中
迷いの森に辿り着くまで、若い女一人の旅はそれはそれは大変なものであった。前世で薬師をしていた時代に経験があるとは言え、女一人の旅には危険が付きまとう。
女の足では一日にそう長い距離を移動することはできないし、宿もしっかりした場所を吟味する必要があるのだ。そのために体力だけでなく、神経をもすり減らす過酷な旅になってしまうことが多い。
だが、エルフと一緒の旅というのはここまで楽なものなのかと驚く。
歩く距離自体は変わらないが、休む時には植物が姿を隠してくれるし、腹持ちの良い保存食も人間が作るものとは大違いの美味しさである。その上、水場を探すのにも苦労をしないのである。
「このきのこ、初めて見ました」
「だろう?これは食べられるくらいまで育つのに百年かかるんだよ。だから名前も百年茸。生えている場所も見つけるのが難しいしね。今日は幸運だったよ。これもセシルのおかげかな?」
それは奇抜な色や形をしているわけでもないのに、初めて見る種類だった。セシルも薬師の仕事をしていた関係で野草やきのこなどのものには詳しいと自負していたというのにである。そんな見たこともないきのこを前に驚いてオルキスを見れば、彼は得意そうに笑う。
「そんなに珍しいもの、食べてしまって良いんですか?」
「いいんだよ。根元を残しておけばまた生えてくるしね」
彼がそう言ってきのこを炙り始めると、すぐに百年茸からふんわりと良い香りが香り始める。そして先に温めていたスープを木で出来た器に注ぐと、炙ったそれを載せてセシルに渡す。
「ありがとうございます。本当良い香りですね」
「だろう?味もとっても良いよ。食べてみて」
「はい。いただきます。……おいしい!」
口に含むとふわっと百年茸の香りが鼻に抜ける。思わず頬が緩んで、顔に笑みが浮かんでいるのが分かった。そんなセシルを満足そうに見つめて、オルキスもスープを食べ始める。
「うん。おいしい。……そういえば、初めて会った時もこうやって森の中で食事をしたっけ」
「森で迷子になっていた私を助けてくれたんですよね」
「ははっ。そうだったね。森で迷子になっている君を見つけて。外に案内してあげるって言ったら、おなかが空いて動けないって」
そう言ってオルキスは堪えきれないようにくすくすとおかしそうに笑うので、セシルは羞恥に頬を赤らめてじっとオルキスを睨んだ。
「そ、そのことは忘れて下さいって言ったじゃないですか!」
「ごめんごめん。でも、忘れられないよ。セシルと初めて出会った大切な思い出なんだから。人間は儚く通り過ぎてしまうけど、僕は出会った人のことを全部覚えているんだ」
そう言ってオルキスは悲しげに微笑む。オルキスはハイエルフだ。人間であるセシルにとっては、エルフもハイエルフも違いはよく分からないが、ハイエルフはエルフよりもずっと長生きであるらしい。それこそ人間がこの地に国を築くよりも昔からオルキスは生きているのだと、遠い昔に話してくれた。
それほどまでに長生きである彼はたくさんの出会いと別れを経験してきたのだと言う。セシルとそう年齢が変わらないように無邪気に笑う彼なのに、その心にには幾十の人が眠っているのだろうか。それを思うと、セシルの心はぎゅっと締め付けられるようだった。
「オルキス様……」
「そんな顔をしないで?別れがあるということは新しい出会いもあるということだから。それに、君は三度も僕と出会ってくれた。君には感謝してもしきれないよ。そういえば、今の君の家族は?今は北の国に住んでいるんだろう?あの辺りからこちらまで訪ねてくるのに、家族は心配したりしなかった?……セシル?」
何気なく聞いてきたオルキスの言葉にセシルの顔色が陰る。オルキスはすぐにそのことに気付いて、心配そうにセシルを見た。
「家族はとっても温かい人たちです。……なんですけど、妹が難しい病気に罹ってしまって」
「妹さんが?」
「はい。優秀ではなかったですけど私も薬師でしたから、どういう状況なのかは分かるんです。でも、王立治療院に行けば直せるかもしれないということが分かって、私の結婚式が終わったらそこに妹を入れることになったんです」
「王立となると、治療代もかかるんじゃないのかい?申し訳ないけど、見たところ君は日々食べるものも食べていないように見える」
「……領主様と結婚するとその援助をしてもらえるんです」
セシルはそう言って苦い顔をして俯く。確かにセシルの身体は骨ばっていて、年頃の女性にしてはふくよかさに欠ける体だ。今までは妹の薬代のために食費を限界まで削っていたせいもあって、あまり体に丸みがない。
「でも!領主様は本当に優しい方なんです。王立治療院に入るのには身分が必要で、そのために結婚をすることになって。領主様は奥様を亡くされているんですが、奥様を愛しているからってずっと一人きりだったんです。だから心の中で誰かを想っていても良いって言ってくださって、その……」
「確かに話を聞く分には良い人間のように思う。でも、大事な人の伴侶なんだ。ちゃんと僕にも挨拶をさせて欲しいな。……なんて言ったら、僕は君のお父さんみたいだ」
オルキスは真剣な顔でそう言って、すぐに誤魔化すように笑った。
そして二人の旅は順調に進んだ。再び会うまでにあった出来事を話していると、来る時は長く感じた一人の道のりもあっという間なのである。その上、オルキスが愛馬を呼び寄せて二人で相乗りすることもできた。このことはセシルにとってかけがえのない思い出になっただろう。
気が付くとセシルが生まれ育った村が見え、それに気付くとセシルの口数は少なくなる。この楽しかった時間も終わり。それを思うと心が苦しいのである。
「――セシル?」
いつの間にか足が止まってしまったセシルをオルキスが心配そうに見た。セシルは何度となく口から出そうとして飲み込んできた言葉を口に出そうか悩んで、結局はいつもと同じ言葉を口にした。
「また、生まれ変わることができたら。会いに行ってもいいですか?」
「もちろん。セシルが合言葉を忘れない限り、迷いの森は君のことを歓迎するよ」
「そう言っていただけて、思い残すことはありません。今回は領主様のために尽くせます」
オルキスの言葉も前回と同じであった。セシルは目に溜まる雫をどうにかして零れないように瞬きを止めて、ようやく笑みを作る。
セシルの言葉は嘘偽りのない、本当の気持ちだ。今まで何度か繰り返した人生では誰とも結婚せずに人生を終えていたので、結婚に対する不安は大きい。それでも、心を自由にする許しを得た代わりにセシルは領主に尽くすことを決心していた。愛を得られずとも、安らぎを与えることができれば良いと思っていた。
そして村に着くと、案の定オルキスは村の子供たちに囲まれた。何せ、子供たちにとってはエルフはおとぎ話の中の住人である。人間の前に姿を現すことは極稀であるし、普通に暮らしていたら大人であってもその存在を見たことのない人の方が圧倒的に多い。
ようやくオルキスを連れてセシルの家にたどり着いた頃には、山越えをした時よりも疲れていた。
「人懐っこい人間たちだね」
「本当にすみません。嫌な気分になっていませんか?」
「いや、楽しかったよ。僕も森の外に出たのは久々だったから驚いたけど、子供は好きなんだ。エルフには子供が生まれ難いからね」
そう言って楽しげに笑うオルキスは本当に嫌な気分にはなっていないらしい。どこか機嫌が良さそうで、セシルは彼の表情を見てほっとする。
「ここが私の家です。オルキス様のお屋敷とは全然違うので恥ずかしいのですが……」
玄関の扉を開けると、すぐにダイニング兼リビングの部屋だ。オルキスの広い屋敷の使用人部屋よりも狭いかもしれない。思わず恥ずかしく思うセシルであったが、オルキスはそんなことを気にした素振りもなく家の中に入って楽しげに部屋を眺めている。
「ここが君の育った家なんだね。家は大きければ良いってものでもないし、温かい感じがして良いと思うよ。ああ、そうだ。妹さんを紹介してくれないか」
「妹ですか?ええと、こっちの部屋で寝てると思います。――ティティ?お客様なんだけど入っても良い?」
そう言ってリビングに面している扉から声をかければ、リンと一回鈴の音が鳴った。これは入っても良いという了承の合図だ。病のために体力が落ちた妹のティティはあまり大きな声を上げることができない。かなり近くに寄ってようやく聞き取れるほどの声なので、部屋にいる彼女が誰かを呼ぶときなどはこうして傍に置いた鈴を鳴らしてもらうことにしているのだ。
「――あら。今日は本を読んでいたのね?」
「ええ。今日は何だかとっても気分が良いのよ。姉さん、その方は誰?」
リビングの傍に在る部屋はベッドがようやく入る程度の小さなものであったが、外の様子がよく見える窓が大きく採れられていてとても明るい。そんな窓の傍に置かれたベッドの上で、ようやく十になったばかりに見える黒髪の少女が上半身を起こして本を読んでいた。
セシルの妹であるらしく、目元が良く似ているが彼女の方が無邪気な笑みをしている。本から視線を上げた少女はきらきらと好奇心を隠す様子もなくオルキスを見ていた。
「そうなの。それは良かったわ。……ええと、こちらの方はオルキス様」
「まぁ!まさか、エルフなの!私、エルフ族に会うの初めてよ!」
「ふふ。初めまして。僕はオルキス。ティティの友人さ」
「姉さんったらこんなに素敵なお友達がいるならティティに教えてくれてもいいのに!ね、見て。私ね、今エルフの王子が出てくる本を読んでいたのよ」
セシルが言うよりも先に少女は目を輝かせてオルキスの正体を当てて見せた。彼女はちょうどエルフが出てくる物語を読んでいたらしいのだが、おかげで彼女は大喜びのようだ。
無邪気にはしゃぐティティの様子に気分を害した様子もなく、オルキスは穏やかに微笑んでいる。
「エルフの王子?」
「ええ。そうよ!とっても素敵なの。貴方みたい――ッ!」
「ティティ!」
「……姉さん、だいじょうぶ」
「少し休んだ方がいいわ」
機嫌良さそうに話していたティティは急に胸を押さえて俯く。それまで黙って楽しそうなティティを見ていたセシルは慌ててティティの傍に寄って、その細い背を撫でる。
「セシル。少し僕にティティを視せてもらってもいいかな」
「え?ええ」
「ティティ。少しだけ君のこと視るよ。何も恐いことはしないから大丈夫だよ」
姉妹を静かに見ていたオルキスが穏やかな笑みを浮かべてセシルとティティの間に立った。そしてセシルの許可を取ると、ティティの胸の上に手を翳す。その手のひらからはふんわりとした灯りが漏れて、オルキスは集中したようにじっとそれを見つめている。明らかにそれは魔法だった。人間にも魔法を使うことはできるが、使える者は多くない。そういうこともあって、セシルとティティが魔法を目にしたのはこれが初めてのことであった。
「――はい。もう、いいよ」
「オルキス様。今のって魔法?」
「ん?ああ、人間が使うのとはちょっと違うけどね。これは精霊魔法だよ」
オルキスは手のひらの光を収めると、何でもないように言い放つ。そんなオルキスをティティはさらにきらきらとした目で見ている。
「ねぇ、ティティ。君が体調を悪くする直前あたりに赤い石を見なかった?」
「赤い石?」
「うん。そう。多分、古びた箱か何かに付いていたんじゃないかと思うんだけど」
「古い箱?……あっ」
「心当たりがあるんだね?」
「うん。裏の森にある古い木にね、大きな穴が空いてたの!そこの中にね、綺麗な箱があったの。その箱に赤い綺麗な石が付いてたよ」
オルキスはベッドの脇に膝を付いて、ティティと同じ目線になると穏やかに笑みを浮かべながら聞く。
ティティがこのようにベッドに伏せるようになったのは、突然の出来事だった。それまでのティティはとても活発な少女で、村の少年に混ざって野原を駆け回るようなお転婆な子だったのである。毎日元気が有り余ってるくらいであったのに、ある日急に熱を出したかと思うとそのままベッドから起きることができなくなってしまったのだ。
「それは今持ってる?」
「うん。そこの引き出しの中にあるよ。でも、私には開けられなかったの」
「ティティ、これ?」
ティティが言った通りにベッド脇の引き出しを開けると、そこには手のひらに収まるほどの大きさの金属で出来た小さな箱があった。意匠が細かく、箱の錠前部分にはティティが言った通りに宝石のように見える赤い透き通った石が嵌め込まれていた。
「ティティ、僕に見せてもらっていいかな?」
「うん。いいよ」
「ありがとう。……ふむ。そうか、やっぱり」
オルキスは難しい顔でそれを観察すると、しばらくしてそれをティティに返す。
「ティティ、ありがとう。それじゃあ、あまり長居しても良くないから僕はこれで。ティティはゆっくり休んで」
「オルキス様、また会いに来てくれる?」
「もちろん。だから、ゆっくり寝ているんだよ」
「うん!」
「それじゃあ、セシル。行こうか」
「う、うん」
はっきりと返事を返したティティを見て、オルキスは満足そうに頷くとセシルを連れてリビングに戻った。
ティティの部屋を出ると、オルキスは顎に手を当ててじっと考え込んでいる。そんな姿もとても様になっているのだが、問題はそこではない。セシルはお茶の準備をして、ダイニングテーブルに置くとオルキスに勧める。
「あの、オルキス様。良かったら、お茶をどうぞ」
「ありがとう。……うーん、セシル」
「すみません。口に合わなかったですか?」
セシルのお茶を一口飲んだ後、唸ってしまったオルキスにセシルは不安に揺れる。もしかして口に合わなかっただろうかと不安に思っていると、オルキスが首を振る。
「いや。美味しいよ。そうでなくて、ティティのあれのことなんだが」
「ティティの?」
「単刀直入に言うと、ティティは病ではないよ」
「え?」
「あれは呪いだ。というか、呪いの宝箱の呪いだね」
「呪いの宝箱?」
聞きなれない言葉に首を傾げると、オルキスは冗談を言っている風でもなくしっかりと頷いた。
「あの小箱には開けようとする者に死の呪いをかける、古の魔法がかかっていた」
「それじゃあ、ティティは!」
「でも幸運なことにあれは大分古くなって劣化していたようで、本来であれば初めに触った瞬間に死んでしまうところが、徐々に体力を削られるということになったのだと思う」
「その呪いを解く方法は……あるんですか?」
「ある……が」
オルキスの返事は歯切れが悪いものだった。じっとオルキスの言葉を待つセシルにオルキスは困ったような表情を浮かべている。
「あるんですか!」
「ああ。あるにはあるが、……今は出来ない」
「……そうなんですか」
オルキスの言葉にセシルはがっくりと肩を落とす。ティティの病の理由が分かっただけ良かったはずなのに、理由が分かると今度は治ることを期待せずにはいられないのだ。
「セシル。僕はこれで失礼するよ」
「え?」
「ごめん。急用を思い出したんだ。セシルの結婚式までには戻るから」
突然そう言い放つと、オルキスはお茶を飲みきって家を出て行ってしまった。残されたのはセシル一人。ダイニングテーブルの上にはほかほかと湯気の立つティーカップと空っぽのティーカップが置かれていた。