前
少し目尻の上がった二重の目、適度な高さの鼻、大きすぎず、小さすぎないぽってりとした唇。髪の色は夜の帳の色、――少しだけ日に焼けて赤くなってしまっているけれど、庶民の娘にしては綺麗な髪だと言われていた。セシルの「今回」の容姿は上々だと思う。身体は少し痩せすぎだけれど、まぁ、これは仕方のない話だ。何せ日々の食べるものにも困る生活だったのだから。
「合言葉、変わっていませんように……!」
セシルは神様を信じてはいないけれど、まるで祈るように呟いて記憶の彼方から一つの言葉を紡ぐ。もしセシルの記憶のままであれば、鬱蒼と目の前に茂る木々がセシルの前に道を作ってくれるはず。
「――――」
記憶の言葉はエルフの言葉だ。精霊の人とも呼ばれる彼らの言葉には、人間にはない不思議な力がある。彼らの言葉によって、何かを人間の目から隠したり、隠されていたものが姿を現したりするのだ。
そして、この場合は――。
「……良かった」
目の前立ちはだかっていた木々は、まるで意思を持ったかのように人が一人通れるほどのスペースを開けて『避けた』のである。その様子を見て、安心し脱力してそこにへたり込んでしまいそうなほどであったが、気を取り直してまっすぐと道の先を見る。
「急がなきゃ。時間には限りがあるんだから」
そう自分に言い聞かせて、森に足を進めた。きっと今頃、彼がこの迷いの森を訪れた来訪者に気付いた頃だろう。
木々が避けてくれた道はセシルが通ると、すぐに何事もなかったかのように元の森に戻った。後戻りしたことがないので分からないが、来た道を戻ったらきっとこの鬱蒼とした森の中で迷ってしまうだろう。
この森は近隣に住む人々からは、「迷いの森」として有名だ。一度入ったら方角を失い、本来そこに出るであろうと目論んでいた場所以外の場所に出てしまうのだ。それは、エルフの魔法によって守られているからなのだが、魔法が使えない人間には測り知らぬことだろう。
そうしてしばらく木々からなる一本道のトンネルを歩いていくと、開けた場所に出る。そこには大きな屋敷が一つだけ。鬱蒼と茂っていた木々はそこに無く、天からは明るい光が差し込む。そして適度に整えられた庭では季節の花々たちが綺麗に花を咲かせていた。きっと王都であっても、こんなに綺麗に咲く花を見ることはない。この花たちもこの大きな屋敷に住む主人が好きなのだろう。――きっと、セシルと同じように。
「――オルキス様。また、会いに来てしまいました」
「……セシルなのか?」
屋敷前に広がる美しい庭で、一人の青年が森から出てくるセシルを待っていたかのように立っていた。セシルがはにかんだ笑みで言えば、オルキスと呼ばれた庭の主は観察するかのように目を細めてセシルを見つめている。恐らくセシルのことを確かめているのだろう。その真っ直ぐな視線に思わず恥ずかしくなりながら、久しぶりの彼の変わらぬ姿に胸を躍らせる。胸の下まである蜂蜜色の髪は前髪から半分を編みこみにされ、残りの半分は後ろに流されている。瞳の色は深緑の葉の色、この世のものとは思えない美しい顔は尖がった耳を見なくとも彼がエルフ族であることを示していた。
「はい!セシルです!」
「本当にまた来るとは。『君』は確かにセシルのようだ。中で話そう。今、アルジェにお茶を淹れさせるから」
元気よく返事をしたセシルに彼は笑みを隠そうとしない。本来エルフ族というのは、あまり動じない種族であるとされているのだが、セシルの前ではそうでもないないらしい。くすくすと楽しそうに笑って、彼女を美しい屋敷へと誘った。
屋敷自体も荘厳で美しいが、屋敷の中もまた同じように美しい。きっと王宮であっても、彼の屋敷の美しさには敵うまいとセシルは思う。
「――君に会うのは二百年ぶりかな?前に会ったのは、リニアス王の時代だったね」
「はい。あの時代は本当に慌しい時代でした。きっとあれが激動の時代と言うのでしょうね。そういえば今はリニアス王の直系の方が王位を継がれているのでしたね」
リニアス王、この国では知らぬ者のいない名前だ。勇猛果敢で当時弱小国とされていた国を守った王で、今も歴史に語られる優れた王であった。この国が成立したごく初期の王であったというのに、彼の名は誰もが知っている。それは彼を主人公とした歌物語が吟遊詩人たちによって語り継がれているからであるのだが、セシルはまるでその時代を知っているかのように話していた。
「ああ、そうだった。しかし、君と話していると人間と話しているとは思えないよ。また君に会えるなんて」
「また記憶を持って生まれることができて良かったです。おかげで再びオルキス様とお会いすることができましたもの」
そう、セシルは前世の記憶を持つ転生者である。現在三度目の人生を歩んでいて、転生の回数としては今回で二度目。
オルキスに初めて会ったのはセシルが一度目の生を受けていた時であった。普通、人間というのはエルフ族を見ると憧れのような気持ちを持っても懸想したりなどはしないらしい。なぜならば彼らエルフと人は種として違いすぎるからだ。人から見ると不老不死とも言えるほどの長命であるエルフ、片や病や怪我には滅法弱い人間である。こうしてセシルが二度生まれ変わってもオルキスの容姿はほとんど変わったところが見当たらないくらいなのだ。陶器のようにきめ細かく、絹のように滑らかな肌にはシミどころかそばかす一つ、小じわの一本も見えない。
それなのに、セシルは初めて会った時から彼に夢中なのである。――こうして何度命を終えても、彼の顔見たさに会いに来てしまうくらいに。
しかし残念ながら、彼の気持ちは今だかつてセシルに向いたことはない。だが、それでも彼はセシルを友人として扱ってくれているようだ。だから、こうしてここに訪れるためのエルフの言葉を教えてくれていたのだろう。
「今のその姿は北方の民族なのかな?この辺りの人間とは容姿が少し異なるようだ」
「はい。北の国で生まれたんです。前よりも綺麗になったと思いません?今回の容姿は村でも評判の美女だなんて言われてるんですよ」
セシルはそう言っておかしそうにくすりと笑う。この姿は北方の民族の特徴を色濃く現した姿だ。白い肌、そして黒毛に黒い瞳はこの辺りではほとんどいない容姿だろう。
初めての生を受けたときのセシルはこの近くの村で生まれた。癖の強い赤毛に、そして日差しが強いがために鼻先まで広がったそばかす。今の容姿と比べると、明らかに今の方が綺麗だと自分でも思う。
「でも、笑った顔は変わらないね。セシルは前も今も変わらず綺麗だよ」
「昔からオルキス様はそう言いますけど、オルキス様に言われると冗談にしか思えませんよ」
どきりと高鳴る胸を誤魔化すようにそう言って笑うと、オルキスは困ったように頬を掻いた。少しは綺麗になったと思える今ですら、明らかに圧倒的な差でオルキスの方が美しいのだ。オルキスよりも綺麗になるのは、きっとあと何度生まれ変わっても無理だろうなと思う。
「困ったな、冗談ではないのだけれど。――しかし、北の国となると遠かっただろう?」
「確かに近くはないですね。ここに辿り着くまで途中馬を使っても十日かかりました」
「それは……遠いね」
オルキスはぽつりと悲しそうにそう言って眉を下げる。オルキスの屋敷がある迷いの森から、今世のセシルの家がある北の国の村までは最低限の休憩しか取らない程度に急いで、馬で十日だ。決して近いとは言えない距離だろう。二度目の生の時は最初の時よりも遠かったが、それでも今ほどではなかった。徒歩で三日ほどだったので、セシルが会おうと思えばどうにか歩いて来れる距離だった。
「来て早々なんですが、このお茶を戴いたら失礼します」
「もう?来たばかりなのに。せっかく遠くから来たのだから泊まって行ったらどうだい?アルジェフルートが楽しそうに準備をしているよ」
先ほど屋敷の執事であるアルジェフルートが丁寧に淹れた花の香りのするお茶が入ったカップを見ながら言うと、オルキスから驚いたような声が上がった。確かにまだ来たばかりであった。お茶だって全然冷めていないくらいだ。
帰りたくない。このままオルキスの傍にもう少しだけいたい。
そんな自分の心の奥から湧き出る気持ちに蓋をして、きゅっと自身の手を握る。そして口元だけでもどうにか笑みを作って顔を上げた。
「そうしたいのは山々なんですが、――もうすぐ、結婚式があるんです」
「結婚式?」
隠し切れない表情に彼は何かを感じ取ったのか、呆然とセシルの顔を見た。
「――はい。私の結婚式なんです」
それは小さな声であったが、それでもシンと静まり返った部屋には十分な大きさだった。
「もうすぐ領主様と結婚することが決まってるんです。年は少し離れているんですけど、私もある意味何才か分からないくらいですしね?とっても良い領主様だって他の所から羨ましがられるくらいの人で、私にはもったいないくらいの人です」
それは言い訳のような台詞だった。オルキスに遮られる前に言い切って、どうにか笑みを作る。それでも顔を上げて彼の透き通った瞳を見ることは出来なくて、セシルは自身の膝の上で握った拳を見つめたままだ。
「……結婚式って家族だけでやるのかい?」
「いえ?村の人たちも参加します。結婚式は村では数少ない娯楽ですから」
「そっか。じゃあ、僕が参加しても良いよね?」
「え?」
オルキスが言い出したことはセシルにとって完全に予想外のことであった。セシルが暮らしている村は辺境の村だ。時折吟遊詩人が訪れることもあるが、それとてそう頻繁にあることではない。そのためにたまにある誰かの結婚式は体の良い娯楽の場なのである。そのために結婚式とは名ばかりで、ほとんど祭りのような状態になる。村には人が溢れ、外部の人間がいてもおかしくはない。
だが、それは「人間」の話である。彼はエルフ族なのだ。今住んでいる村ではエルフ族を見たことがない。それ所か、子供の頃に村の年寄りに昔話として聞いたくらいなのである。
「まぁ、いいじゃないか。せっかく君に二百年ぶりに会えたっていうのに、もうお別れなんて寂しいよ。もう少し君と話していたいし、村まで送っていくよ」
そしてにこにことご機嫌そうな顔でそう言い放ったオルキスに押し切られ、セシルはオルキスと村へ戻ることとなった。何の因果か恋しい相手に見守られて、結婚式を挙げることになってしまったのである。
最後に彼の顔を見て、それで終わりにするつもりだった。セシルは確かにそう決めていたのだが、オルキスに言われると断わることができない。セシル自身も彼と一緒に居たいのは事実なのだから、それも当然だろう。
セシルは複雑な思いを抱えて、心の中で小さくため息を吐いたのであった。




