第9回没案:アリスが落ちてこない!
「アリスが落ちてこない!」
ウサギのルイスはそう呟いたっきり、枯れ葉の山に顔を埋めて、ピクリとも動かないんだ。ご自慢の真っ白な毛皮には、葉っぱのかけらがびっしり付いているのだけれど、そんなことまったく気にしていない。それくらい、彼の気分は沈んでいたんだよ。いつもピンと立っている長い耳は、そのまま溶けてしまうんじゃないか、ってくらい、ぐにゃぐにゃになって枯れ葉に埋もれてた。
彼はそれから、溶けたアメーバみたいに寝返りを打ってね。天井にぽっかり空いた穴を、しばらくじぃっと見上げたと思ったら、また、
「……ああ、アリスが落ちてこない」
って呟いた。何度呟いたって、アリスは落ちてこないっていうのにね。そんなことは彼だって分かっていたけれど、どうしても呟かずにはいられなかったのさ。それぐらい、不思議の国は、切羽詰まっていたんだよ。
――え? アリスが落ちてこないと、どうなるのか、って?
『不思議の国のお話は――はじまらないで――おしまい』
だからルイスは本当に困っていた。どうしてアリスが落ちてこないのか、見当も付かなかったし、どうすればアリスが落ちてくるのか、想像もできなかった。だって今までは、何もしなくても、「あ、そろそろかなー」って思った時には必ず、アリスが落ちてきていたのだから。こっちからわざわざアリスを呼ぼう、なんて、ちっとも考えなかったのさ。
ルイスはもう一回、ぐんにゃりと寝返って、枯れ葉まみれになった。
「どうしよう。どうしよう! このままだと、不思議の国が壊れてしまう!」
って、朝からずっと同じことばかり、ブツブツ言ってはゴロゴロしている。
「ああ、どうしよう。アリスが落ちてこないと、不思議の国は狂人だらけになっちゃって……それできっと、終わってしまう!」
この頃すでに、国の端っこの方に住んでいたヒトたちから、だんだんと狂いはじめていたんだ。
――狂うとどうなるのか? うーん、それは、ヒトによるんだけどね。たとえば聞いた話だと、お隣さんが狂ってしまって、毎日毎日狂乱騒ぎ。お皿を片端から割ってみたり、その破片を集めてグツグツグツグツ煮てみたり、それからその煮汁をパンに練り込んで食べてみたり、とにかく尋常じゃない、って言うんだ。(って、ルイスにそう教えたヤツも、どうやら狂っていたらしくって、話してる間中ずうっと柱をつついていた。彼はオウムだったんだけど、どうやら自分をキツツキと勘違いしていたらしい。)
この分だと、真ん中辺に住んでるみんなだって、もうすぐ狂ってしまうだろう。お城を守る兵士だろうと、不思議の国の不思議病は、止められないのさ。
そう、これは“不思議病”っていう流行病でね。
これを治すには、真っ正面から「どうして?」「なんで?」「おかしいじゃない」って言わないといけないんだ。
――ルイスたちが言えばいいじゃない、って? ごもっとも。僕もそう思う。
けれどね、それが、駄目なんだよ。不思議の国の住人たちはね、不思議病のヒトを見ても、「ああ狂ってるんだなぁ」って思うだけで、心底疑問に思うってことが出来ないんだ。だってそもそも、“不思議の国”に生まれてるんだから。「そういうこともあるんだね、不思議だなぁ」って思って、それでおしまいってわけ。
だから、別の国のアリスが必要だったんだ。
けれど、アリスは落ちてこない。
ルイスはまたまた寝返りを打って、ついに自分から枯れ葉の下に潜り込んだ。いっそこのまま枯れ葉になってしまいたい、なんて、思ったぐらいさ。
「おーい、ルイスー!」
ルイスを呼ぶ声が、どこからともなく聞こえてきたから、彼はのそのそと顔を上げた。枯れ葉がパラパラと顔の周りに飛び散って、彼は小さく「くしゅんっ!」くしゃみをした。
「や、いたいた。珍しいね。君のような綺麗好きが。どうしちゃったんだい?」
やって来たのは帽子屋だ。もちろん、まだ狂う前だったから、マッドは付けずに帽子屋って呼んでいた。
彼はルイスのために、枯れ葉の上に膝をついた。彼はとっても背が高いんだ。立ったまま話をされたのでは、ルイスの首がおかしくなっちゃうくらい。狂った後は、ずうっと座りっぱなしでいたから、君は気が付かなかったかもしれないね。
ルイスは憮然として答えた。
「どうしちゃったもこうしちゃったも、落ち着いてなんかいられっこないだろう、帽子屋。だってアリスが落ちてこないんだもの」
「それなんだけどね、ルイス」
と、帽子屋は、湿った新聞紙みたいに微笑んだ。
「女王様が、どうにかできるかもしれない、ってさ。それで僕に、ルイスを呼んでくるように言ったんだ」
「なんだって? 本当に、どうにかできるのかい?」
「女王様の言うことには」
「そいつは素晴らしい! そうとなったら、急いでお城に行かなくちゃ!」
ルイスは飛び跳ねるように立ち上がった。勢いそのまま、走り出そうとして、けれど帽子屋に引き留められた。
「ああ、待ってくれ、ルイス」
「なんだい?」
「これを貰ってくれないかな」
そう言って帽子屋が差し出したのは、金色の懐中時計だ。
ルイスは目を真ん丸にした。
「これって、君が随分と大切にしている、時間くんじゃないか」
「うん」
「時間くんを手放すって言うのかい? あんなに大切にしていたのに!」
帽子屋ははっきりと頷いた。彼はこの国で唯一、“時間”を理解して、大切に扱っていたヒトでね。たとえ狂ったとしても、時間くんだけは手放さないだろうと思っていたから、ルイスは本当に驚いたんだ。
なんで時間くんを差し出したのか、って、その理由は、この時のルイスには分からなかった。けれど――彼が正気であっても、狂気であっても、時間くんを差し出すってことは、きっと尋常なことじゃないぞ――そう思って、ルイスは懐中時計を受け取ったんだ。
帽子屋は、ありがとう、って言う代わりに、帽子のつばをちょっと持ち上げた。こういう気障な仕草だって、狂っていない頃の彼には、よくよく似合っていたんだよ。
「それじゃあ、僕は先にお城へ行っているからね。出来るだけ急ぐんだよ、ルイス」
「分かった。じゃあ、また後で!」
そうしていよいよ、ルイスは走り出した。
女王様の元へ行くならば。ルイスは急いで自分の家に戻った。まずはこの枯れ葉だらけの毛皮にブラシをかけて、それからベストを一番上等なものにして、シルクハットはこの間買ったばかりのあれがいいな、それから……それから……
なんてやってる内に、昼をすっかり過ぎてしまってね。急いで、って言われたけれど、彼にとっては身だしなみっていうものが、本当に大切だったのさ。
ルイスはお城に向かって一生懸命走った。
「遅い! 遅いぞ、ルイス! お前が計画の要だというのに!」
案の定、ハートの女王様はカンカンでね。真っ赤になって怒ってた。お城には、帽子屋はもちろん、猫もネズミも揃っていて、みんながルイスを待っていたようだった。
ルイスはぺこぺこ頭を下げて、帽子屋の横に並ぶと、そっと耳打ちした。
「僕が計画の要、って?」
帽子屋はゆっくりとしゃがんで、ルイスのシルクハットを一通り褒めてから、こう言った。
「アリスを呼びに行くのさ」
「へぇっ?」
ルイスは飛び上がって驚いた。確かに、来てくれないなら呼びに行く、っていう、その考えは分かったよ。けれど――ルイスは首を傾げた。
「そんなことが、出来るのかい? 一体全体、どうやって」
「首をちょんぎるのさ!」
と言ったのは、シマシマの猫だ。お察しの通り、チェシャ猫だよ。まだ狂う前の彼だから、笑いながら消えたりはしないんだけど。彼の場合、性格はあんまし変わらなかったね。けたけたと笑うのも、この時からおんなじだ。
猫はけたけた、けたけたと笑いながら、
「首をちょんぎって、それから魂を取り出して、風にふんわり乗せるのさ。そうすりゃ、気付けば向こうの国。どっかの誰かの体に入って、不思議じゃない国の住人になれるってわけだ。そうなりゃ直接、アリスをこっちに呼べるだろう?」
「ふーむ、それはすごい計画だ!」
ルイスはすっかり感心して、手を叩いた。これでこの国は救われる! ってね。
ところがその時ふと思って、ルイスはもう一度首を傾げた。
「……で、誰が首をちょんぎられて、不思議じゃない国に行くんだい?」
すると全員がルイスを見て、
「「君さ!」」
って、そう言ったものだから、ルイスはもうびっくり仰天。当然、「ええっ! どうして僕が! 帽子屋だって猫だって、ネズミだっているじゃないか!」って喚いたけれど、その時にはもう、帽子屋の手で、台の上に乗せられていてね。
それ以上は何も言えなかった。
――ジョキンッ!
大きなハサミの閉じる音が聞こえたと思ったら、世界がぐるぐるって何回転もしてね。その中で、みんなが笑っているのが見えたんだ。そっか、やっぱり、もうみんなも狂っちゃってたのかなぁ。まぁ、仕方ないか。だって不思議の国だもの……なんて思ったのを最期に、ルイスは死んじゃったんだよ。
そうして、ルイスは僕、チャールズ・ドジソンになって、この不思議じゃない国に生まれてきたっていうわけさ。――ねぇアリス、この話、本当に面白い? ……そっか、君がそう言うなら、もう少し続けてみようか。
――いや、生まれた時から、ルイスの記憶があったわけじゃないんだよ。僕はあくまで、チャールズだった。
そうだね、それじゃあ次は、僕が、ルイスのことを思い出した時の話をしようか。