来訪者
本編で描写を削った裏設定にあたる番外編です。
最終話から一年後あたりの話です。
※番外編に出てくるオルキスは大昔に妻と死別していて、息子がいます。ご注意ください。
「――セシル、これが息子のジェイド」
「ジェイドさん。初めまして。ええと、妻のセシルです」
「セシルさん、初めまして、ジェイドです。それにしても、父上も水臭い。結婚したならしたですぐに教えてください。おかげで、挨拶がこんなにも遅れてしまったじゃないですか」
本当に簡単に紹介するオルキスの横には見たことのない美青年がいる。オルキスによく似た蜂蜜色の髪に、深緑色の瞳、目元はオルキスにそっくりだが、彼よりも少し神経質そうな顔立ちだ。白いシャツに薄い土色のパンツというラフな格好のオルキスに対して、ジェイドは見たことがない装飾のされた立ち襟の上着をしっかりと着ている。ハイエルフのオルキスはその種族の特性もあり、見た目の年齢は青年とほとんど変わらない。目の前で彼の息子と並んで見ても、二人が親子だとは到底思えなかった。せいぜい兄弟くらいにしか見えないだろう。
セシルが緊張しながら挨拶を返すと、目の前の美青年はオルキスを恨めしそうに見て、わざとらしくため息を吐いた。
「はは。そんなに遅くはないだろう?」
「それはエルフならの話です。セシルさんは人の子なのでしょう?遅すぎるくらいですよ」
「そうかな」
「そうです。昔と違って、今は旅をするようなエルフもほとんどいません。たまたま風の精霊が教えてくれたから良かったものの……」
ジェイドはそう言って顔を顰めた。セシルとオルキスがセシルの田舎で式を挙げて、この迷いの森に戻ってきてから早一年が経っている。他のエルフの住まいが分からないので伸ばし伸ばしにしてしまっていたが、確かに彼の家族への結婚の挨拶としては遅すぎるくらいかもしれない。
「すみません。本当なら私から挨拶に伺わないといけないのに……」
「いや、セシルさんを責めてるわけではなくて。父上は古いエルフだから、どうもエルフすぎるところがありますからね」
「エルフすぎる、ですか?」
セシルが慌てて謝ると、ジェイドは困ったように首を振った。そして彼が話した言葉にセシルは首を傾げる。
「はい。もう人の子らの世となっているというのに、父上は世間知らずでそちらの事情に疎いでしょう?父上が結婚したと聞いたときは、セシルさんにご迷惑をお掛けしていないか心配で心配で」
「ふふ。ありがとうございます。でも、エルフの事情に疎いのは私も同じですから。毎日発見があって楽しいですよ」
ジェイドの表情には嫌味も不快な感情も何も感じられない。その上、あんまりにも心配そうに言うので、セシルは思わずくすりと笑みをこぼした。二人は親子と言えど、その性質は大分違うらしい。どちらかと言うと大らかで楽観的、小さなことは気にならないオルキスの息子だからこそ、彼は真面目な性格になったのかもしれない。
オルキスと知り合って数百年と経つが、二人が共に過ごした時間はまだまだ短い。その上、人間とエルフとでは文化の違いも多かった。それでも、毎日新しい発見があって楽しいのは言葉通りの事実である。
「そうですか?」
「――セシルがそうだと言っているだろう?はい、二人とも。お茶が入ったよ」
疑り深いような顔で夫婦を見るジェイドの前に、オルキスがお茶を置く。カップからは採れたての新鮮なハーブの香りがして、まるで応接間が森の中のように感じてふっと心が安らいだ。
「このお茶はアルジェのですね?父上が隠居すると言い出したと思ったら、アルジェを連れて里を出てしまうのだから。おかげでアルジェが淹れるお茶が飲めなくなって悲しいです」
「おやおや、坊ちゃん。嬉しいことをおっしゃってくださいますねぇ」
ジェイドはそう言って、しみじみと言った様子でオルキスの側にいるアルジェフルートを見ながらお茶の香りを楽しんでいた。確かに茶葉の味も重要だが、その淹れ方一つでお茶の味は全然違うものになる。その点で言えば、このアルジェフルートが入れるお茶は相当美味しいものだろう。セシルと同じ茶葉を使っているはずなのに、彼の入れるお茶は彼の性格を表すかのように優しい甘さがある。
「アルジェは私に仕えてくれているのだから当然じゃないか」
「そうですけど。アルジェがいなくなって、母上が亡くなった時以来泣きましたよ」
「……それは悪いことをしたね」
セシルはオルキスから前の妻の話をほとんど聞いたことがなかったので、ジェイドからその名を出されてどきりと胸が跳ねた。ちらりと隣に座るオルキスを見れば、オルキスは困ったような顔で小さく笑っていた。
***
両手で持ったじょうろから流れ出る水を見ながら、セシルはジェイドの言葉を思い出していた。
オルキスが以前結婚していたことがあるというのは聞いたことがある。彼はエルフの中でも古いエルフ――ハイエルフであって、彼の血を残すことは一族にとって重要なことであるらしい。だから結婚していたことがあり、子どももいる。妻は亡くなり、子どもが独り立ちしたので迷いの森で隠居しているのだと笑っていたのだ。
「――セシルさん。花に水遣りですか?」
「ジェイドさん。はい。最近は天気が続いていましたので、なんだか元気がないみたいで」
「父の力は使わないのですね」
「そう、ですね。オルキス様のお力は素晴らしいと思いますが、花は自分の力で美しい花をつけられますから」
声に振り返ると、ジェイドがセシルが水を遣るところを楽しそうに見つめていた。ここ数日温かい日が続き、いつもに比べ花は少し元気がなかった。
オルキスの持つ不思議な力の一つとして、植物に力を与えるというものがある。それ自体は彼の負担にもならないようで、セシルが頼めば彼は喜んでその力を振るってくれることだろう。だが、この花たちは自力でも十分に美しい花を咲かせることができる。オルキスの力を使えば、花たちは美しい花を咲かせるが、その花は美しすぎるのだ。だからオルキスも植物を育てるときにその力を使わないのだろう。
「セシルさんは父に母の話を聞いたことが?」
「……前に奥様がいらっしゃったとはお聞きしましたが、それだけです」
「そうですか。――母は病気で亡くなりました。エルフは長命ですが、決して不老不死ではありませんから」
エルフは長命な一族として有名だ。その長命すぎるせいで、不老不死であると人間には思われがちだが、彼らにも死はある。治せないような大怪我を負えば死に至るし、人間と同じように大病にかかることもあるのだ。そして長命であるが故に彼らは子どもが出来にくい。オルキスはセシルの村でも楽しそうに子どもたちを見ていたが、彼らエルフにとって子どもは宝そのものなのだろう。
オルキスの前でもジェイドが「人の子の世」と言っていた。かつては精霊魔法に長け、自然とも心を通わすエルフが世界を制していた時代もあったらしい。今セシルたちが住んでいる屋敷も数百年前から姿を変わらないが、それはそれ以上前からここに建っているということでもある。それがエルフたちの文明が栄え、優れていたという証拠でもあるのだと思う。
しかし、それらの話も人間にとっては神話のような話でしかない。それだけ、彼らエルフは人間には到底持ち得ない大きな力を持っているのだ。だが、そんな大勢いたエルフたちも今は人の町では見ることは叶わない。子どもに恵まれない彼らは神話の時代から少しずつ少しずつ数を減らし、今ではおとぎ話の住人と思われているのである。
「父は寂しい人です。他のハイエルフたちはすでにこの世界から旅立ち、あの人は最後のハイエルフになってしまいました。それなのに寿命で考えたらただのエルフの私よりも圧倒的に長いのです」
「最後の……」
「異界にエルフたちが住まう楽園があると聞きます」
「異界ですか?」
「そう。この世界は一つに見えて、一つではないのです。たくさんの世界が重なっていて、私たちが住むここもその一つでしかありません。父もそろそろ旅立ってしまうのだろうと思っていました。私もこの通り、十分大人ですしね」
ジェイドの話を聞いて、セシルは思わず言葉を失った。しかしジェイドはセシルを見て、おどけて笑って見せる。
「でも、セシルさんのおかげで父をもうしばらく世界に留めておくことができそうです。貴女には感謝します。ありがとう」
「……いえ、そんな」
「父と私の母は決められた婚姻でしたから、決して夫婦仲が良いとは言えなかったのです。そのせいもあって、家族仲は良くも悪くもなくて。父は私が大人になるまでは我慢して里に居たのですよ。私では父を引き止めるものにはなれない」
首を振ってジェイドの言葉を否定するセシルにジェイドは寂しそうに笑う。
「私はセシルさんを歓迎します。どうか、少しでも長く父の側に居てあげてください」
その言葉は祈りの言葉のようでもあった。風一つ吹いていなかった花園で優しい風がふわりと吹く。その風はセシルの頬を優しく撫でて、すっと通り過ぎた。
「――二人とも。もう陽が強くなってきたから屋敷の中に入った方が良いよ」
「先に戻りますね」
「あ、はい」
オルキスが二人を呼びに来たかと思うと、ジェイドは含みのある笑みを見せて一人でさっさと屋敷の方に戻ってしまった。そしてオルキスはセシルをじっと見つめて、小さく唸った。
「じょうろ、持つよ。――ん?これは……ジェイドの祝福だね」
「祝福、ですか?」
「そう。呪いとは間逆のものかな。君にかかっている祝福はエルフの世界に馴染みやすくなるものだよ。これで君はエルフの里を訪れることができるようになったみたいだ。あれでもジェイドはエルフの長だから」
セシルが聞き返すと、オルキスはそう言って楽しそうに微笑む。セシル自身は特に何も感じないが、彼が言うならきっとそうであるのだろうと頷く。
「あの。ジェイドさんに亡くなった奥様とのことお聞きしました」
「そっか。悪口じゃなかった?」
「え、そんなことは」
冗談めかして笑うオルキスにセシルは慌てて否定する。
「僕は良い夫でも、良い父親でもないからね。ジェイドが話したことは全部正しいよ」
「ジェイドさんは家族を愛していらっしゃるのだなと思いました。オルキス様のことですよ」
「……そっか。私なんて全然良い父親じゃなかったよ。これは本当にね。それでも、彼がそう思ってくれているなら嬉しいよ」
「ジェイドさんにとっては大好きな父親で、私にとっては愛する夫です」
「そう、だね。愛する僕の奥さん」
オルキスは嬉しそうに頬を緩ませて、セシルの唇に自身のそれを重ねる。それはふわりと触れ、セシルの心を温かく包み込むようだ。心までを包み込むそれにセシルの表情にも自然と笑みが零れる。二人は顔を見合わせてくすりと笑い合うのであった。