04:サメが出てくる状況と殺人が発生する状況はよく似ている
「どうなってんだ? こいつはよ……」
浸水自体はそこまで珍しい話でもないらしい。
だって海辺に城が立っているから。満潮になると結構な勢いで一階部分の床はひたひたになるらしく、水圧で扉が開かなくなったときのために二階にも出入り口が設置されている。
だから、窓から外を覗きこんだゼットさんが驚愕しているのは、ただの浸水のためなんかじゃなかったのである。
「もう完全に浸ってますね、七階まで……」
「英雄殿は今日の天気予報は見てきたか? ひょっとするとそこで『ド台風による増水に注意しな』とか言ってくれたりしてたのかね」
「どうでしょう。ひょっとしたら『猛暑と温暖化のダブルパンチ! 今日はあなたの街が海面上昇』とかかも。見る限りは、少なくとも嵐にはなってるみたいですけどね」
いつの間にか、真夜中のように闇がやってきていた。窓を少し開けるだけでごうごうとものすごい音を立てて風が吹き込んでくる。雷がごろごろと唸り声を上げていて、僕らの眼下には底なんかまるで見えない真っ黒な水が滔々と城の外壁を廻る光景が広がっている。
浸水、というか。
水没、だった。
ゼットさんが窓を閉める。たった数瞬の出来事だったのに、もう彼のシャツは濡れていた。
「まいったな。俺はいいが、これじゃあんたは帰れねーだろ」
「そうですねえ」
頷きながら、僕はでも、それなりに落ち着いていた。なにせこの城は二十七階建てだ。たとえ七階まで水没してしまったとしてもまだまだ余裕がある。いくら海辺にあるといったって最上階まで上がればここら一帯で一番の標高くらいにはなるだろうし、むしろここにいてラッキーだったかもしれない。
「うおっと、」
なんて考えていたら、早速だった。
ずずずずず、と水位が上がってきて、八階にいる僕らの足首まで水に濡れ始めた。
「とりあえず上にいきましょう」
ちょっと僕はアクティブに、ゼットさんのことを先導して九階に上がる。普段だったら別にこんなことしないし、なんだったら「階段のあたりでだらだら浮いてればいいんじゃないですかね」とかナマケモノそのものみたいな提案をするところだけど、今日は一応レリアのふりをしているわけだから。ちなみにナマケモノが泳げるのと同じで、僕もそこそこ泳げる。なんなら重力に逆らってこの世に存在するという仕事の一部を浮力が肩代わりしてくれるから、陸にいるより水の中にいる方が好きだ。
「あの、しばらく雨宿りしていきたいんですけど、どこか私がいても不自然じゃない場所ってありますか?」
訊くと、結構ちゃんとゼットさんは考えてくれた。
「そうだな……。まあ一番いいのは二十七階のラウンジに行くことだと思うぜ」
「ラウンジ?」
「ああ。この城の最上階は展望ラウンジになってんのさ。バーとレストランもあるから、それなりに時間も潰せると思うぜ」
もっとも、と彼は笑って、
「英雄殿はバーに行っても追い返されちまうような年齢かもしれないけどな」
「まあ、それはまったくそうですね」
二十七階かあ、と僕は内心で溜息を吐いた。だって、ここまで降りてくるだけでも正直めちゃくちゃに疲れたのだ。足なんかもう、ブルッブル。僕の体力なんてそのへんの一駅多く歩いて中性脂肪を減らしてみようとかやってる中年と同レベルでしかないのだ。
だから、ゼットさんが提案してきたときには、それもいいかもなと思った。
「バーベキューソースがさ」
「え?」
「言ったろ? バーベキューソース。実は厨房って九階にもあるんだよな。知り合いのコックがここのフロアチーフでよ。せっかくだからここで調達していっちまいたいんだが、あんたはどうする? 一緒に来るか? 道案内がなくてもラウンジに辿り着けるっていうなら、ここでお別れでも構わねーけどよ」
そうですねえ、と首を傾げつつ。
実際は、脚が疲れたからちょっとインターバルを挟みたいな、という気持ちで。
「いえ、ついていきますよ。王城ではどんな食べ物が出されているのか興味がありますしね」
悪かったな、安物を出しちまって、と彼は笑った。
<゜)))彡
おいおい、と彼は言う。
「ちょっと厨房まで歩いてきただけだぜ? なんでこんなに水が増してんだ?」
いくらなんでもちょっとおかしいですよね、と僕も言った。
ついさっきまで僕らの足元に影も形もなかった九階の水嵩は、もう僕たちの股下のあたりまで来ている。膝丈のズボンを穿いてきていて助かった。これがスカートだったらパラシュートみたいに広がって何やらとんでもない絵面になっていたに違いない。
「早く用事を済ませて上がりましょうか。なんだか不気味です」
「同感。っと、ここだぜ」
鉄の大扉の前でゼットさんは立ち止まった。ドアノブを回して、押して、
「お?」
「どうしたんです?」
「いや、なんか……。かてえっつーか……うおっ!」
ばしゃあ、と水が溢れてきた。
扉が開いた、その隙間から。
きっと厨房の中に水が溜まりこんで、バリケード代わりになっていたのだと思う。ゼットさんは扉に手をかけてその場で踏ん張ったけど、僕はそのまま流れに身を任せた。そしてほとぼりが冷めたあたりで平泳ぎで戻ってきた。あんまり下手に流れに逆らおうとして、それなのに飲み込まれてしまったりしたらレリアのブランドイメージに傷がついてしまうかもしれない。あの子に本当にそんなものがあるのかはよく知らないけど。たまに聞いても「家族に仕事の話するのってなんかやだ」って教えてくれないし。
そんな風にゆっくり戻ってきたのに、ゼットさんはその場から動いていなかった。
「……? 何か、ありましたか?」
僕はそこでようやく元通り立ち上がって、彼の後ろから厨房の中を覗きこんでみた。
そして、そこに満ちる水の中に、赤黒い色が広がっているのを見つけた。
「……こういうのは、あんたの方が詳しいんじゃねーか?」
ええ、とも言えない。
実際レリアだったら、簡単にそう頷けたんだろうけど、僕はレリアじゃないから。ただのどこにでもいる脛齧りの無職に過ぎないから。
でも、目の前の状況は、詳しくなくても誰だって、わかる。
「血……ですね」
ああ、と生唾を飲みこんでゼットさんは言った。
「心当たりはあるか?」
「まさか。ゼットさんこそ」
「うちの親父が暴走した、ってんならどれだけいーか、って考えてんだけどな……」
進むぜ、とゼットさんは水を蹴った。
「進まなきゃあ、真実には辿りつけねえ。いつだってそう決まってんだからな」
帰りたい気持ちでいっぱいだった僕だけど、レリアだったらここは進む。はい、と頷いて、並んで歩きだした。
血は、どこかから広がってきている。川を流れる細い肉糸のようなそれを辿っていくと、もうひとつ、扉に辿り着いた。休憩室だろうか。さっきの扉と比べたらずっと小さいそれは、僅かに開いていて、ちょろちょろと水を溢している。
「……開けるぜ」
ゼットさんが言うのに、僕はこっくり頷いてその後ろについた。いつでもカバーできるように、って体勢だ。何をどうカバーするのかは知らないけど。
「いっせーのーォ……」
せ、と勢いよく扉を開けば。
「うおおおおおォオオオオッッ!!?」
「きゃっ……!」
そこには、身体の半分を食いちぎられた、コックの男がぷかーっと水に浮かんでいた。
もちろん血まみれで、完膚なきまでに死んだ状態で。