第9回参加作:魔法使いの師匠~スリム・ウルフは真っ赤な悪夢を蹴散らせるか~
ロンドンの法律事務所に勤める父の帰りは、いつも遅い。だから暗くなる前に家に入った時、真っ赤なナポレオンコート――父のトレードマーク――が玄関脇にかかっているのを見て、アークと姉は心底驚いたのだ。
『へぇ、珍しい。父さんがこんなに早いなんて』
五つ上の姉は目をぱちくりさせて、アークから小型ゲーム機を奪い取った。もう少しでハイスコアだったところを理不尽に邪魔されて、アークは抗議をしようとした。
その時。
『魔法使いだってっ?!』
殴りつけるような父の怒鳴り声が響き、二人はピャッと首を縮めた。
『ふざけるな! そんなこと誰が許すものか!』
アークと姉は顔を見合せた。先に事態を察した姉が、“静かに”とジェスチャーをし、弟の手を引いてリビングに忍び寄った。
少しだけ開いていた扉の隙間から中を覗く。と、母になだめられた父が、ちょうどソファに腰を沈めたところだった。それから父は額を押さえ、『魔法使いになるなんて、絶対に許さない』と静かな声で繰り返した。
『ミスター、それを決めるのはあなたではありません』
父の向かいに座っていた男が冷徹に言った。
『魔法使いになるか否かを決めるのは、素質を持つ張本人、アーチボルト君です。あなたが許すか否かなど関係ないのです』
『関係ないわけあるものか! 彼は私の息子だ! 魔法使い? そんなものに、誰が、誰が……っ!』
アークは自分の名前が出たことに驚き、戸惑って、姉の方を見た。姉は大きく見開いた目の中に星屑を散らして、『すごいわ!』と一言叫ぶと、アークをぎゅっと抱きしめた。
『すごいわ、アーク! あなたには魔法使いの素質があるのね! いいなぁ、羨ましいわ!』
彼女の声を聞きつけて、父がバッと立ち上がった。大股で部屋を横切って、扉を思い切り開けると、アークの首根っこを鷲掴みにして姉から引き剥がす。
アークと同じ真っ黒の瞳が、地獄の業火のように燃えている。
『アーチボルト。お前は絶対に魔法使いにはならない。あいつらは人間社会のルールを平気で無視する連中だ。あいつらにかかれば、どんなルールも捻じ曲がって、真実も嘘になる――そんな連中が、誰かの役になど立てるものか。そんなまともじゃない連中が、まともな幸せを手にできるものか!
……現に――』
ぐるん、と視界が回転して、場所が変わった。
アークはこの場所を知っている。灰色の壁に囲まれた、冷たくて薄暗い部屋。薔薇の別荘。虹の部屋。――遺体安置室。
背後の廊下には粗末なベンチがあって、母と姉が寄り添って座っている。毛羽立ったガーゼのようなすすり泣きの声が、鼓膜をさわさわとくすぐる。
部屋に入る。ひやりとした空気が頬を包み、不可思議なにおいが鼻先を掠めた。
中央に鉄製のベッドがあって、そこに誰かが寝ている――誰が寝ているのか、アークは知っている。白い布が人の形を大雑把にかたどっている――それが本当に“大雑把に”であることを、アークは知っている。
布に手をかけ、一息に剥ぎ取った。
『――現に、私は魔法使いに殺されたじゃないか――』
体の半分以上を失った父が、そこに横たわっている――
†
《終点、アンブローズ・カレッジ前、アンブローズ・カレッジ前――》
車掌の声に起こされて、アークはゆっくりと目を開いた。途端に溜め息が落ちる――二十時間ぶりの睡眠であんな夢を見ていては、取れる疲れも取れやしない。
父の死体のことは、十三年経った今でも悪夢のようにハッキリと覚えている。しかし、本当の“悪夢”で見たのは久々だ。形見の赤いナポレオンコートが、急に水を含んだように重たくなって、立ち上がるのが億劫になった。
(すみませんね、父さん。まともじゃなくって)
アークはもう一度溜め息をついて、眼鏡を掛けると、ようやく腰を上げた。
列車から降りたのは彼だけだった。冬の鋭い風が、アークの黒髪から悪い汗を吹き飛ばした。
赤レンガの小さな駅舎を抜けると、魔法専門学校アンブローズ・カレッジが正面にそびえ立つ。ウィル・オ・ウィスプの乱舞が、その荘厳な姿を夜闇に浮かび上がらせていた。見慣れた光景。十年前に卒業したのだが、その後も幾度となく足を運んでいるから、これといった感慨は覚えない。
アークが正門脇の詰所に近付くと、ノックする前に扉が開いて、温かい光とともに毛むくじゃらの小男――守衛のバートン・バートン・ハイリードが顔を出した。毛むくじゃらなのは父が人狼で、小さいのは母がドワーフだからだ。彼は尖った耳をぴくぴくと動かしながら歓迎の声を上げた。
「よぉ、スリム・ウルフ! 今日は何の退治だ?」
アークはひょいと肩をすくめた。
「さぁ。それがまだ分からないのです」
「ハハァ、さてはバロウッズ先生だな?」
「ええ、まぁ」
「フリーランスも大変だなぁ。ひょいひょい呼び出されてはいいように使われて」
バートンは他人事のように――事実、他人事なのだが――言いながら、アークを招き入れた。それからふと思い出したように、
「なぁ、なんであんたはフリーランスを続けてんだ? どっかの専属になりゃ、収入も生活も安定するだろ。あんたほどの腕前なら、引く手数多だろうに」
よくある質問だ。アークはにっこりと笑って、「ええ。ですから、たくさんの方々にご愛顧いただいているのですよ」と答えると、詰所を出た。
少し間を置いて、ようやく言葉の意味が伝わったらしい。バートンの大きな笑い声が背中に届いた。
三十人で鬼ごっこをしてもまだ余裕がある広い前庭を、真っ直ぐ横切って校舎の中へ。玄関ホールは天井まで三十メートルほどの吹き抜けになっていて、どれだけ気をつけても足音が響いてしまう。それがアークは嫌いだった――こっそり何かしようと思った時の、一番の障害だったから。今でも足音を忍ばせてしまうのは、当時からの癖である。
今日は何曜日だったか――と考えながら、大きな螺旋階段を登る――水曜日だ。水曜日の門番は二つ目の踊り場に掛かっている絵画。ゴヤの『理性の眠りは怪物を生む』。机に突っ伏して眠っている女性の周囲に、フクロウやコウモリのような怪物たちがまとわりついている。
ここを通る方法は二つある。平和的な方法を採るならば、“理性”である女性に眠りの魔法をかけ、怪物たちに道を開けてもらえばいい。
が。
アークは絵の左下を見て、ちょっと眉を顰めた。この間までは確かに“58s”と刻まれていたのが、“57s”になっている――アークの十年前のハイスコアが塗り替えられたのだ。
それを認めた瞬間、彼は平和的な方法を捨てた。
「起きろ!」
一喝。
すると絵の中の怪物たちが一斉に、けたたましい奇声を上げながら飛び出してきた。
アークはどこからともなく銀色のスーツケースを取り出すと、それを思い切り振りかぶり、最初のニ体をまとめて殴り飛ばした。
百体の怪物を倒した後、起きた“理性”に頼んで通路をくぐり抜ける。誰もいない静かな廊下を、やはり足音を殺したまま進んでいく。
バロウッズ先生の研究室は、廊下の一番奥だ。不思議な仮面や謎の金具に飾られた扉を叩く。と、勝手に扉が開き、
「やあウルフ! そう久しぶりでもないけど、久しぶり!」
真正面のデスクに座っていた年齢不詳の男性――キャロル・バロウッズが、満面の笑みでそう言った。絹糸のような銀髪が床スレスレまで流れている。瞳の色はいまだに分からない――彼は時も場合も感情も関係なく常に笑顔だから。
アークは軽く頭を下げた。
「こんばんは、先生。お変わりなさそうで」
「君もね。ゴヤの怪物とやりあってきたんだろう? スコアは?」
「三十九秒」
「ワォ。これはもう誰にも抜けないな、ハッハッ!」
入りたまえ、と言われて中に入ると、小さな先客が三人いることに気が付いた。彼らは壁際に立っていたから、廊下から見えなかったのだ。小さな、と言っても、バートンのような小ささではなく、まだ幼いというだけである。ここの生徒で、十三歳前後だろう。手前から金髪、茶髪、紺色と、三色の小さな頭がこちらを振り仰ぎ、碧と緑と紺色の大きな瞳がこちらを凝視している。
アークは――何か嫌な予感を覚えつつ――部屋の中央に立ち止まった。
「さて、ボーイズ! 彼が噂のスリム・ウルフだ。知っているだろう?」
バロウッズ先生がアークの方を手で示し、少年たちに向かって言った。すると彼らは、互いの顔を見合って――それから一斉に口を開いた。
「当然だろ!」
「もちろん知ってるさ!」
「知らないわけないよ」
「吸血鬼を一人で倒して」
「人狼と殴り合いで引き分けた!」
「俺たち月下寮の先輩で」
「真っ赤なコートがトレードマーク!」
「最近、ドラゴンの首を落としたって聞いたけど」
「えっマジ?」
「そんなのどこで聞いたんだよヴィンス」
「俺には俺の情報網があるのさ、アーネスト」
「ねぇねぇドラゴンの首って落とせるの?」
「本人に聞いてみればいいだろ、ダニー」
「はいはいボーイズ!」
パンパン、と両手を叩いて、先生は三人の口を閉じさせた。
「すでによく知っているようだが、改めて紹介しよう。彼はアーチボルト・ウルフ。スリム・ウルフと呼ばれる非常に優秀な、フリーランスの魔法使いで――
――明日から一ヶ月間、君たちの師匠になる人間だ」
少し間を置いて、ようやく言葉の意味が伝わってきた。アークは当然、その一方的な宣言に対して抗議をしようとした。が、その前に少年たちの大きな声が室内に爆発したのだった。
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