19 シャークと対決する覚悟 略してシャク悟
「って、もう浸水が来てるな……」
西側のシャッターを閉めてもう一度廊下に戻ったら、ついさっきまで足首程度までだった水が、今は膝くらいまで来ていた。さっきよりもだいぶ水の上昇スピードが上がっている気がする。
ちょっとだけ、思った。
この水位の上昇速度じゃ、救助が来るまでに二十三階は水没してしまうだろう。
そのとき、残されたゼットは、きっと……。
「窓でもぶち割って逃げるでしょ」
他人は他人。
僕が手助けなんかしなくてもどーにでもやるって。Take it easy!
「頼んだぞ~ウマウマウマウマウマ人間~♪」
僕は愉快な歌を歌いながらサメ人間の群れをかき分けていく。それなりに広い城の中だけど、これなら問題なくゼットのところまで辿り着けそうだ。
と、思っていたのに。
がー。
がががががが、と。
「…………は?」
天井のシャッターが、開き始めた。
「な、何? なんで……」
僕らが閉めていたのとは違う。電気で動くやつだ。さっきナラムさんがコンソールを弄って閉めた部分が、急にすべて開き始めている。
茫然と見ているしかない。
もう一度、コンソールのところまで戻ろうか。でも、あれは一つ下の階だ。二十二階。もう水没しているはずの。
携帯が鳴った。
『おい、何が起こってる!?』
「わ、わかりません! 急にシャッターが動き出して……」
誤作動、という言葉が思い浮かんで。
いや、そんなわけがないと、思い直した。
「誰かが操作したんです!」
『何!?』
「誰かが二十二階のコンソールを操作してシャッターを開いたんです! そうじゃなかったら、こんなことになるはずがない!!」
『一体誰が……いや、そんなこと言ってる場合じゃねえな!』
電話の向こうが慌ただしくなる音がして、
『俺が二十二階に潜ってもう一度操作を――――』
「いや……きっと無駄です。私だったら次の手は――」
言い切る前に、予想通りのことが起きた。
電気が、落ちたのだ。
誰かが配電盤を、もう一度破壊した。
元々変だと思っていたのだ。どうしてまだ水没していない、サメだって上ってこれなかっただろう場所が壊れていたのか。
そう、これは。
これは、サメだけの仕業じゃないのだ。
「この事態を引き起こした、誰かがいるんです!」
『全部、そいつの手のひらの上だったってことか――ッ!』
どうする、と。
自分で自分に問いかけた。
水位は上がり続けている。シェルターは成立しなくなった。防災センターに立てこもっていればいいのか? でも、サメだけならともかく、正確に電気系統を破壊できるだけの知性ある存在が向こうにいるんだったら、そんな立てこもりくらいで防衛を成立させることができるのだろうか? いいや、おそらくそうはならない。ここでシェルターを成立させられなかったら、もうそれできっと、終わりだったのだ。間違いなく城はてっぺんまで水没して、ここにいた人間は全員サメに食い殺されてしまうだろう。理性を持って、目的を持って、このサメ人間たちを統率して襲ってきている何者か――つまり、真犯人がいる限り。
考えて、考えて、考えて――――。
僕は、結論を出した。
「…………合図をしたら、階段のシャッターを閉めてください」
『何か考えがあるのか?』
「ええ」
頷いて、そのときちょうど、サメ人間たちが一斉に膝を折り始めた。
泳げるだけのスペースが、とうとうできたのだ。サメ本来の姿勢に変わり始める。野生の目覚め。
だから、僕は言った。
「このサバイバルは、私たちの負けです。でも、タダで負けてやるつもりはない」
僕の心の中には、純粋な思いがあった。
これまでの人生で、一度も感じたことのなかったような、強い気持ちだ。
「命と引き換えにしてでも、私がすべてのシャッターを手動で閉めてみせます。
――――ゼット。後のことは、すべて任せます。必ず、シェルターを完成させてください」
電話の向こうで、ゼットが言葉を失う気配がわかる。
『お前……そこまで……』
「ええ」
僕は頷いて、応える。
「他の避難者の生命とか心底どうでもいいですけど、真犯人には心底嫌な思いをしてほしいので、なんとかシェルターを完成させてみせます!」
『台無しじゃねーか!』
そう、これは純粋な気持ちだった。
晴れの日の春の海よりも透き通った、美しい想いだった。
だって、なんかムカつくもの。
もうわかった。僕は結構諦めがいい方なんだ。だから、ここで死ぬのはもう諦める。
でも、できるだけ真犯人の思い通りにならないでほしい!
別に僕が死んだ後に世界とか人がどうなろーと知ったこっちゃないけど、僕を殺した人間が幸せに生きていると思うと、心底腹が立つから!
もう何をしても上手くいかなくなってほしい!
やることなすこと失敗して僕よりいっそう惨めに死んでほしい!
そういう、とても真っ直ぐな負の想念が、僕の死に際に生まれた感情だった。
僕は、自分でそれに驚いている。僕の中にこんなにこんなに鮮やかな心が眠っているとは思わなかったのだ。こんなに純化された、人の不幸を願う気持ちが……。
『ったく、お前はこんな土壇場に来てまで……』
ふ、と笑う声。
『素直じゃねーやつだ』
「失礼な。私ほど素直な人間はこの世にいません」
よく言うぜ、と電話から声がすれば。
「シャァアアアアアア!!」
状況開始だった。
サメ人間たちの姿が、本物のサメへと変わっていく。
なるほど、周囲の水量に反応して形態を変えるってわけだ。
ならまずはそれを利用させてもらうとしよう。
「走れ、ウマザメ!!」
自分の騎乗しているサメを上手く操って、サメの間をかいくぐる。一番大きいのを見つけたら、そいつと正面衝突だ!!
「グシャァアアアアア!!」
「サ、サメェエエエエエ!!」
「よし、ぴったりだ!」
ウマザメが断末魔の叫びを上げる。肉が思いっきり両断されたのだ。
すかさず僕は釣り竿の先からチョコレートを取り外して、そのウマザメの肉を引っかける。そうしたら上手いことその一番でかいサメ、略してデカザメに乗り換えて――――
「ぎ、ギィイイイイイシャァアアアアアッ!!」
目ん玉のところに竿をぶっ刺した。
サメの目から血が流れ、それに吸い寄せられてきたサメたちは釣り竿の先の肉を目掛けて飛び掛かり、それにデカザメが応戦し、もう見る間に血みどろの同士討ちが始まる。
へんっ!
所詮は魚の知能だな! 海で散々DHA取ってきてそれか?
あとはそのままデカザメが暴走し始めるので、それに合わせてとにかくシャッターを閉めまくる。上手いこと進行方向を切り替えれば、ただ手指をひっかけるだけで簡単に閉められるようになる。
「いづっ――――!」
その途中で、爪が剥がれた。引っかけ方が悪かったのだ。右手の中指と薬指が、べろん、と。全部一気に剥がれてくれればいいのに中途半端にぶらさがってるから、その後もシャッターに触れるたび肉を抉られるような激痛が走る。足を切ったときとは比べ物にならない、ビビッドな痛み。
でも、どうしてだろう。
いつもだったらそれだけでうずくまって、泣いて、やる気をなくして終わってしまうだろう僕なのに。
いまだけは、それでも全然、諦める気にならなかった。
「あと、二つ――――!」
とうとう、水位が上がりすぎて上体を起こしてられなくなった。デカザメの身体にぴったりくっつく。それもすぐに限界が来て、顔がまるごと水の中に沈んだ。
ガシャン、と無意識のうちに突き出した指先が、シャッターを捉えた。
閉まる。あと、一つ。
最後の最後で、アクシデントだった。
釣り竿の先から、ウマザメの肉が取れてしまった。
もうこれで、デカザメを操ることはできなくなった。シャッターに行くためには、このデカザメの背中から離れるしかない。
「――――!」
僕は、迷わなかった。
水の中を、自分の力で泳ぐ。手でかいて、足で蹴って。水の中を、必死で。
でも、ダメみたいだ。
サメがたくさん、僕のところに寄ってきてる。
どう考えても、僕は最後のシャッターまで辿り着けない。
そのことだってわかってるのに。
それでも泳ぎ続けて。
自分の身体の一片でも残っていれば、それでいいはずだって捨て身の覚悟で。
そうしたら、彼が現れた。
「――――っ!」
「――――!」
もちろん、この場面で現れる人間なんて一人しかいなくて。
こんな切羽詰まった状況で、不敵に笑って、親指まで上げてきて。
そうか。
二人だったら、こんな行動もできるよな。
「――――わぁああああああああああっ!!!」
水中で、全力で。
僕らに近付いてくるサメを追い払うための泡を、僕は一気に吐き出した。
肺の中のすべてを。細胞に混じった全てを。一気に一気に吐き出して。
ゼットの背中を叩いた。
あとのことは、全部頼むよ。




