07:卓越した知性が紡ぐRPG
落ち着いてください、と僕は言った。
「サメは吼えません」
「そーいう常識的なことを言ってるんじゃねえんだよ俺は!」
「いや常識的なことを喋ってください。サメが吼えるわけないでしょう。Z級映画じゃないんだから……」
どうも錯乱してるらしいぞ、と思った。でも僕はその程度のことで動じたりはしない。伊達に錯乱したみたいな適当な人生を送っているわけじゃないのだ。
こういうときは、錯乱する原因なんて本当は存在しないんだよということを優しく教えてあげるのがいい。だから僕は、ライトを辺りの海にさらに向けて「ほら、見てください」と語りかける。
「どこにもいないでしょう。サメの姿なんて。見えない敵に怯えるのは政治の世界だけで十分ですよ」
「だーかーらー! いくら姿が見えないったって声が聞こえるんだから間違いはねーだろ!」
「幻聴なんて努力次第で誰でも聞こえますよ」
「俺はそんな方向に努力したことはねえっつーの!」
「いいですから。知らない間に積み重ねてきたこれまでの日々が今こうして花開いちゃったんですよ。感動的ですね。大人しく枯らしておいてください。ほら、よく見て。この水面のどこにサメの姿がありますか? 人の頭、目玉、手首、足首……どこを見ても人の死体だらけですよ。安心してください」
「死体を目にして安心してんのもそれはそれでおかしいだろーが!」
貸せっ、と言ってゼットは僕の手から携帯を奪い取った。
「声はこっちの方からしてんだ……。こうやって照らせば……」
「あの、ライトを使うのはいいですけどアルバムとか検索履歴とかは見ないでくださいね。予測変換も」
「何の心配をしてんだおめーェはよ!」
そりゃ自分の心配しかしてないに決まってる。人間なんて大抵の場合は他人より自分のことが大事なのだ。
ゼットが錯乱している以上、これ以上船を進めることは難しい。自分だけの力で城に近付こうとしてもくるくる回りながら揉めるだけなのはわかりきってる。僕は余った時間を有効活用するタイプだから、冷蔵庫を開けて中身を取り出してみた。結構色々入ってる。ソーセージとか、ピザとか。とりあえず生卵があったから割って、中身を吸ってみた。ずずず。うーん。なんだかすごく筋トレに興味がある人の気分だ。
「確かに……どうやら俺の勘違いみてーだな」
バニラアイスをばくばくと食べていたら、ようやくゼットが諦めた。
「お前の言うとおりみてーだ。情けないところを見せちまったな」
「いえ。誰だってこんな状況ではこうなります。お気になさらず」
ずずず、とそれを飲み干してから、僕は立ち上がって言った。
「さあ気を取り直して――うわっ!」
「あぶねえ!!」
また船が揺れた。今度は落ちそうになったのは僕の方だったけど、ゼットが手首を掴んで支えてくれた。
「今のは……」
「まただッ! また、何かが船を揺らしてやがる!」
一度落ち着いたと思ったのに、ゼットがまた慌てだした。絶対にこれはサメだぜ、と言いながら。海を見下ろしている。
これじゃ埒が明かないぞ。そう思って、僕はこんな手段に出た。
「ゼット。これを見てください」
「あん? ……なんだそりゃ。生肉じゃねえか」
「ええ、そうです。血でぬらぬらの生肉です」
冷蔵庫から取り出したのは、血がめちゃくちゃに滴っている大きな肉。たった今殺した生き物の内臓から引き抜いてきました、っていうくらいに新鮮な。
ちょっとばっかし罰当たり、と思ったけど、きっと何の効果もなくたってそのうち生態系のひとつのパーツとして魚たちに消化されていくわけだから、実質『スタッフが後で美味しくいただきました』に相当するだろうって信じて。
その肉を水面に浮かして、すうっと押し出した。
「もしもサメだっていうなら」
僕はゼットに笑顔で語り掛ける。
「この血まみれの肉に反応してサメが出てくるはずです。これで出てこなかったら、素直に城まで戻りましょう」
正直言って、僕の目から見るとゼットが錯乱したようにしか映らない。だってサメ、吼えないし。でも、このあたりの死体を作っただけの魔物がいるだろうってことは間違いなくて、そいつがたぶんとんでもなくでかいんだろうってこともわかってる。だったらここは僕みたいな貧弱無職一人でどうにか生還しようとするより、このナイスガイを上手く操縦してサバイバルするべきで、だから錯乱したゼットを元に戻すことだって、必要なプロセスの一つなのだ。
「三分待ちましょう。それで、十分ですよね」
僕が言えば、ゼットも頷いてくれた。やっぱり、ちょっとパニックになってるだけで元は冷静な人間らしい。よしよし、上手くいきそうだと思って。
三十秒後。
ざばーっ、と海面から背びれが出てくるのを、二人揃ってばっちり目撃してしまった。
「…………」
「…………」
「…………おい」
「…………なんでしょう」
「俺の目がおかしくなかったら、あれはサメだよな。お前が散々いねーって言い張ったよ」
「どんな人間にだって間違いはあると思いませんか?」
僕は言い訳をしながら、じりじりと船の上で後ずさりをして、
「それに……そんな話をしている場合じゃないでしょう」
がおーっ、とサメが吼えて、跳んだ。
とんでもないでかさだった。十メートルはある。サメっていうか、メガロドンだった。でかすぎる。僕の隣でうずくまったゼットだってかなり大きいはずなのに、こうして僕らの目の前で大きく翻るそいつを見ると、人間なんて所詮は自然界の大型生物の中でも肉体強度は最弱なんですね、という非常に無慈悲な自覚が生まれてしまう。
「に、」
「逃げますよっ!!」
固まるゼットに、僕は言った。
ほとんど絶望、みたいな顔でゼットは言う。
「ど、どうやってだよ! オールはない、豚足もなければ人の足もない! この船をどうやって城まで持っていくって言うんだ!」
「生まれもったそのなっがい手足があるんとちゃうんかい!!」
僕らは水の中に手を差し入れた。ちゃぱちゃぱちゃぱ。五秒でゼットが「やってられっか!」と音を上げた。
「人間の真価ってーのはなァ! 筋肉じゃなくて脳なんだよ! 思考を停止したやつに訪れる明日なんかこれっぽっちだってあるかよ!」
「じゃあ何かいい考えがあるんですかっ!?」
「思いつかねーから一緒に考えてくれって言ってんだ!!」
そんなこと言われて簡単に何か思いつくんだったらごく潰しなんかやってるわけないだろ!
本当に頭のいい人間っていうのは大抵の場合ちゃんとした社会的地位が伴うような生活を送ってるし、誰からも評価されてないけど本当は世界を変えるほどの卓越した知性を持つ人間なんていうのは戦記物の中か、インターネットで大暴れしてるお兄ちゃんお姉ちゃんの頭の中の自己認識像としてくらいしか存在してないんだよ!
こんなときは、と僕はもう一度冷蔵庫を漁った。物頼りだ! 現代人類の知性の九割九分九厘はその個体自身ではなく社会に蓄積された道具のインフラによって保障されているのだ!!
「クソッ! ソーセージとピザくらいしかありませんっ!」
「ソーセージとピザだって何か使い道くらいあるだろうが!」
「たとえばなんですかっ!?」
「ピザの上にソーセージを乗せてオーブンで焼くんだよ!!」
最後の晩餐のメニューを考えるな!
そんなこんなで僕らがわたわたしている間にもサメは生きていて、生命活動を続けていて、文明は進んでいる。サメは僕らのことを認識しているのか、ぐおーっと吼えると、とうとうジャンプして飛び掛かってきた。
「うおおおォッ!!」
「――これでも食らえっ!!」
咄嗟に僕は、カッチンコッチンの冷凍ピザをサメに投げつけた。
奇跡的にピザはくるくると回ってサメの鼻面にクリーンヒットした。ぴえん、と悲しい鳴き声を残してサメが怯んでもう一度水の中に戻っていく。近所に住みついてる限りなくハイエナみたいな痩せ犬を相手に勝手にフリスビー遊びを仕込んでいた経験が生きた。あいつも信じられないほどでかかった。両足で立つと僕の身長より高いし。レリアと僕が一緒にいるところを見るまではまるでなつかなかったし。
「やるじゃねえか!」
「ゼット、今のうちです!!」
声援を背中に浴びながら、僕は次の冷凍ピザを構えたまま叫ぶ。
「な、何がだッ!」
「今のうちにその一繋ぎの激長ソーセージをカウボーイみたいに振り回して城に引っかけてくれって言ってんですよ!!」
「できるかそんなこと!!」
「諦めないで! 自分の中に眠れる才能と食品会社の品質向上への激烈な企業努力を信じてください!!」
「どう考えても食品会社はソーセージにロープとしての価値を認めちゃいねェーッ!!」
文句タラタラのゼットは、けれど「畜生、やるしかねえ!」と叫んでソーセージを冷蔵庫から取り出してぶんぶん振り回した。畜生、って言葉。もしかしてソーセージに突っ込まれてる豚と上手くかけました?
「どぉおおおりゃあああああッ!!!」
ゼットがソーセージを投げる。
それが、城のベランダに綺麗に引っかかった。
マジ?
「レリア! ピザだ、ピザを寄越せ!!」
言われたとおりにピザを渡すと、ゼットはそれを足場にして水の上に降り立った。なるほど、と僕も同じように、ゼットの肩に掴まって水の上にピザを敷いて降り立つ。
「行くぞォオオオオオ!!!」
ゼットの上腕二頭筋が吼えた。
ソーセージを手繰り寄せて、僕らはぐんぐん進んでいく。並みいる死体を押しのけて、真っ黒な夜の海をかきわけて、光のように真っすぐ進んでいく。
そして、ゼットの足がピザから離れれば、垂直登攀一メートル。
「や、やったぞ!! 生き残った!!」
「な、なんとか、なりましたね……」
僕たちは、何とかサメのいる海から生還を果たした。