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 セシルの狭い部屋には母の鏡台が置かれている。明日の嫁入り支度に備えて、母のものを借りてきたのだ。その前に座って鏡の中の自分を見る。鏡の中の私は黒髪に白い肌。私なのに私ではないようだった。


 セシルが初めてこの世に生を受けた時は迷いの森の近くの村に生まれた。両親は普通の農家で、セシルはその家の末の娘だった。すでに上の兄は独立して近くに暮らしていたので、セシルは両親と三人暮らしだった。

 迷いの森はあまり人が近づかないということもあり、きのこや食べられる野草などが豊富である。あの日は母が熱を出して寝込んでいたので、少しでも栄養のあるものを食べさせたいと普段は近寄りもしない迷いの森に足を踏み入れたのだ。――そして、オルキスと出会った。


「……ここ、さっきも通った。やっぱり完全に迷ってる。やっぱりあの噂は本当だったんだ……」


 セシルの足はついに止まった。朝から歩きっぱなしで、足は棒のようになっている。本当は昼前には家に戻ろうと思って、昼ごはんも持たずに出てきたのだ。それなのに森から出ることも出来ず、すでに太陽は西に傾いてしまっている。恐らくもうじき日も暮れるだろう。

 朝はかろうじて少しだけ食べているが、昼も食べずに歩き通したのでさっきからお腹が鳴りっぱなしだ。幸か不幸か人がいないのでその音を聞かれる心配はないが、人がいないので助けも期待出来ない。


「きのこも薬草も目当てのものは見つけられなかったしなぁ」


 そう言って深いため息を吐く。こうやって一日歩き通したというのに、目的の滋養効果のあるきのこも、熱に効く薬草も見つけられなかったのである。まさに無駄骨だ。ついにセシルはへたりと地面に座り込んでしまった。

 そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。日はすっかり沈み、森は夜の闇に包まれている。夜行性の鳥の鳴き声が其処彼処から聞こえてくる気がする。気温はぐっと下がり、昼までの温かな空気が嘘のようだ。セシルはぶるりと体を震わせ、自身の体を抱く。


 その時。

 ガサリと音がして、セシルの背後の茂みが揺れた。森の獣が動き出してもおかしくない時間だ。村の男たちが迷いの森には大きな狼が出るなんてことを話していたことを思い出す。どうしてその時までそれを思い出さなかったのか自分を責めたいのは山々であるが、それを今思ったところでもう遅い。

 ただでさえ疲れきっているということもあって、セシルの足はまるで役に立たなかった。腰がすでに抜けてしまって、どうにか後ろに下がるので精一杯なのである。だが、そうこうしている間に茂みが揺れる音が大きくなる。

 セシルはきのこを入れるために持っていた籠を抱いて、それの訪れを身構える。


 そしてその時はやって来る。

 茂みが大きく揺れたと思ったら、まるで木々が意思を持って道を開けたかのようにすっと道が出来た。そしてそこをゆっくり歩いてきたのはセシルが思っていたものとはまるで違うものだった。


「おや。迷子かな?」


 当然ながらセシルは神様を見たことはない。それでも、誰かが彼を神だと言ったらきっとすぐに信じてしまうだろうと思った。それくらいこんなに美しい人を見たことがなかったのだ。恐らく、彼はエルフだ。話には聞いたことはあったが、こんなにも違うとは思わなかった。一目見れば、彼がエルフであるとすぐ分かる。明らかに種が違うのだから。


「君、大丈夫?」

「え……あ、はい」


 気が付くと、美貌の人はセシルと目線を合わせるように目の前に屈んで、微笑んでいた。


「可哀想に。迷ってしまったんだね?」

「オルキス様!ダメです!」


 オルキスと呼ばれた彼の後ろにもう一人、いやもう一匹いた。それはとても大きな狼だった。しかしその狼はただ大きいだけではなくて、明らかに普通の狼とは違った。その大きな狼はその気になったらセシルの頭など軽く飲み込んでしまいそうな大きな口で、器用にも人の言葉を話しているのである。


「……人の言葉を話してる……?」

「おい、人間。軽々しくオルキス様と話してるんじゃねーぞ」

「フォーレ。だめだよ。女の子には優しくしないと嫌われるっていつも言ってるだろう?」

「オルキス様……俺は別に……」


 ガルガルと私に向かって恐ろしい牙をむく大きな狼に向かって、オルキスは優しく諭すように語り掛けている。狼の方が強そうなのに、狼はオルキスには逆らえないらしく、尻尾を巻いてそれを大人しく聞いている。そんな様子がなんだかおかしくて、怯えていたのも忘れて思わず笑ってしまった。


「おや。笑顔が可愛らしいじゃないか。フォーレ、外に案内してあげよう」

「……オルキス様は言い出したら聞かないからな。娘、これは特別なんだからな!」


 フンと鼻を鳴らして狼が呆れた顔でセシルを見ていた。セシルは慌てて立ち上がろうとするが、なかなか立ち上がることができない。そしてその時、ぐぅと気持ちが良いくらいのお腹の音が鳴った。


「……すみません……」

「ははっ!分かった。僕の屋敷にお招きしよう」

「お、オルキス様!」

「フォーレ、君は先に行ってアルジェに何か食べるものを用意するように伝えて」

「え!あの!すみません!大丈夫です!」

「ほら!娘もこう言ってるし!」


 オルキスの言葉にセシルは慌てて断わる。そしてそれを聞いてフォーレも大きく頷いた。だが、オルキスにはその二人の言葉なんて耳には入っていない様子である。


「いつも君が献身的に傍にいてくれて感謝しているよ。……それとも、僕が人間の女の子に負けるとでも?」

「それはまさか!」

「じゃあ、ほら。アルジェフルートに伝えて。僕はこの子と屋敷に向かうから」

「……アルジェに叱られても知らねーからな!」

「ごめんね。ちょっと失礼するよ」


 そしてフォーレが森の中に消えた。残されたのはセシルとオルキスだ。オルキスはいとも簡単にセシルのことを抱え上げたのである。


 セシルがはっと気付くと、鏡台に突っ伏して眠りに付いてしまっていたらしい。鏡には腕を下にしていたために、服の繊維の跡がはっきりとついていた。


「明日、結婚する花嫁には見えないわね」


 そう呟いて苦笑する。若い乙女憧れの白いドレスを着るというのに、顔には服の跡がついて、どこか浮腫んでしまっている。

 オルキスは結婚式の前に来てくれると言ったのに、結局彼が現れることはなかった。欲を言えば、彼に会いたい。会ったところで何があるわけでもないのだが、会いたかった。

 でも、きっとこういう運命なのだ。彼が自分のことを友人と思ってくれているだけでとても幸せなことではないか。


「……ティティの様子を見に行かなきゃ」


 居眠りをしている間に、ティティの様子を見に行く時間になっていた。それを思い出すと、セシルは今まで考えていたことを思考の隅に追いやって立ち上がる。母は今日くらい母が看病をすると言ってくれたのであるが、いつも妹の治療費のために寝る間もないくらいに忙しく働いているので断わったのだ。

 狭い部屋を出て、リビングに入ると玄関扉を叩く音がする。


「――はい?どなたですか?」

「セシル。僕だ。オルキスだよ」

「まぁ!オルキス様!」


 その声を聞いて扉を開けると、扉の向こうに居たのは確かにオルキスだった。待ち焦がれた彼の姿をしっかり瞳に焼き付けようとその姿をゆっくり見た。


「遅くなってごめん。準備に手間取ってしまって」

「私はオルキス様に一目会えただけで十分ですから」

「ティティに会っても?」

「それはもちろん。でも、準備って?」


 リビングに彼を招き入れると、オルキスはにっこりと笑って肩に掛けていた鞄を示した。それを見ても未だ状況が読めずに首を傾げると、オルキスはそんなセシルの頭を撫でた。


「解呪の準備さ。精霊魔法には自信があるんだけれど、人間が使う魔法には少し疎くてね。賢者に教えてもらってきたよ」

「賢者様!?」

「ティティ。オルキスだけど、入ってもいいかな?」


 驚きでそれ以上言葉も紡げないセシルを他所に、オルキスは慣れた様子で扉向こうのティティに話しかけている。扉の向こうからはいつものように鈴の音が聞こえて、それを聞くとオルキスはさっさと部屋の中に入ってしまった。

 しかしセシルが驚くのにも無理はない。魔法を極め、その真理を見た者のことを人は賢者と呼ぶ。だが、賢者はこの世に一人しかいないのだ。それほどまでにその名に到達することは困難を極める。今いる賢者は荒野にある賢者の塔に篭り、もう何十年と表には出てきていないという噂だ。セシルは当然ながら彼を噂でしか聞いたことがないし、現実に存在しているかどうかも定かではないのである。


「――姉さん!見て!あたし、歩ける!」

「え!」


 はっと気が付くと、目の前には自らの足で立ち上がりベッドの傍を歩くティティの姿があった。セシルが駆け寄って、その足を間近で見てみても彼女の足取りはしっかりとしたものだった。


「ティティ。呪いが解けたとは言え、君は長く体力を削られていたんだ。しばらくは無理は禁物だよ」

「はーい」


 オルキスの言葉に素直に頷いてベッドに戻るティティをセシルはまだ信じられないような目で見ていた。ティティが寝込むようになって、こうして一人でベッドから下りて歩いたのを見たのは本当に久しぶりのことだった。


「さて。これで君に言いたいことが言える」

「オルキス様?」


 オルキスがセシルに向き合うと、首を傾げるセシルの前に片膝をついてセシルを見上げた。


「――セシル。僕と同じ時を歩んでもらえないだろうか?」

「でも、私は明日領主様と結婚を……」

「君はその領主とやらが好きなのか?」

「それは……とても素晴らしい方だとは思いますけど。でも、愛はいずれついて来るって……」

「セシル。僕は君が好きなんだ。君は?セシルは僕のことをどう思っているんだい?」

「……好きです。でも……」


 オルキスのことは好きだが、セシルは別の人との結婚が決まっている身である。今結婚をなかったことにできたとしても、村人達は誰よりも誰かの結婚式を喜んでいるし、準備にもかなりの時間をかけてもらっている。それを知っているので、オルキスの気持ちが嬉しくても素直に頷くことは出来なかった。


「よし!それじゃあ、今から領主の元へ向かおう」

「え?え!」

「姉さま!頑張って!」


 オルキスは歯切れの悪いセシルの様子になんてお構いなしで、セシルの手を取ると家を飛び出した。そして家を出ると、自分たちのすぐ傍に白く輝く鳥が飛んでいることに気が付いた。


「もしかしてアルジェさん?」

「こんな姿で失礼致します。オルキス様、領主殿への面会予約を取り付けておきました」

「そうか。助かるよ、アルジェ」

「いえ、当然のことをしたまでですので。オルキス様、領主殿の屋敷はこちらでございます」


 目の前に飛んでいた鳥はオルキスの執事であるアルジェフルートであった。彼は白銀の翼を羽ばたかせながら器用に言葉を紡ぐ。そして有能が執事はこの展開を知っていたかのように領主との約束を取り付けていたらしい。

 そしてオルキスは執事の案内する通りに道を進み、領主の屋敷まではすぐだった。普通であれば走り切ることができないような距離を走り切ることができたのは、きっとオルキスが何か魔法を掛けていたのかもしれない。その証拠に、結構な速さで走ったというのにセシルは息が切れることすらなかった。


 そして領主の屋敷についてからは文字通りあっという間だった。オルキスは初老の領主に婚約を解消させ、今度はセシルとオルキスの結婚を認めるように話をまとめてしまう。そして、なんと領主とセシルのために準備していた結婚式を、セシルとオルキスとで行うことになってしまった。セシルの両親は愛の無い結婚に渋い顔をしていたので、セシルがオルキスと結婚することを告げると二人は飛び上がって喜んだのである。


「――夢みたいです」

「信じられない?」


 隣に座るオルキスは穏やかに微笑んでセシルを見る。すでに宴もたけなわ状態で、青年たちが娘を誘って楽しげに踊り始めているのが目に入った。

 オルキスはアルジェフルートが準備した白銀の糸で紡がれた洋装を来て、セシルは村娘は自らの結婚式でしか着ることのない真っ白なドレスを身に纏っている。セシルは長いことオルキスに恋をしていたが、こうやって結婚するということを夢見たことがない。それを願うことすらなかったのだ。


「……はい。そうですね。夢みたい、というか想像もしたことがなかったので何というか」

「じゃあ、信じさせてあげようか?」

「え?――!」


 オルキスが不敵に笑ったかと思うと、すぐにセシルの視界はオルキスでいっぱいになった。そしてキスされていると気が付いたのは、村人たちに囃し立てられる声が聞こえてからだった。


「まだ信じられないかい?」

「……そ、そんなことない、です」

「そっか。残念」

「……オルキス様、からかってますよね」

「くくっ。そんなことないよ?」


 そう言うオルキスはどこか機嫌が良さそうだ。セシルが顔を赤に染めて、顔を俯かせると横でオルキスが小さく笑いを漏らしているのが聞こえた。


「オルキス様、その一つ聞いても良いですか?」

「うん?何でも聞いて」

「その……どうして私のことを選んでくれたんですか?」


 セシルがオルキスを見て聞けば、オルキスは目を瞬かせて持っていたグラスをテーブルに置いた。


「うーん。そうだなぁ……。じゃあ、セシルは?」

「私ですか?うーん?上手く言えないです。オルキス様のこと好きで、それでいっぱいで」

「僕も。ただ、君が好きなんだよ。もう失いたくないって思ったのは君が初めてなんだ」


 オルキスはそう言うと優しげに微笑んで、セシルのこめかみに唇を落とす。二人のための結婚式であるというのにすでに会場はお祭り状態で、主役の二人に目を向けている者はいない。

 そしてオルキスが再びセシルに口づけをしているのを見ている者も、誰も居なかった。

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