いけないと
明るい声に呼ばれて、僕は目尻を下げる。
「鋪おじさーん!」
「ああ、お菊。遊びに来たのかい?」
「うん!」
菊は可愛い僕の姪っ子だ。無邪気で明るく、叔父の僕にもよく懐いてくれている。
僕はそんな菊をとても可愛く思っている。
が。
「……」
近頃、様子が少しおかしい。
菊が、というよりも……。
「……菊」
「なに?磊おじさん」
菊が、少し落ち着いた様子で磊に尋ねる。
磊は、呼んでおきながら口をまごつかせ、目を泳がせている。
少し前までは、こうではなかった。
磊というのは僕の同僚で、親しい友人でもある。今日も僕の家に遊びに来ていた。我が国を救った英雄で、戦をさせれば右に出るものはいない。
菊はそんな磊を心底から慕っていて、いつもその後ろを追っかけては磊に苦笑されていたのに。
磊は泰然とした性格で、穏やかな代わりに肝が据わっている。
……こんな、初恋に惑う乙女のようにまごまごするような奴ではない。ない、はずだった。
磊と菊が、少しおかしい。
今ではこれまでと正反対に、菊の尻をおどおどしながら磊が追いかけているようにも見える。
なんと言えばいいか。率直に言ってしまえば、磊が気持ち悪い。
「別に用はないの?」
「いや……その…………膝に」
「は?」
「膝に、乗らないか?」
磊が、気持ち悪い。
そんな磊にだけ妙に手厳しい菊も怖いが、おどおどしながら膝に乗ることを促す磊が途轍もなく気持ち悪い。おかしい。こんな奴ではなかったはずなのに。
「嫌」
「……そうか……」
ぴしゃりと言われて肩を落とす磊。
菊はつんとしている。
「ではその……隣に」
「嫌よ」
またしても振られた。
磊がどんどん落ち込んでいく。
「な、なぁお菊?隣にくらい座ってやっても……」
「なら鋪おじさんのお膝乗る!そしたら隣でしょ?」
「お、おぉ……」
ころっと元の笑顔に戻った菊が、僕の膝によじ登った。
磊に恐ろしい目で見られている。もしかしてこれは修羅場なのだろうか。
「菊……」
「ふふ、おじさんのお膝あったかーい」
「……菊……」
「いー匂いだしー」
「………………菊………………っ」
僕にじゃれつく菊を、ものすごく切なそうな瞳で凝視する磊。悲惨だ。これ、我が国の英雄なんだぜ?
ここまで来ると、菊ももう態となのではないかと思う。
菊にこんなことをさせるなんて、一体何したんだ、磊。
ふと、菊は顔を上げた。
「あ、そういえばお母さんにお手伝い頼まれてたんだった!行かなきゃ」
そしてぴょいっと軽やかに地面に降り、その場を去ろうとする。
その手首を、磊が掴んだ。
「なぁにおじさん。わたし行かなきゃ」
言い含めるように言う菊に、磊の悲しげな視線が刺さる。
「……菊……また俺を、置いていくのか……?」
ただただ気持ちが悪い。
しかし菊は違うことを思ったようだ。
じとっと磊の顔を見て、やがてため息をついて目を逸らす。
「……分かった。一緒に行こ」
仕方なさそうに言う菊に、磊はぱぁっと表情を明るくした。
「……ああ!」
年が逆になったようだ。
菊に手を引かれ嬉しそうにする大きな男を見送る。
けれどふと思った。
あの英雄の、あんなに無邪気な笑顔を見たのはいつぶりだろう。
彼はいつも笑っていた。
けれど、その笑顔は、本当に楽しそうなものだっただろうか。
もう名前を呼べない彼女を見る彼の瞳を思い出して、僕はそっと目を伏せる。
けれどよくよく考えてから、僕は勢いよく首を振った。
「いやいや、だからといって菊は。お菊は犯罪だから!いけません!」
あの孤独な友人を癒す大人の女性が現れることを、切に願う。