蹴って飛び出した。虚空を舞いチャイたちの頭上に躍り出る。そこへ黒い触手が殺到した。
「ヒメノ!」
「全力じゃッ! 秘技……『千手防衛』ッ!」
村雨を青白く輝かせ、ヒメノが円月を描くように刀を振るう。残像を伴う無数の刃が、襲来する黒い触手を破砕してゆく。腕も刃も消えず、それぞれが黒い触手を迎撃する。
「質量を持った、残像……!?」
ヒメノはまるで千手観音のように、黒い触手を次々と切断し、切り刻んだ。
チャイと兄弟を守護する鉄の傘を展開させる。
「ぬぅぉおおおッ! させぬ、この者たちはワシの……お楽しみタイムじゃぁあああっ!」
吐血しながら勇気を、渾身のパワーを放つ。千の煌めきが、黒い触手を迎撃する。
「Oh……これは!?」
ヒメノの叫びに呼応したかのように、アメリコの胸で星形のペンダントが輝きを放った。
アメリコは声を聞いた。
―U S A!
―USA……!
――俺たちを、私たちを、力に! と。
ペンダントに封じられていた国民の魂が叫んでいる。熱き正義の叫び。それはヒメノの持つ封印の勾玉でも同じだった。
ヒメノの胸でも勾玉のペンダントが光る。
「ぬぅ、お主らもか……!」
二つのペンダントが空中へ飛び出した。
淡い光を放ちながらペンダントが絡み合い、螺旋を描き一つになる。
光はアメリコの手に戻ってきた。それは七色に輝く弾丸に姿を変えていた。
アメリコとヒメノのペンダントが一つになり、膨大なエネルギーを秘めた弾丸と化したのだ。
「……でも、これは」
失われた旧世界の記憶そのものだ。
米国と日本という国で暮らしていた人々の記憶。人生、歴史が折り重なり結晶化したもの。
失えばもう、おそらくは戻らない。
「ヒメノ、いいのね?」
「構わぬ。過去よりも未来を。それがワシらの意思じゃ」
「……未来……!」
アメリコは瞳を輝かせた。
頷くと弾丸を込める。銃をスライドさせ弾丸を送り込んで、頭上の黒色球体に狙いを定める。
聖なる歌で滋養を絶たれ、醜く歪み、今にも腐汁を撒き散らしながら破裂しかねない悪魔の巣を。
――光よ、導きたまえ――
美しいエルフたちの歌声を背に、引き金を引く。
「さよなら」
静かに祈りを添えて。
アメリコの銃口から放たれた弾丸が、一条の光となった。
黒色球体に穴が開いた。
ぱっと、花ひらくように。その先には青い空が見えた。
音もなく。水面を覆う黒い油膜に石鹸水を垂らしたように。まばゆい光が生まれ、黒色球体をドーナツのように霧散させる。
『ギ曦■§‰ガ◆ア¶錏ァ°―――――』
光が炸裂し、黒色球体を消し飛ばした。
二つの世界の対消滅は、宇宙開びゃくに匹敵する光のエネルギーを生んだ。黒い異次元の異形たちを、あるべき場所へと還してゆく。
光は圧倒的な輝きとなり、地平線の彼方まで照らし出した。
――ここより永遠に――
歌声と暖かく優しい光が、世界を満たしてゆく。
それはあたかも、神話の天地創造のような光景だった。
★●
静寂が訪れた。
暗雲も黒色球体も消滅し、風が戻ってきた。
「……終わったのぅ」
「エンドロールがエルフの歌なんて素敵ね」
大の字に寝転がる二人。手を差し出したアメリコに、ヒメノがそっと手を重ねた。
太陽は傾きつつあった。空は晴れ渡り壮大な眺めだ。
天頂に星の輝きがあった。
「……あれは?」
「きっと希望の星ね」
弾丸から生まれた、新しい惑星だろうか。そこには青い海と大地があるのだろうか。
新しく生まれた黄金色の星は、二人を静かに見守るように輝き続けていた。
次回、最終回