眼顕童子の迷宮パズル
生ぬるい午後の風が、肌をなぞり山にかえっていく。県道を挟んで目の前に開けた海は、見知った灰色にくすんだそれとはまるで異なる、透きとおるような水色をしていた。
たいした感慨もなく海に向けていた視線を、僕は目の前の朽ちゆく建物群に戻した。一年ほど前に最後の住人がいなくなった、廃墟マニアの間でそこそこ知れつつある廃集落である。
細部まで研ぎ澄ませていた感覚が、脳裏で響かせた問いかけに是と告げている。潮の香りが遠のき、山の清浄ないっそ寒々しいほどの気が満ち満ちる。冬の息吹を吸いこんだときみたいな、妙に冴え冴えとした感覚だ。
――とらえられた。
迷宮に、嵌まったのだ。
手を叩いて飛び上がりたいほど浮かれた気分をこらえて、顎に手をかける。
そのまま思考に沈もうとした矢先、自分以外の気配を感じて、僕ははっと顔を上げた。
「なんだよ、これ」
僕のTシャツの裾を掴んで、不安げに仰向いた顔は幼い。身長は僕の腰にも届かないほど。大きな瞳は忙しなく動き、短パンからは膝小僧が覗いている。きわめつけに左手には虫とり網を持っていた。ザ・夏休みのわんぱく坊主といった出で立ちだ。
「君は?」
「キノ。肝試しにきてたんだ。そしたら、見えないカベでもできたみたいに外に出られなくなっちゃって。これってオバケの仕業?」
「ちがうよ。強いて言うなら、神さまの仕業かな」
「カミサマ? ねえ、兄ちゃんは何者なの?」
「雨ヶ崎七郎。大学では空間構造についてかじってる。サークルは日本コスモロジー研究会所属。人呼んで眼顕童子。科学じゃ説明のつかない事件は、この僕にお任せあれ」
ひと息にそう言ってのけると、キノはぽかんとした阿呆面で僕のことを見上げてきた。
事の起こりは五日前。冷房すら効かない憎たらしくも愛すべき僕の部室に、同じ専攻の高梨とかいう粗野な男が野獣のように息を弾ませて駆けこんできたことから始まる。
「シチロー! たいへんなんだ! ぜひとも、おまえのみょうちきりんな知識を貸してくれ」
高梨は、僕が頬杖をついていたガタガタ軋んで落ち着くことを知らないテーブルに数枚の写真をぶちまけた。
「汗くさい。出ていけ」
「そりゃ、当たりまえだろ。たっぷりしごかれた後だぜ。それより、これ、見てくれよ」
たしか高梨は空手部に所属していたはずだ。むっとするような男くささに耐えかねて鼻を摘みながら仕方なく写真に視線を落とすと、人気のない集落の景観や、作業服を着た男が三角巾で腕を吊っている様子が写っていた。
「鹿児島県の離島、A島のF集落。あ、A島って知ってる? 俺の出身、そこなんだけど」
「……ああ。F集落ってあれだろ。去年廃集落になった」
「あ、それなら話が早ぇや。俺の伯父さんの会社がここの解体作業任されたんだけどさ、もう三度も作業員の人が怪我して帰ってきてんの。どの人も重傷負ったりはしてないのが不幸中の幸いなんだけど。でも、会社の人たち皆、祟りだって怖がっちゃってるみたいなんだよ。な、おまえ向きの事件だろ?」
なにが楽しいのだか高梨はにかっと笑って、馬鹿でかいバッグをがさごそと漁ると、白い封筒を取りだした。封筒には最近話題のLCCの航空会社の安っぽいロゴが踊っている。
「伯父さんにシチローのこと話したらさ、絶対連れてこいって。一週間後のチケットなんだけど、どうせおまえ暇だろ? な、俺に付き合ってこのオカルト事件を一緒に解決してくれよ。たのむって、このとおり!」
そういうわけで、僕は昨夜、A島に降り立った。もっとも、高梨に手渡されたチケットには手をつけていない。奴の部室のドアの隙間に投げ入れておいた。奴は今頃このくそ暑いなか、絶賛合宿中だ。高梨のことだから、僕の勝手な振る舞いを咎めるだろうが、連れだってなにかする間柄じゃないし、そもそもあいつの願いを叶えてやる義理もない。とはいえ事件自体には喉から手が出るほど興味を引かれたので、優雅にA島行きのファーストクラスに飛び乗って一人迷宮入りしている。
鹿児島の離島、A島。マリンスポーツなんかが人気で準沖縄みたいな空気感が魅力だ。ついでにメジャーすぎる沖縄はちょっとな、という捻くれた奴向けにツウっぽい気分も味わえる。夏休み最後の思い出としては、なかなかに“一般的”でもっともらしい旅行先だ。人里離れた奥地にしか縁がなかったが、たまには一般人を気取ってみるのも乙だろう。
「ねえ兄ちゃん、なんでそんなにニヤニヤしてんの?」
キノは不安げな顔のまま、僕の服を皺ができるほど強く握りしめて、ぴったりとくっついて離れない。仕方なく、僕は集落の入口にあったベンチにキノと一緒に腰かけた。
「そうだな……楽しいから、だよ」
「閉じこめられているのに? ねえ、ここの祟りのウワサって知ってる? おれたちとり殺されちゃうかもしれないんだぞ?」
「それもまた一興」
言うなり、僕は広げていた住宅地図をぱたんと閉じた。隣では、キノがヘンなの、と唇を尖らせている。
まだ廃集落となって一年余りなだけあって、大して廃墟という異空間めいた感じは受けない。低い屋根の家ばかりで、A島の民家の特徴である二棟立ての家もちらほらとあった。
背の高い雑草に絡みつかれた青いベンチから腰を上げる。すぐ傍には立派なガジュマルの木が木陰をつくっていて、ここが住民たちの憩いの場になっていただろうと思わせた。
細い枝がぐねぐねとうねっているガジュマルの木の根元には、貝殻が散らばっている。なかには、宝石のようにつややかな夜光貝もあった。口角が上がりそうになるのをこらえて、僕は滑るように足を踏みだす。
「兄ちゃん?」
「ちょっと集落を回ってくるよ」
言うと、キノは怖気づいたのか少し躊躇いがちに視線を彷徨わせながらも、挑むようにぐっと顔を上げた。
「おれも行くっ」
「そう? 初めに言っておくけど、僕は君を守ってあげるつもりはさらさらないよ?」
「げえっ、それでもオトナかよ」
「大人じゃありませーん。まだぎりぎり十代ですー」
そう唇を尖らせながらも、背中に貼りついてくる手を振りほどくのは面倒なので、キノの好きにさせておく。
アスファルトで固められた地面を県道沿いに十秒ほど歩くと、すぐに集落の端が見えた。集落境にあるのが、廃校となった小中学校だ。まるでアニメかなにかのように、集落域には結界じみたものが作用していたけれど、午後の穏やかな日差しも相まって、おどろおどろしさはまるで感じられない。濃い影の落ちた街路のすぐ脇には細い川が流れていて、海まで続いている。この川の流れに逆流していくと、集落を背後から抱く山がお目見えする。
「あれは、カミヤマっていうんだぞ」
キノは、集落の三方を囲む山のうち、真ん中に陣取った山を指差して得意げに言った。
「知ってるよ。この道は、カミミチっていうんだってね。カミヤマに座する祖霊神が下ってきて、浜から再び天に帰っていく道」
そう言うと、キノは少し驚いたように僕を見上げた。
「資料室で集落誌を見せてもらったんだ。それに、半世紀以上前の手書き地図が載ってた」
「なーんだ。兄ちゃん、ここの元住人のボウレイかなんかかと思った」
ほっと息を吐いて、キノは影のなかを歩きだす。キノの足のコンパスは短くて、すぐに僕は追い抜いてしまう。さらさらと流れる川に向かって、足元から長い影が伸びていた。
「兄ちゃんはトウキョウの人?」
「そう。君は地元の子だね」
「うん、えっと、隣のU集落に住んでるの。今日ガッコ、休みだから」
街路は、カミヤマに近づくにしたがって少しずつ傾斜がきつくなっていく。いくつかの民家と荒れ地と化した畑を横目にまっすぐに進むと、十字路に突きあたった。古地図では、十字路の横棒部分にあたる道沿いには、紬工場や商店が建ちならんでいた。もっとも、紬工場なんてここが無人になる前ですら残ってなかったし、隣の集落に行かなければ牛乳一本すら買えないようなさびれた集落だ。
「この通りは、ナハミチって言うらしい。浜と山の中間にあって、浜と平行になってる。カミミチが聖の空間なら、ナハミチは言わば俗の空間だ。A島の集落空間は、この二つを軸にした秩序がある」
「むずかしくてよくわかんないよ」
ようやく追いついたキノは、眉をひそめて、不機嫌そうな顔をしている。
「つまり、神さまの空間と人間の空間が重なり合ってるってことだよ」
「なるほどっ」
キノはまだよくわかってなさそうな顔で、けれども明朗な声を上げた。
「僕はちょっとあっちも見てくるけど、一緒に行く?」
「疲れたから待ってる! すぐ戻ってこいっ」
ナハミチに折れてしばらく行く。振り返ると、キノはさっきの十字路で地面に座りこんで、こちらを眺めていた。
僕は溜め息を吐いて、背負っていたデイパックからペットボトルの水を取りだした。季節の区分的には中秋とはいえ、南の島はまだ暑い。じっとりと汗ばんだシャツが気持ち悪くて、着替えを持ってくればよかったと今さらながらに思う。
ごっごっ、と喉が欲しがりな音を立て、水分が身体に浸透していく。歩き飲みしながら十字路まで戻ると、興味津々の顔をしてキノが僕の足に纏わりついてきた。
「なあなあ、それ、おいしいの?」
唇がペットボトルの飲み口に吸いつき、容器がぺこりと音を立てると、ますますキノは目を輝かせた。
「ただの水だよ。あ、そういや、さっき自販機のボタン押し間違えたんだっけ」
キノに倣って地べたにお尻をつけて足を投げだし、僕はデイパックの中に手を突っこんだ。ひやりとした硬い感触のそれを拾い上げて、隣に座るキノの手に握らせてやる。
「ええと……」
キノは戸惑ったように、目の前のジュースの缶を見つめている。まるで今まで一度も缶ジュースを飲んだことがないみたいだ。
「……貸してごらん」
「えっと、おれんち、ビンボーで!」
力いっぱい主張するキノに同意するように小さく頷いてやる。そのまま代わりに開けてやろうかと思ったけど、直前に思いとどまって、缶ジュースを指差すにとどめた。
「そのプルトップを、力いっぱい引くんだ」
「ぷるとっぷ?」
「真ん中のやつな。しっかり押さえて開けないと、中身が飛びだして悲しいことになるよ」
僕の言葉を受けて、キノはまるで果たし合いに挑もうとする勇士のように神妙な顔で、缶ジュースに取りついた。間もなく、プシュッという音がする。シュワッと炭酸が盛り上がってジュースの側面を滑り落ちたかと思うと、地面に小さな染みをつくった。
「うわっ」
飛び上がったキノは、背後にあったブロック塀に頭を盛大にぶつけた。物凄く痛そうに悶えている。
「笑いごとじゃないぞっ」
涙目でそう言われてはじめて、自分が笑っていることに気がついた。思えば、めぼしいオカルト事件を見つけたりした以外で笑ったのは久方ぶりだ。笑うにしても、親兄弟をして不気味だと評されるようなにたりとした笑みしか浮かべたことがなかったと思う。
「兄ちゃんの言うとおりにしたのに、中身が飛びだしたぞ。どういうことだ?」
キノはむっとした様子だ。
「バッグに入れて持ち歩いてたから、中身がシェイクされちゃったんだ。ま、味には変わりないよ」
キノはおそるおそる缶ジュースの飲み口に口をつけた。一口飲みこんで、またキノの瞳が大きく瞬く。
「シュワッてするだろ?」
「うん、なんだこれ!」
「炭酸だよ。僕はこれ、苦手でね。ゲップが出るから。君はどう?」
「すげえウマいっ」
無邪気な笑顔だ。僕は立てた片膝の上に頬杖をついて、キノの様子をつぶさに見つめる。
「それで、どうして解体作業を邪魔して回ってるんだい?」
なんの気なしに問うと、キノは炭酸ジュースを思いきり噴きだした。あまりに勢いが良かったせいで、僕の手の甲にまで飛沫が飛び散る。顔をしかめたが、キノは頓着しないで今度は唾を飛ばしてきた。
「なに言って……!?」
ジュースを気管につまらせたのか、キノは一人ごほごほと噎せている。
僕はぶざまなキノの様子を尻目に、左手の親指を折った。
「一つ目。君が現れたすぐ傍の木。ガジュマルはA島に棲むアヤカシの依り代となり、境界部もしくは聖域を示す。A島のアヤカシは貝が食料だ。あのガジュマルの根っこに散らばっていた貝殻はまだ風化もしていなくて、新しいものだった。ここにアヤカシが棲んでいて悪戯してることは、最初に予測がついた」
僕はそれから、人差し指を折る。
「二つ目。君はカミミチはついてきたけれど、僕がナハミチに向かうとここで待っていた。A島のアヤカシは基本的には集落域――俗の空間には入ってこれない。神さまの眷属だからだ。君は君の領域しか、行き来できない」
中指を折り、僕はくすりと微笑む。
「だいいち、君、影がない。人間に化けてみたんだろうけど、それじゃあつめが甘いよ」
言うと、キノは僕から伸びた黒い影と、普通の人間なら当然彼の身体から伸びていなければならないはずのものを見比べる仕草をした。すぐに、キノの顔がかあっと赤らむ。
「兄ちゃんは、おれを追いだしにきたのか!?」
アルミ缶がへこむほど強く缶ジュースを握りしめて、キノが噛みつく。
「ちがうよ。僕はとらわれにきただけさ。迷宮にね」
「神隠しにでも遭いたいのか?」
「それもまあ、面白いかもね。でも今まで、自力で出てこれてる。今回はどうかな」
「やっぱり、兄ちゃんヘンだぞ。普通のニンゲンは、生きることに執着するもの」
キノは缶ジュースのプルトップを左右に動かして、手遊びをしながら小さく呟く。
「変人だって、よく言われるよ」
肩を竦めてみせると、キノはなにが気にさわったのだかじっとりと僕を睨みつけてきた。
「ここには一人できたのか? トモダチやカゾクは?」
「一人だよ。友達なんてものは元々いない。家族……はいるけど、保護者同伴するような年でもないしね」
「寂しくないのか?」
「べつに。人間さまは、ややこしいからね。深入りしても、面倒なだけさ」
「ハハーン」
そう言ってキノは立ち上がると、僕の足の間に割って入ってきた。半眼で上目遣いに瞳を覗きこまれる。
「おまえは、哀しくて寂しい大間抜けだな!」
アヤカシ――それもお頭のゆるんだわんぱく坊主――におまえ呼ばわりされた挙句、大間抜けと言われて黙っていられるほど、僕の心は広くない。思わず、目の前の広いおでこを突き飛ばしていた。
「痛ぇっ。トシシタにはやさしくしないといけないんだぞ!」
キノは、どこまでも自分が正しいと信じて疑わない顔でそう宣言した。
そんなことを言われても困る。年下(そもそもキノは人間じゃないけど)と接したことなんてないから、こういうときどうやって怒りを抑制すればいいのかわからない。というか、そもそも一般的に言って、ここで説教されるべきは本当に僕なんだろうか。立場が逆転してる気がしてならないのは、僕が変人ゆえの思考回路なんだろうか。どうなんだ。
「……僕は哀しくないし寂しくもないし、おまけに頭がいい」
ぐるぐる頭のなかを巡った問いに答えを導くことはできなくて、僕は小さくそう呟いた。
途端、キノは爆笑をどうにかこらえようとして失敗した、みたいないびつな表情になる。
僕のはらわたが煮えくりかえった。
「僕は君の主張する年下云々を解さない。よって、君になにがしかの配慮をするという結論には行きつかない」
僕はそう説明してから、キノを軽く蹴飛ばした。僕の膝の上に乗っかっていた重みが、地面の上に転げ落ちる。
「たたってやるぞ!」
「べつにいいよ。今までにも祟られたことあるし。君相手なら、そうだな……蛸の話でもすれば、祟る気も失せる?」
A島のアヤカシがいっとう嫌うのが蛸だということは、民話ですでに学習済みだ。ちなみに、大学生ご用達のインターネット百科事典にさえ載っている情報だけど。
案の定、キノはさっと青ざめてから、八つ当たりのように僕のスニーカーをげしげし蹴ってきた。
「祟りがいのないやつだなっ」
キノは口をへの字に曲げて、だけど祟る気配は見せずにもう一度僕の太腿の上にお尻を乗せる。
「じっちゃんは、おまえのようなヤツをエンセイテキっていうんだって言ってたぞ」
「じっちゃん?」
「前にここに住んでたしわくちゃのハゲジジイだ。……もうくたばったけどな」
「……そのじっちゃんと過ごしたこの集落を壊されたくなくて、悪戯をしてるのかな」
「よくわかったな!」
キノは首を反らせて、僕の胸に寄りかかってくる。これまでにも何度かアヤカシに遭遇したことはあるが、これほど人懐こいアヤカシははじめてだ。
「迷宮パズルを解くために、一般人の人間心理について勉強中だからね。アヤカシにもあてはまるとは驚きだ」
キノは紅葉みたいな小さな手を思いきり伸ばして、僕の頬に触れる。湿ってぬるりとした感触が、気持ちいい。
「今度は、兄ちゃんの話を聞かせてよ。カゾクとトモダチの話」
「だから友達はいないって」
そう言ってキノのおねだりを煙に巻くつもりだったけれど、思い直した。キノはどういうわけか、家族と友達の話にこだわっている。
執着や固執は迷宮パズルを解く鍵だ。
「……雨ヶ崎家はそれなりに知られた名家でね。父は元文科相。母は大女優。年の離れた兄と姉が六人いて、上から政治家、Jリーガー、外交官、女子アナ、ピアニスト、起業家とより取り見取り。両親の口癖は、『兄さんたちのように励みなさい』で、僕はなにをやってもひとつとして兄たちより秀でた結果は残せず、“雨ヶ崎”でいることが嫌になったよ」
日頃、周囲からは家族の話を振られてばかりだったが、こうして実際に自分の口から家族のことを話したのは数えるほどしかない。
「そんな折、同級生が神隠しに遭った。その子は三日後無事に戻ってきたんだけど、興味本位で事件現場に行ってみたんだ。もちろん、その辺りの怪異譚のことは調べたうえでね」
「それが兄ちゃんの、はじめての冒険?」
「うん。僕は君が視えるのと同じで、“彼ら”のことも視えた。 “彼ら”は帰り道を見つけた僕のことを褒めてくれた。ある意味、“彼ら”こそ僕の友達に一番近いかもね」
「――おんなじだな」
キノの唐突な言葉に、僕は眉根を寄せた。
気づけば、肌を焼くようだった日差しがすっかり翳っていた。分厚い雲が低く垂れこめている。じっとりとした雨のにおいが鼻先をかすめた。
そういえば、A島はスコールが物凄いから絶対に雨具を持っていくように云々と高梨が言っていたような、そうでないような。普段、無駄口しか叩かない奴だから、まともに話を聞いてなかった。まあ、びしょ濡れの濡れねずみになることくらい、ささいな問題だ。
なにせ僕は今、迷宮にとらわれている。それがすべてだ。
「なにが?」
「おれと兄ちゃん」
「……同じじゃない。君は、“視える”おじいさんを亡くして寂しいのかもしれないけど、僕は誰も亡くしてないし、僕は人間らしい感情とは無縁だ」
「ぷくく」
キノは小さな両手で、ちょっと大きな口を押さえて僕を笑っている。
「なんだよ」
「じっちゃんちのテレビで見たぞ。それ、チューニビョーっていうんだ」
「べつに僕は左手が疼いたりしないっ」
日本の情報化社会は、どうやらアヤカシに流行りの言葉を覚えさせるにいたったらしい。
「……ねえ兄ちゃん、どうしておれがここにケッカイを張れているかわかる?」
キノは、おそらくこのカミヤマに棲むアヤカシだ。そして聖なる領域や聖と俗が混じり合う境界域にしか、踏みこむことができない。集落域すべてに結界を張るなんて所業は、神の眷属でしかないこの小さなアヤカシの身には余る所業だ。
「『視線』があったから。君の言うところのじっちゃんが、君をこの俗空間で認識していた。アヤカシを視ることのできる眼ってのは、魔を孕む。空間に沈殿した魔が、今も残り滓のように残っていて、君が俗空間に干渉することを助けている」
「へへ、さすがだな、兄ちゃん」
「僕の専門なんでね」
キノは立ち上がり、伸びをした。清浄な気配に、にごって混沌じみた排気ガスと人間たちのにおいが混じり始める。
「君はA島の人々のまなざしを注がれて、生まれた。つまり、自然や神に対する畏敬の念が形を取った存在だ。だけど今、君を視ることができる人間は少ない。君がかつて生まれたときと、あまりに時代も人も変わったから」
「うん。だから、島の人間でもない兄ちゃんが、まさかおれのこと視えるだなんて思ってなかったよ」
かつてA島は深い山に閉ざされ、まともな道路も持たず、隣の集落に行くにも険しい山道を越えなければならないほどに交通の便が良くなかった。だから、集落の外は総じて異界と認識され、畏怖されると同時に敬われた。
A島のアヤカシを視るための条件は、この島の自然と神の理を理解することだ。僕は霊感だとかなんだとか、そういう特別ななにかを持っているわけじゃない。
「おれは、ニンゲンの眼がなくなったら、いないのと同じになる。それがちょっと、寂しいんだ。……だから、兄ちゃんに腹が立つ」
そう言って、キノは片手を腰に当ててもう片方の手で僕を指差した。ぞくり、と背筋を冷たいものが走る。キノの目は、言い逃れを許さない強い光を宿していた。
「おれのようなアヤカシはみんな、自分を視てくれるニンゲンの存在がうれしくて、迷宮のなかに閉じこめようとする。だけど、兄ちゃんは、だれとでも話せて、だれとでも仲良くなれるんだ。迷宮を逃げ場所にするなんて、臆病者のクズ野郎だ」
どくん、と心臓が血を送る音を、ひりひりと焼けつくように感じた。
あられもなく自分が素っ裸になったような心地にさせられる。たとえるなら、霊峰に登ったときのような感覚だ。絶対的な大自然の前で、人間はひどくちっぽけで、虚飾なんてものは簡単に吹き飛ばされる。
神の目が僕を見ている。そう、思った。
「僕は……」
キノから目を逸らしかけ、けれどもついには観念して彼の瞳をまっすぐに見つめ返した。
本当は、とうにわかっていた。迷宮パズルにこうまで固執するのは、迷宮にとらわれた瞬間だけは、その空間すべてが僕を見てくれるからだ。
家でも学校でも、だれも僕を見てくれなくて、寂しくて、それを自覚するのが怖くて、僕だけを見てくれる迷宮パズルに逃げこんだ。
本当に向き合わなきゃいけない現実から、僕は裸足で逃げだしたのだ。
「おれはちゃんと知ってるぞ。寂しい、恋しい、いとしい。ちゃんとその気持ちを認めて生きなきゃ、コーカイするぞ」
僕は片手で顔を覆って、うつむく。
「……うん。僕は、駄目なやつだ」
「でも、そんなダメなニンゲンはかわいいぞ」
「君にかわいいなんて言われたら、おしまいだ」
言い、僕は立ち上がった。
山の澄んだ空気と雨ののっぺりとした気配と、人のにおいとが入り混じっている。結界の崩壊が近いのだ。
僕はキノの目の前まで行くと、その場に片膝をついた。キノの湿った頭に手を置き、二度三度と撫でてやる。
「人間は変わりやすくて移ろうものだけど、でも、変わらないものもあると僕は思う」
あるいはそれは、僕の勝手な願望が言わせた空虚な言葉だったかもしれない。だけど、僕は僕の言葉がいつしか実を結ぶよう、祈るようにこいねがった。
「だからキノ、……君は愛されるよ、かならず、また」
キノは時を止めたように僕を凝視した。ああ――たぶん僕は今、救いようもないくらいに赤面している。
「あんまり見るなよ。こんなこと、だれにも言ったことないんだから!」
「へへっ、そうだな。おれはまた愛される。もう兄ちゃんに愛されてるしな!」
にかっと笑った顔は眩い。愛すること、愛されることは、そうであるとただ自分が信じるだけでいいのかもしれない。そんならしくもないことを思った。
「またな」
キノがそう言ったかと思うと、空から滝のような雨が降り始めた。白く煙る視界にまぎれて、踊るように軽快な足取りで小さな影がカミミチを辿っていく。追いかけようと思わず足を踏みだしてすぐ、だれかに強く手を引かれた。反動で、僕の身体はぶざまに地面に投げだされ、尻もちをつく。
「あ、悪りぃ」
聞き覚えのある声を振り仰ぐと、果たして高梨が黒くてでかい傘を掲げて立っていた。
「……おまえ、合宿じゃ」
「部員が怪我してな。付き添いで一足早く東京に戻ったんだよ。そしたら、おまえに渡したチケットが突っ返されてるし、シチローんちに行って聞いてみたら、A島に行ってるって言われるし」
高梨は大きく溜め息を吐いて、僕の頭にチョップを落とした。
「ひとりで行くなんて。とり殺されたらどうするつもりだったんだ? こういうのは複数人で行くのがセオリーだろ」
おまえと僕はそういう間柄じゃないし、そもそも邪悪な類のアヤカシじゃなかったし、と言おうとして、やめた。
「……悪い」
消え入りそうな声で呟くと、高梨は目玉が飛び出るんじゃないかと心配になるほど大きく目を見開いた。
「シチローって、他人に謝ることができたんだな。世紀の大発見だ」
「……うるさい。やっぱりさっきの、取り消す」
「友達に謝れるのは、大事だぞ。覚えとけ」
偉そうに命令口調で言う高梨にいらいらしながら、僕はとある言葉が奴の口からこぼれたことに思いいたった。
「――トモダチ?」
「その様子じゃ、友達だと思ってたのは、俺だけか。ま、おまえが風変わりなのは今に始まったことじゃねえし、べつに良いけど」
高梨は水たまりのなかで足を投げだしたままでいる僕に傘を傾けて、片手を差しだした。
「帰ろうぜ。伯母さんがご馳走つくって待ってんだ。おまえ、そのままじゃ風邪ひくしな」
言われてみれば、身体が急に冷えてきた。濡れねずみになるのはささいな問題だと思っていたけど、そうでもないらしい。だれかを心配させたりすることにもなるのだ。
僕は濡れた手を水気を吸ったシャツに擦りつけてから、高梨のやけにごつい手を取る。
ざあざあとうるさい土砂降りの雨音にまぎれて、キノがけらけらと笑う声が聞こえたような、そんな気がした。