第三十六話 それぞれの思い
――本当は、邪神アンラ・マンユは分かっていた。
あんな魔物程度、自分ならいとも簡単に殺せるということを。
大好きなおにーちゃんに無理してもらう必要などなく、邪神なら容易く屠れる。今までだって何度もやってきたことだ。
だけど、大好きなおにーちゃんにこう言われてしまった。
『マニュはもう『邪神』じゃなくて『女の子』として生きてるでしょ? だったら、戦うな』
その言葉一つで、彼女は体が動かせなくなるほどに歓喜してしまったのだ。
「もう……おにーちゃんの、バカっ」
だからマニュは、動けなかったのである。
――本当は、魔王の娘エレオノーラは分かっていた。
あの魔物は、自分の気配につられてやってきたということを。
彼女は魔王の血を引いている。魔物とも深い縁があり、度々引き寄せてしまうのだ。
いつもならマニュか、あるいはエレオノーラ本人か、もしくはルーラが処理していた。
だが、愛している下僕にこう言われてしまった。
『エレオノーラも、戦わなくていい。確かに魔王の娘だし、力はあるんだろうけど……それは関係ないよ。俺に任せてほしい』
その言葉に、彼女はざわついていた自身の血を制御することができたのである。
エレオノーラは、戦いは得意だが嫌いなのだから。
「はぁ……まったく、下僕はなんて素敵な人なのかしら」
だから戦わなくていいと言われて、思わず甘えてしまったのだ。
――本当は、現勇者であるルーラは分かっていた。
ご主人様と魔物を、戦わせるべきではないということを。
体だってまだ回復していない。明らかに戦える状態ではないのだ。
きっと、たとえ戦いに勝利したとしても、ご主人様は傷つくことは間違いない。
だから、あるいは自分が戦いに出た方が、ご主人様のためになることは理解していた。
だが、愛しのご主人様からこう言われてしまった。
『ルーラ……信じられないかもしれない。だけど、信じてくれ』
これはただのわがままだった。
ご主人様のためを思えば、否定するべき言葉だった。
だが、ルーラはご主人様の意思を、拒絶することができなかった。
「……そんな言い方、卑怯です」
だから彼女は、信じることしかできなかったのである。
――四人の中でただ一人、サキちゃんだけは状況がよく分かっていなかった。
ただ、おっきないぬさんが怖い生き物であるということは、なんとなく気付いていた。
「パパ……」
目の前で佇む大きな背中を、彼女はジッと見つめる。
その顔は、今にも泣きそうだった。
四人はそれぞれ、カレスのことを深く思っている。
だからこそ、魔物と対峙する彼を止められなかった。
なんだかんだ――彼女たちは子供なのだから。
守ってくれる大人に、甘えてしまうのはしょうがないだろう。
カレスはいつも甘やかされていた。
だから今回は甘えてほしいと、もしかしたらそう思って魔物と対峙しているのかもしれない。
「みんな、大丈夫だよ……すぐに終わらせるから」
そして、戦いが始まる――
この程度の魔物は現役だった頃、よく倒していた。
別に強い敵ではない。こんな魔物より魔王の方が何百倍も強い。
でも、今の俺にとって――この魔物との戦いは、魔王との戦いと同じくらい厄介なものになりそうだった。
「…………」
俺を見ている四人の手前、ちょっと意地を張ってしまったが、体は未だに万全じゃない。
せいぜい、軽く走れるようになった程度である。
こんな状態で魔物に戦いを挑むなんて正気ではないだろう。
あるいは、マニュに任せた方がもっと簡単に終わらせることができたかもしれない。
だけど、それでは嫌なのだ。
甘やかされるのはいい。甘えるのも悪くない。
でも俺は、依存するつもりはないのだから。
施されることを、彼女たちの優しさを、当たり前のように思ってはダメだ。
依存して、彼女たちが本当はやりたくないことまで無理をさせるのは、ちょっと違うと思う。
だって――四人ともまだ子供だ。
戦いなどという血なまぐさいこと、好きで関与するわけがない。
それに、たとえどんなに小さな傷であろうと――彼女たちが傷つく姿を見たくない。
だから、俺がやる。
穢れない彼女たちの笑顔くらい、俺に守らせてほしい。
そのために俺は、今まで体の回復に専念していたのだから。
「――っ!!」
自らに気合を入れて、正面から魔物に迫る。
魔物と対峙した時、最もやってはいけないことは背を向けることだ。やつらは『戦闘』より『狩り』に慣れている。逃げる相手を追い詰めることが得意なのである。
受け身になってもダメだ。先手を打たれるより、先手を打って圧倒できるならそうした方がいい。
体は思い通りに動かない。
だけど俺には、今まだ培った経験がある。
それがあれば、この状態のままでも魔物を倒せる――はず!
『グルァアアアアアアア!!』
魔物も俺が迫ったことで戦闘モードに入ったようだ。
唸り声を上げて、牙を剥いている。
狼のような四足歩行の生物。脅威なのは大きな体に、鋭い牙と爪だ、
この手の魔物の攻撃方法は単純だ。
経験から、敵の行動を予測する。
この魔物が行う可能性のある攻撃方法は『突進』『噛みつき』『引っ掻き』『伸し掛かり』ぐらいだろう。
注意する点は、速度だ。狼のような外見なのだから、巨体の割には素早いだろう。
油断していたらすぐにやられてしまう。
大切なのは――意識を研ぎ澄ませること。
「ふっ」
短く息を吐いて、更に前へ。
その時にはもう、魔物の間合いに入っていた。
『ガグァア!!』
大きな咢を見せつけるように、俺へ噛みつこうとする魔物。
人間という敵に対してあまり脅威を感じていないのだろう。大雑把な動きだ。
これくらいなら、対処できる。
「っ……!」
半身になって、魔物の噛みつき攻撃を回避。
『グガァ!?』
まさか避けられるとは思っていなかったのか、魔物は驚愕するように声を上げた。
その隙に、俺は魔物の脳天目がけて拳を振るう。
俺の一撃は、どうにか直撃させることに成功した。
『グルルル……』
だが、攻撃が軽かったようだ。
脳天への一撃は多少なりとも魔物の意識を揺らしたみたいだが、倒れるまでに至らなかった。
魔物は踏ん張るように地を踏みしめて、今度は警戒するように体勢を低くする。
俺とのやり取りを経て少し慎重になったみたいだ。
今が攻め時だろう。
「よしっ」
更に前へと、距離を詰める。
今度の魔物はこちらを迎撃することにしたようで、一歩も動かなかった。
少し腰が退けてもいる。
こういう時、急所である頭を使う噛みつきや突進はないと判断していい。
来るのは――鋭利な爪を利用した『引っ掻き』攻撃だ。
望むところである。
『グルァアアアアアアアア!!』
予測通り、魔物は前足を振りかぶった。
引っ掻くつもりなのだろう。だが俺は後ろに後退せず、姿勢を低くして滑り込むように魔物の懐に潜り込んだ。
引っ掻こうとして一本の前足を振りかぶっているのだ。
当然、足場は不安定になっている。そこを狙ったのだ。
「っらぁああああああああ!!」
こっちも気合を入れて、地についている足の一本を力いっぱいに蹴った。
『ギグァ……』
結果、魔物の態勢がグラリと揺れる。体勢が崩れたことを確認して、俺は魔物を押し込むように体当たりした。
「ぐっ……」
魔物の巨体にぶつかって体は軋んだが、魔物は俺の体当たりに倒れ込んだ。
更に後方へと追いやることに成功する。
だが、ここで魔物は――怒っていた。
『グガァアア!!』
魔物は俺を睨んでいる。
目も赤く充血していた。俺との戦いで思い通りにならなくて苛立っているのだろう。
万事、上手くいっていた。
あとは根性である。
次の攻撃は、まず間違いなく『突進』だ。
怒った魔物はなりふり構わず突っ込んでくるだろう。
これを受け止めることが出来れば、俺の勝ちだ。
もってくれよ……俺の体。
「――――!!」
最早言葉では表せないような奇声を発して、魔物は予想通り突っ込んでくる。
それを、俺はあえて真正面から受け止めた。
「――っ!!」
凄まじい衝撃に、体が割れるような痛みを発する。
意識が途絶えそうな激痛だが、しかし俺は歯を食いしばって魔物と組み合う。
回避できないのは、後方に彼女たちがいるからだ。
あと、もう一つ――戦術的に、この位置でないといけないのだ。
さぁ、後は俺が押し込むだけ。
そうすれば魔物を、倒すことが出来る!
「ぐ、ぁ……」
でも、後もう少しなのに、魔物を押し返すことができない。
やっぱり回復しきっていない体は、力を発揮してくれなかった。
このままだと、押し負ける――そう、思った時だった。
俺の劣勢を見てなのか、彼女が我慢できなくなったようで。
「パパ、だめぇえええええええええ!!」
サキュバスのサキちゃんが、甲高い悲鳴を発する。
『ガ、グァ……!?』
瞬間、魔物の力が緩んだ。
理由は不明である。だが、そんなことどうでもいい。
チャンスだ。
ここで俺は、最後の力を振り絞った。
「っ、ぁああああああああああああ!!」
声を上げて、魔物をさらに後方へと押し込む。
一旦押し負けた魔物は、もう巻き返すことができなかったようで。
『グギッ……』
最後は俺に突き飛ばされるような形で――崖の下へと、落ちて行った。
そう。魔物を倒すために、突進を回避しなかったのは、崖から突き落とすためだったのだ。
今の俺には止めを刺す力がない。故に、落下させて倒すことを目論んでいたのである。
少しの後、大きな地響きが聞こえた。
上手く落下してくれたようだ……この衝撃ならもう、魔物がこっちに来ることはないだろう。
つまり俺は――みんなを守ることができたのだ。
「よ、かった……」
そう思った時には、地面に倒れていた。
「ご主人様!」
「おにーちゃん!」
「下僕!」
「パパ!」
声が、聞こえた。
心配そうな、声だった。
でも、誰も傷ついていない。
それがとても、嬉しかった。
「ごめん、ね……」
最後にそれだけを言って、俺は目を閉じる。
体を無理に酷使したことで、痛みと疲労が一気に押し寄せてきたのだ。
そして俺は、気絶してしまったのである。
ああ、残念だ。
せっかくのピクニックなのだから、彼女たちにはもっと笑ってほしかった。
今度来るときは、きちんと計画を立てよう。
次こそは最高の時間を過ごせるようにしたいなぁ……と、そんなことを思って――




