第9回没案:僕らの英国魔法戦線~スリム・ウルフは悪夢にも容赦しない~
がくん、と頭が落ちて、アーネストは目を覚ました。咄嗟に辺りを見回せば――当然ながら、居場所は眠る前と変わらずバス停のベンチ。両隣にはヴィンセントとダニエルが座っている。辺りは真っ暗で、霧雨が遠くの街灯を腑抜けた色に変えていた――間違いなく、平穏無事な現実世界、絵に描いたようなロンドンの片隅。
アーネストは安堵の息を吐いた。帰ってきたのだ――まったく楽しくない夢の国から。
ヴィンセントはスマートフォンをしまって彼を見た。その濃紺の瞳には、呆れの色がありありと浮かんでいる――だって、あんなに揺すったのにアーネストが起きなかったせいで、バスを一本乗り過ごしたのだから。
「おはよう、アーニー」
「……おう」
彼がアーネストのことを愛称で呼ぶときは、主に馬鹿にするときだ。けれど、今のアーネストにそれを気にする余裕はなかった。悪夢のざらりとした感触が、今も胸の奥にわだかまっている。
いつもなら夏の青空のように輝いているアーネストの目が、どんより曇っているのを見て、ヴィンセントは口調を改めた。
「うなされてたけど、一体どんな夢を見てたんだ?」
「はっきりとは……でも、なんか、殺される夢だった」
「自分が殺される夢は吉兆だ、ってよく聞くけど」
「いや、自分じゃなかった」
「自分じゃない?」
「殺されたのは俺じゃない。ただ、俺の意識は、その、殺された人の中にいて、その人の視点から見てたんだ。で、ちょっと離れたところに“俺”がいるんだよ。すっげー慌てた顔してこっちに来ようとしてるんだけど、全然間に合わないんだよな。ヤバい、ヤバいって思ってる内に、銃声が聞こえて、目の前が真っ赤になって――そこで起きた」
「へぇ。普通に悪夢だな」
「だろ?」
包み隠さずしゃべって、アーネストはようやく気が抜けた。汗が染み込んだ金髪を掻き上げ、しらじらしい溜め息をつく。
「いやぁ、ついにこの俺も予知夢の才能に目覚めちまったかな?」
「そういうことは、不可視性魔法の赤点を全部回避してから言うんだね」
「うっ」
「案外その夢も、赤点のことを言ってるんじゃないか? 銃は期末テスト、遠くのアーネストは現在の君で、他人だと思っているのは未来の君。今の君が努力しなかったせいで、未来の君は銃、つまり期末テストに撃たれて、赤点をくらう――ってね。どうせそんなとこだろ」
「うぐ……」
「うわぁ、リアルだねぇ。それっぽいなぁ」
「ダニー、お前だってインビジブルは苦手だろ!」
アーネストは、他人事のように笑っているダニエルへ噛みついた。
するとダニエルはちょっと肩をすくめて、
「アーネストほどじゃないもん。短距離なら大丈夫! ……まぁ、長距離と超距離は無理だけど。あんなの出来る気がしないよ」
「わかる。インビジブルでオーバーとか絶対無理だって」
沈痛な顔をしてうなだれる二人の横で、涼しげに小首を傾げる男が一人。
「そうか? 余裕だろ」
「ヴィンスはな……」
「ヴィンスはね……」
「ま、特訓にならいくらでも付き合ってやるよ。悪夢が正夢にならないように」
「頼む!」
「僕も!」
「その前に職業体験があるけどな。体験先の希望調書、そろそろ締め切りだろ」
「そうだっけ? 僕まだ真っ白だよ」
「俺もー。魔法庁とか絶対行きたくねぇし。それに――」
アーネストが唐突に言葉を切り、残った二人も口を閉じた。
青年の一団が、大声で話しながら彼らの前を横切ったからである――無論、それだけなら、彼らがおしゃべりをやめる理由にはならないのだが。
問題は、最初に聞こえた言葉が、
「魔法使いなんてさ、実際しょぼいんだろ」
だったことだ。
「最近出たさぁ、VRの魔法使い体験、あれやってみたけど、あんなの現実で出来るわけねぇって。雷を落とすとかさ。やった?」
「あー、あれな。やったよ。でもまぁ、ゲームだし」
「神秘主義とかなんとか言ってるけど、あれって絶対に言い訳だよな」
「それ俺も思ってた。すげーこと出来ねぇから、そう言って隠してるだけなんだろ」
と、大笑い。自分らを睨みつけている魔法使いの卵たちのことなど一瞥もしないで「そんなことよりさ、最近噂のアプリ、知ってるか? あれさぁ――」などと上機嫌に話しながら、霧雨の中を歩いていく。
その背が完全に消えて――剣呑な顔付きをしていたアーネストが、ぼそりと呟いた。
「雷。落とすか」
「えっ?」
「久々に気があったな、アーネスト」
「ヴィンスっ?」
ダニエルがあたふたするのをすっかり無視して、アーネストとヴィンセントは立ち上がった。二人向かい合って、片方の手を重ね、もう片方の手で青年たちの消えた方を指差す。
「距離と方向は任せろ」
「了解。最大火力でいいな?」
「もちろん」
ダニエルは慌てて二人の腕を掴んだ。校外での魔法の私的利用は固く禁止されているのだ――バレたらただじゃ済まない!
「ちょ、ちょっと二人とも、落ち着いて! 駄目だよ! バレたら僕ら、退学――」
「バレなきゃいいんだよ、バレなきゃ!」
「そんな……っ!」
「よし、やるぞ! ソネットの十四番だ!」
アーネストはダニエルの腕を振り払って、一方的に宣言した。
思い出すのは、『魔法詩文集【上級編】』の内のひとつ。
アーネストとヴィンセントは同時に息を吸い、同時に息を吐いた。それから交互に――まるで一人の人間がそうしているかのように、完璧に調子を揃えて――暗誦する。
「暗雲立ち込め視界は暗く」「四方五里にや聖句を詠ず」
「欄干・霧・尾根、異界は深く」「三宝二神に警句を献ず」
一連。霧雨がふわりと軌道を変えて、二人を避けるように渦巻いた。
「遠方見遣れぬ老いた犬に」「黎明知らせる金の鐘」
「展望抱けぬ乞食の目に」「雷鳴知らせる金の風」
二連。どこからともなく風が吹き始め、ヴィンセントの長い髪を煽った。紺碧の髪が魔力を孕んで、きらきらと光る。
「おお、泣き喚くは小さき人!」「その声を聞く人はどこにもいない」
「おお、愛無ければ千切れし糸!」「その棘を抜く糸は解けもしない」
三連。いよいよ辺りは異様な雰囲気に満たされる。青白い閃光が空気中を奔り、二人の頭上に集まってくる。ぱちぱち、ぱちぱちと鳴る音は、放たれる瞬間を待ち望む声。開演を急かす大衆の拍手。
そして、最後の二行を――
「ぴったりくっつけ」
「「え?」」
唐突に乱入してきた声に、二人は驚いて振り返った。が、そこにはエメラルドの瞳を真ん丸に見開いて立ち尽くすダニエルがいるだけ。
「ジョークを躱して霧よ逆巻け、雷鳴は徒に赤子を起こせ」
同じ声が二人の前方で響いた。
また振り返れば――目の前が真っ赤になった。二人にそう思わせたのは、鮮烈な赤色のロングコート。それを着た男が、仄白い閃光の下、最後の二行を奪い取った。
「トークはお開き、虹は内巻き、雷撃は悪戯な頭に落ちよ!」
魔力が逆流する。男の言葉に導かれて、頭上に集まった閃光が一気に膨らんだ。
ヴィンセントは「やばい!」と思って、円環を切り魔力を逃がすべく、手を離そうとした――が、片方は赤コートにしっかりと掴まれている。もう一方は――ここで彼は、男の最初の言葉が魔法だったと気が付いた。あの一言で――完全にくっつけられていた。
――雷が、落ちる。
「ひゃあああああっ!」
叫んだのはダニエルだけで、二人は声も無く崩れ落ちた。一緒になって雷に打たれたはずの男は、しかし平然とそこに立ったまま、倒れた二人を見下ろしている。
「あ……あ、アーネスト! ヴィンセント!」
「大丈夫ですよ。威力は絞りましたから」
赤コートの男が、二人の手を無造作に放り出し、ダニエルに向き直った。男は癖のない黒髪を首の裏で束ね、黒い目をいっそう理知的にする黒縁の眼鏡をかけていた。けれど、コートの赤色が強すぎて、彼本来の印象はすっかり薄まっている。
男は胸ポケットから革の手帳を取り出した。英国魔法協会が発行する公認魔法使いのIDカード。
「アーチボルト・ウルフと申します。フリーランスの魔法使いをしています」
「え……あ……ま、まさか――」
ダニエルは目をぱちくりさせた。
赤いコートを着たフリーランスの魔法使い、アーチボルト・ウルフ――その存在にダニエルは覚えがあった。いや、覚えがない魔法使いなど、少なくともこのロンドンにはいまい。
いわく、狂える吸血鬼を杭も使わずに倒し切った。
いわく、人狼と真正面から殴り合って、拮抗した。
他にも、眉唾物のエピソードは数えきれない。それらの真偽のほどはともかく、異例の二階級特進を果たしたのは事実であるし、協会以外どこにも属さず独り魔法界を渡り歩いているのも確かだ。
だから魔法使いたちは彼を、畏怖とやっかみ、賞讃と敬遠、そこに少しの侮辱をふりかけて――
「スリム・ウルフ……?」
――優男の体を装った猛獣、と、そう呼んでいる。
呼ばれた当の本人は、わずかに眉をひそめ「まぁ、そうです」と頷いた。それから、唇だけで微笑んでみせた――目は、猛獣の名に相応しく、容赦のない冷たさを宿したまま。
「はじめまして、やんちゃな少年たち。それでは、学校までお送りしましょう」
言外に“絶対に逃がさない”という固い意志の含まれていることが、鈍感なダニエルにもはっきりと伝わってきて――ダニエルは、「どうしてもっと強く二人を止めなかったんだろう……」と深く後悔した。