7話
昨日はとても不思議な体験をした。
斎藤部長が私の家へ訪れ、お風呂に入り私が作ったご飯を食べて一緒にお酒を飲むという不思議なイベントだ。
から揚げの南蛮が気に入ったらしく自分の分が食べ終わると物足りなさそうにしていた。
思わず私の分を2つあげると「ありがとう」と言い口にすぐ入れた。
「男の人に初めて料理を披露しました」と言うと「藤本の初めてを貰ってしまったな」と上機嫌に言った斎藤部長は仕事をしている時の顔とはかけ離れた顔をしていた。
どうもお酒が良い具合に回っている珍しい顔と話を聞いてとても楽しかった。
夜はどうするかと聞いたら「帰る。まだそれは早い」とウンウン唸りながら携帯を取り出し自分でタクシーを呼んで帰っていった。
その時にネクタイを忘れていたので一応会社に持ってきたのだが、本当に昼に来るのだろうか…。
ちらり、とタイピングしていた手を止め時計を見る。
時計針はもう少しでお昼休みの時間になろうとしていた。
もしかしたらタイムカードだけ切って別の部署で打ち合わせをしているかもしれない。
ちらりと鞄の中に入っている紙袋を見てふう、と息を吐く。
まあ、どちらにしろ急いで返さなくてはいけない品物ではないし、そこまで気にすることではないか。
そう思い立つとそのまま、パソコンに視線を戻し自分の仕事に取り掛かった。
その10分後、少し大きい音が響いた。
何事かと思い皆がドアの方へ視線を移すとそこに居たのは斎藤部長であった。
いつもより眉間に皺を寄せ頭を掻きながら入って来た。
「おはよう」とかなり低めに挨拶をして自分の机に向かい座った。
もしかししたら昨日のお酒が残っているのかもしれない。
私はいくら自宅でも相手が上司なためそこまで飲めなかったのだが、斎藤部長は気が抜けていたらしくかなり飲んでいたことを思い出す。
「斎藤部長、どうしたのかな」
と藤井君が心配しながら様子を窺っている。
原因は分かっているのだが、なんだか後ろめたく私は言えずに、知らないふりをした。
「なんかぁ、斎藤部長ぉ、お酒臭かったよぉ?」
と口元を書類で隠し加藤さんがそう告げる。
「え、じゃあ、昨日飲んだのかな?」
それに反応したのが先ほどまで別の部署と連絡をとっていた一条君がそこに「えっ」と声を漏らした。
「俺、イメージ的には一匹オオカミっていうのがあって友達とかも少ないイメージなんすけど」
とこそっと私達に言った。
一条君の言いたい事が分かる私達は「あぁ~」と首を縦に振る。
いや、その飲みの相手は私だったんだけど…
しかし、あの状態ではネクタイを渡せそうもない、またの機会にしよう、私はそう決めそのまま皆と仕事に戻った。
気付いた時にはもう時は過ぎていてもう帰る時間帯になっていた。
結局斎藤部長には渡す機会がなく仕方ない、と思いメモとネクタイの入った紙袋を斎藤部長の机に置き帰宅することになっていた。
頼まれていた書類の期限が近くなっていたため遅くなってしまっている。
その証拠に辺りは真っ暗だ。
これからご飯を食べに行く人、飲みに行く人、まだまだ仕事があり軽食を買いに向かう人たちとすれ違う。
少し歩くと静かになり歩いているのは自分だけになった。
コツコツ、とヒールの音が響く。
しかしよく聞くともう1つ静かに自分の足音と重ねて歩いてる音が聞こえる。
少し早目に歩みを進めたり、遅くしたりするが、ぴったりと音は重なる。
試しに時間を見るフリをするのに立ち止まると少し遅れてピタリと止まる。
やはり後を追いかけている人がいる。
私は早歩きをして逃げようとするが向こうがそれよりも早く私に近づき手首を掴んできた。
咄嗟の行動に声も上げられずより人気のない場所へ引きずろうとしている。
手首を掴んできた人物は深めに帽子をかぶりマスクをしていて顔がよく分からない。
体格と力強さからして確実に男であることは明確である。
必死に抵抗をするために足に全体重をかけ鞄で相手を叩く。
その時にガツンと顔を殴られたが不思議と痛みは感じなかった。
「沙耶さん!」
その時に聞き覚えのある声が耳に飛び込んできたのと同時に男が視界から消えていた。
目の前に飛び込んで来たのは額に汗をかきはあはあ、と息切れをした芹沢君だった。
いつもの奇麗な顔が困惑と怒りと不安の感情が入り混じったなんとも言えない表情をしていた。
「沙耶さん!大丈夫ですか!」
しっかり私の目を見て安否を確認する。
返事をしたいが喉から声が出ずカラカラしたか細い声で「さっきのは…?」と聞く。
芹沢君は辺りを見渡し「いないみたいです」と答えるとの同時に涙が出てしまった。
そんな私を見て芹沢君は慌てて鞄からタオルを差し出した。
「汗臭いですけど、どうぞ。使ってください」
「あり、がとう……」
私はタオルを受け取り目や鼻から出る水分をふき取る。
そんな私を芹沢君は何も言わずに私が落ち着くまで側にいてくれた。
泣いてどれくらい経っただろうか、私は慌てて顔を上げて芹沢君を見た。
「ごめんね。助けてくれて、しかもタオルまで借りちゃって…。時間取らせちゃったね…。家族の人たちが心配するよね。ごめんね。」
そう言いながらタオルを差し出すと芹沢君は眉間に皺を寄せた。
初めて見る表情に私は戸惑ってしまい、どうしたら良いか分からず何も言えなかった。
芹沢君は私からタオルを受け取ると「送ります」とぼそりと言った。
時間も時間なので断ろうとしたが先ほどの事が頭を過ぎり送ってもらう事にした。
芹沢君が前に進み人、1人分の隙間が出来ている。
何か声掛けるべきなのだろうか…。
分からない…どうしたらいいんだろう…。
そう思いながら前髪やサイドの髪を触る。
ちらりと、見ると奇麗な顔立ちの芹沢君がいる。
何を考えているのか分からない。
すると、芹沢君もこちらをちらりと視線をやると、小さい咳をしてまた前を向いた。
分からない…若い子が考えている事が分からない…。
すると手に体温を感じ見ると手が握られていた。
相手はもちろん芹沢君で思わず視線をやるともちろん暗くてどんな表情をしているのか分からないけどでも分かる。
手の汗がすごくて暑い。きっと緊張しているんだという事が分かる。
手の熱がこちらに伝わり自分もだんだん熱を帯びていく。
私達はそのまま家へと向かった。
家へ着き私は鍵を開けた。
玄関を開き電気をつけて中に入る。
芹沢君はどうしたものかと思ったが手の力が緩まない為、そのまま中へ入れることになった。
ソファに座ると、芹沢君が床の方へ座り私の顔を見ると眉をひそめ泣きそうな顔をした。
「沙耶さん…ここ痛くないですか…」
そう言いながらそっと額を触る。それと同時にぴりっとした痛みが走る。
「痛い…かな。酷い…?」
「かなり酷いです。救急箱とかありますか?」
「あ、うん。ちょっと待ってて」
「いえ、座っててください。どこにあるかさえ言ってもらえれば」
「じゃあ、テレビのチェストの下の方にあるから取ってもらえる?」
「はい」と短めに返事をすると私から離れて指示された方へと向かう。
その時、握られていた手が離れ少し寂しさを感じた。
カタン、と木製の音がして視線を上げると側に芹沢君がいた。
先ほどと同じ様に床に座り「失礼します」と言って消毒を染み込ませたコットンを額にトントンと当てて汚れを落としていき手当をしていく。
あまりの痛さに「うっ」と言葉を零すと芹沢君の顔が少し赤くなった。
なんだか恥ずかしくてこちらも赤くなる。
「えっと…ごめんね。手当してもらって…。いいのにこんな。」
「よくないですよ。女性なんですから。大事にしないと…」
「他の人ならね!私なんかが顔に傷つけても誰も気にしないよ」
「あははは」と乾いた声で笑うと、ピタリと芹沢君の動きが止まり私と目を合わせた。
「なんかとか言わないでください。沙耶さんは素敵な女性です。…少なくとも僕にとっては」
「あ…ありがとう…」
そう言うと作業が終わったのか背を向けて救急箱を元のあった場所に片付ける。
素敵な女性…?私が?何も個性もない私が…?
びっくりした顔で芹沢君を見ていると照れた顔をして「あんまり見ないでください」と顔をうつむいた。
「では、今日は帰りますけど大丈夫ですか?」
「え、あ、うん。ごめんね、何もおもてなし出来なくて」
「いえ、勝手に上がり込んだのは僕ですから」
「…本当にありがとう」
「気にしないでください」
そんな会話をしながら玄関へ向かう。
靴を履き終わった芹沢君は意を決した顔をしてこちらを見た。
「明日から何日か送ります」
「え、いいよ。そんな悪いよ。時間もばらつきがあるし。迷惑かけれないよ」
「迷惑ではないですし、僕の家からそう遠くではないので気にしないでください」
「でも……」
「もしまた、同じ人に襲われたらどうするんですか?もしかししたら藤本さんを狙ったのかもしれないですし分かりませんよ」
「だったらなおさらだよ。未成年を危険な事に巻き込めないよ」
「僕は、未成年の前に男だ」
真剣な眼差しで強めに言われ心臓が大きくドキンと跳ねた。
「とにかく、これから送りますので。終わり次第連絡ください」
「は、い」
「では、おじゃましました。…おやすみなさい」
「おやすみなさい…」
そう言うと芹沢君は小さくお辞儀をして出て行った。
私はきちんと鍵をかけると居間へ戻りソファに座りさっきから激しく動いている心臓を鎮めるために深く深呼吸をした。