百年茸
オルキスとセシルが心を込めて手入れをしている庭に向かって、大きく出た庇の下。そこに置かれた一人掛けのカウチに座って、セシルはゆっくりとお茶を飲んでいた。
だが、いつもおいしいはずのアルジェフルートが入れたお茶も何となく喉につまる感じがして、なかなか胃の中に入っていかない。
「……ごめんなさい。私、少し横になるわ。オルキス様は森の中よね?帰って来たら教えてもらえる?」
「はい。寝室に何かお薬をお持ちいたしましょうか?」
「大丈夫よ。少し疲れただけだと思うから」
「そうですか……。何かありましたら遠慮なくお呼びくださいませ」
「ありがとう」
心配そうにセシルを見るアルジェフルートに断わって、セシルは立ち上がる。セシルは屋内に入ると、すっかり慣れた屋敷の廊下を進む。
ホールにある大階段を上って、右手の一番奥にある百合の間がセシルの部屋である。屋敷の主人であるオルキスの部屋に次いで大きな部屋で、大人が三人はゆっくりと寝られるようなベッドが部屋の中心に置かれている。この部屋と付属する支度室を合わせれば、それだけでセシルが以前暮らしていた家よりも大きいかもしれない。
セシルは服を少しだけ緩めると、そのままベッドに横になる。
最近のセシルは食欲がなく、いつもだるかった。経済的な事情であまり満足な食事ができないことが続いたこともあり、本来のセシルは食欲も旺盛で食べることが大好きである。それなのに、食べ物を目の前にするとその匂いだけで食欲を失ってしまって、スープや果物がようやく喉に通るくらいだった。
「――セシル?入るよ」
「え?オルキス様?ごめんなさい。私、すっかり眠ってしまったみたいで」
扉をノックする音にはっと気付くと、扉の向こうからオルキスの声が聞こえた。少し眠るつもりが、気が付いたらしっかり寝てしまっていたらしい。
オルキスは森から戻ってきたばかりのようで、外歩き用の濃い茶色のパンツのままである。屋敷に帰って来てすぐに執事のアルジェフルートに言われて、セシルがいる百合の間までやって来たのかもしれない。
「大丈夫。今日も体調が悪いみたいだね?今日の朝もあんまり食べていなかっただろう?食事が口に合わないかい?」
「いえ。そんなことはないのですが、食欲が無くて。心配をおかけしてすみません」
「いや。良いんだよ。……少し視ても良いかい?」
「はい」
オルキスは心配そうにセシルを見て、そしてセシルの体に手をかざす。その手のひらはぼんやりとした光を帯びて、セシルの体に当たる。オルキスは目を瞑ったままそれを体にかざしていたかと思うと、突然目を見開いてセシルを視た。
「セシル!」
「は、はい」
「ああ!何てことだ!こうしちゃいられない。ちょっと出かけてくる!」
「え?あの、オルキス様?」
「君はそのまま休んでいて。すぐに戻るから。くれぐれもベッドから下りないように!」
オルキスの勢いに驚いて、体を起こそうとするとオルキスはそれを慌てて制する。そしてセシルにベッドから下りないように言うと、そのまま部屋から飛び出して行ってしまった。
「……オルキス様?」
オルキスの様子を見ていると、セシルの体に何か異変があったことには間違いないだろう。この体になってからは、病気一つしたことがない。その上、前世では薬師をしていたことから、病気になればすぐに分かるはずだった。オルキスはセシルの体に起こった異変について何も説明もしないまま走り出してしまったので、セシルには不安だけが残ったのである。
「――奥様。お食事をお持ちしました」
そしてオルキスが出て行ってから少し。辺りがすっかり暗くなり、百合の間にも明かりが灯された頃、アルジェフルートがやって来た。セシルが返事をすると、にこにこと笑みを浮かべたアルジェフルートは食事の載ったカートをベッドの横に付ける。
「これは……百年茸?食べたことがあるわ。とっても珍しいのでしょう?」
「はい。百年茸のスープでございます。先ほど、旦那様が自ら採ってきてくださったのですよ」
「そうなの。私か前に食べた時もオルキス様がくださったの」
この香りには覚えがあった。オルキスを訪ね、村に戻る道中にオルキスが作ってくれたのが、この百年茸のスープである。このスープを作ってくれたときに、彼はこのきのこは百年に一度しか生えないのだと言っていた。百年も生きることのできない人間の自分には再びそれを目にすることは叶わないだろうと思っていたのに、あのきのこが再び目の前にあるのが何だか不思議な感じがする。
あの時はオルキスとの最初で最後の旅だと思っていた。あんなに長く一緒にいられるかとが幸せであると同時にとても辛かったのをよく覚えている。それなのに、あれからオルキスと離れて暮らしたことはない。
セシルが感慨に耽っていると、目の前のアルジェフルートは楽しそうにくすくすと笑みを零した。
「おやおや。そうでしたか。旦那様もなかなかやりますねぇ」
「……?何か意味があるの?とっても珍しいものだとはお聞きしたけれど」
珍しいものであるというのはよく知っている話だ。だが、アルジェフルートの表情を見ると、それだけではない様子である。首を傾げてアルジェフルートを見れば、彼はにっこりと笑って説明を始めた。
「栄養が豊富で、滋養強壮に良いのはもちろんですが、エルフにとって百年茸には一つ意味があるのです。名前の通り、百年茸は百年に一度しか食べられないきのこで、それを見つけることは難しいことでございます。ですから、これを意中の女性に贈るのがエルフの古い風習なのですよ。人の子は指輪を贈るそうですが、エルフは百年茸を贈るのです。百年後もまた一緒に百年茸を食べられるように、と」
「え……!そんな、知らなかったわ」
「今の若いエルフたちですら知らないと思いますから無理もありませんよ」
「でも、それならこの食事を一人で食べるわけにはいかないわ」
「旦那様をお呼びいたしましょうか?」
「……お願いできる?」
「はい。かしこまりました」
アルジェフルートはにっこりと微笑むと、その姿を鳥に変えて颯爽と飛び立ってしまった。これは彼の持つ能力の一つで、青年の姿があっという間の白銀に輝く烏へと変わってしまうのである。そして彼が飛び立って、少しもしないうちにオルキスが部屋に飛び込んで来た。オルキスの髪はいつものように綺麗に結われてもおらず、ようやく乾かして櫛を通しただけの様子である。
「オルキス様、お風呂に入っていたのですか?お呼びしてすみません」
「君に会うのに汚れたままじゃいけないと思ってね。体は大丈夫?無理はしていないかい?」
「オルキス様が出て行ってからベッドから下りてい
ませんよ。それにしても、私の体……どうしたのですか?」
オルキスはベッドに腰掛けると、セシルの手を握って顔を見つめる。オルキスは優しく微笑むが、セシルは不安で顔が強張ってしまう。そんなセシルの頬に手を伸ばして、オルキスはきょとんと首を傾げた。
「あれ?僕、出て行くときに言っていなかった?」
「はい。それで、その……?」
「ああ!何て言えばいいのだろう。セシル、君のおなかには僕たちの赤ちゃんがいるみたいだよ」
「……え?赤ちゃん?私とオルキス様の?」
「そう。僕と君の!なんて素晴らしいことなんだろう!」
オルキスはそう言ってセシルの体をぎゅっと抱きしめる。
「オルキス様……」
「ほら。このスープを飲んで?とっても栄養があるんだよ。おや、ぬるくなってしまっているね。温め直そう」
手に持ったスープカップの上に手をかざすと、冷めてしまってはずのスープからほかほかと湯気が立っている。にっこりと笑うと、オルキスはセシルに温かくなったスープカップを渡した。
「あの。アルジェに聞きました。百年茸のこと」
「うーん。それは少し恥ずかしいね。でも、僕は百年後も二百年後もセシルに愛を誓うよ」
「……私も、です」
オルキスは恥ずかしそうに頭を掻くと、セシルに愛の言葉を囁く。セシルがそれに頷くと、二人の影はそっと一つに重なった。十年後も百年後も変わらぬ愛を誓って。
リクエストをいただいた、二人が子どもを授かる話です。
百年茸もこんな設定で書いていました。
ちなみに、二人の子どもに関しては「彼の設定はハーフエルフらしい」参照です。
二人はほとんど出てきませんが、執事のアルジェフルートがしっかり出てきます(笑)