デビルラック(1-3)
ゲーム開始から、十五分が経過した。
戦況は、圧倒的不利。
なぜか。
それは、始まるまで自信満々だった伶夏が、未だに一文字も書いていないからだ。
ゲームが始まると、眼鏡と伶夏は、あらかじめ用意していた問題の載っているプリントを互いに交換した。
そこで内容を見た伶夏は、ペンを置くと深いため息をついた。
そして、俺の方を向いて一言目に発したのが、
「死ぬ気で跳びなさい」
俺は最初、言葉の意味が分からなかった。
それを察したのか、伶夏は眼鏡から受け取ったプリントを見せてきた。
縄を回すスピードを緩めて、掲げられたそれを確認すると、意味が分かった。
まず目に入ったのは、いかにも萌え系なアニメキャラのイラスト。
そう、問題が全て、アニメ関係なのだ。しかも、マニアでも分かるのかというくらいの超難問。
例えるなら「アニメ、『魔天使デーモンちゃん』の二期八話目に、デーモンちゃんの言った名言は?」とか「『魔天使デーモンちゃん』の三期に一度だけ登場したキャラの名前を、フルネームで答えよ」という感じ。
『魔天使デーモンちゃん』を見ていなければ、絶対に分からない。なんだそれ。
また、追い打ちをかけるようになってしまうが、この絶望的な状況の理由として、こちらにはオプションアイテムが無い。
その原因は凜音だ。あいつがパソコンを持ってくるはずだったんだ。それに加えて、伶夏の機械音痴。
伶夏はこのご時世に、スマホすら扱うことができない。本人曰く、「そんなものは持っていない」だそうだ。
だから、俺の体操服のポケットに入っているスマホを渡して使わせようにも、それができない。まず手が離せない以上、取り出すこともままならないのだが。
対してひょろ眼鏡の方は、伶夏の出したこれまた超難問の学力問題を、持参して来ていたらしいパソコンを使って、なんとか解いているといった様子だ。
俺としては、今すぐにでもこの縄を放り投げて、伶夏に文句を突き刺してやりたいところである。が、あんなヤンキー共がこんな問題を出してくるなんて、誰が予想できただろうか。
こんな経緯があって俺は今、細心の注意を払いつつ全力で跳び続けている。汗だくで。
伶夏が問題を答えることができない以上、得点源は俺の跳んだ回数のみになってしまう。しかし、あんな筋肉野郎相手に体力勝負で勝てる気なんて微塵もしない。
一応、最終手段としてなら打開策が無いわけでもないのだが……
「さっさとあれになっちゃいなさいよ。……負けるわよ?」
「お前が、言うな!」
腕組みをしてだんまりの伶夏と、今にも倒れ込みそうな俺。
「じゃあ自由がなくなってもいいの? 居場所を失ってもいいの?」
「くっ……」
伶夏の言う、あれ。
それは、周りから『デビルラック』と呼ばれる、俺の異常な体質のことだ。
この状態になると、とてつもなく恐ろしいことになる。 俺が中学三年の半年をドブに捨てることになったのも、主にこれによる。
なので、そんなものになれるか! と、反論したいのは山々なのだが、そうも言ってられないのも事実。
デビルラックを発動させれば、この戦況をひっくり返すことだって容易なのだから。
けれど、あんな経験をしてきた俺にとって、これを決断するのはあまりにも酷だ。
自発的になろうにも、トラウマというものが邪魔をする。
「ここから勝つことができたら、ご褒美をあげるわよ?」
悩む俺に、伶夏が一つ提案を持ちかけてきた。
「ご褒美? なんだよ、それ」
息絶え絶えで応答する。
「ちらっ」
「んなっ!?」
伶夏は効果音を口ずさみながら、一瞬自分の制服を持ち上げて自らの腹を露出させてきた。
驚愕と赤面を隠しきれない俺。
「十秒でどう?」
「三十、秒!」
「贅沢。……二十秒は?」
「……わか、った」
学生の中でもかなり重要な期間である、中学三年という時間を潰されても尚、これだけは譲れなかった。
仕方ない。これは実に仕方のないことだ。
砂漠の中でさまよって、そこでオアシスを見つけたらすぐさま直行するだろう。それと同じだ。
一つ言っておく。
俺は……
「へそフェチだぁぁぁあああああ!」
乳酸の溜まりに溜まった足も、引きちぎれそうな腕の重さも全て忘れて、俺は渾身の雄叫びを上げた。
「あ?」
「疲れすぎて狂ったのか? こいつ」
筋肉と眼鏡が、変質者を見るような目で俺を見てくる。
そんなの気にしない。
だって、あの伶夏のへそだぞ!
さっき伶夏と喋っていた十秒や二十秒というのも、俺のへそフェチに関することだ。
その秒数が表すのはすなわち、俺が伶夏のへそを自由にしてもいい時間のことだ。
自由とは、まさしく自由。
その決められた時間の間なら、そのへそを触っても、撫でても、舐めたって俺の勝手だ。
正直に言って、伶夏は美人だ。あんな美人のへそを好きにしていいなら、俺は火の中にだって喜んで飛び込む。
このへその儀式は、デビルラック状態になることを躊躇う俺に、伶夏から言い出した契約のようなものだ。そんな約束、どこで使うことになるのかと疑問に思っていたが、こういう時だったんだな。
では始めよう。デビルラックを使うための、下拵えを。
「先輩、良い靴、履いてますね」
俺は、筋肉の履いているスニーカーを指摘する。
「あぁ? 急に、何を、言ってやがる」
あの大男にも、やはりこれだけの運動はかなり厳しいようで、俺と同じく息切れをしている。
「いえ、気になった、ものですから。それより、そのつま先、どうして、焦げてるんですか?」
学生が普通に生活をしていれば、付くことはないであろう不自然な焦げ目を、俺は見逃さなかった。
「……テメーには、関係、無いだろう」
少し間を空けて返答する筋肉。
「そうだそうだ! もうすぐで負けそうだからって、変なこと言い出すんじゃねー! この、へそフェチの変態が!」
続けて便乗する眼鏡。
へそフェチを侮辱するとは、許せん。
気づいてんだぞ、こっちは。お前の靴にも、同じような焦げ目が点々としているのを。
「先輩、交渉、しませんか? 五分の、休憩を、ください」
「テメー、調子に乗ってんじゃ――」
「校舎裏」
俺は、学園の敷地内ではあるものの、極めて人通りの少ない場所を口に出す。
「「!?」」
ヤンキー二人が、面白いくらいに動揺する。
筋肉の回す縄のリズムが崩れる。運動をしていないはずの眼鏡の額から、汗が垂れる。
そう、これだ。これだよ。
この慌てふためく敵の顔が、デビルラックのスイッチだ。
プツ。
「うっ」
痛覚。しかし、一瞬で快楽へと変わる呪いの痛みが脳内に広がる。
全身を覆う疲労感、地球に常にのしかかる重力なんかも、丸ごと振り切れてしまえそうな解放感。マラソンの選手が、ある一定の距離を走るとなると言われるランナーズハイ。火事などが起こると、か弱い女性でも重たいタンスを持ち上げてしまうと言われる火事場の馬鹿力。何者にも囚われない、俺だけの幸福感。
相手の顔が苦に染まっていくのを見るのが、楽しくて仕方がない。
快楽と共に、俺の疲労はリセットされる。
鉛のように重々しかった頭が、取り替えられたように冴え渡っていく。
これが、デビルラックの正体だ。
「さぁ、どうします?」
もう一度だけ、チャンスをやろう。
「……わ、わかった。おい、タイマーを止めろ」
「くそっ」
筋肉に言われ、眼鏡がポルノートを操作する。
どうやら、タイマーが止められたらしい。
「ありがとうございます」
時の進行の制止を確認すると、俺と筋肉は縄を回すのを止めて地面に置いた。
「……テメー、見てたのか?」
筋肉が睨むように俺を見る?
「ん? 何のことですか?」
あえて誤魔化す、俺。
「ちっ……」
これで口は止められたな。
「いや待て。もしあいつがあの事を知っていたとしても、証拠が無ければ何もできないだろう」
「……それもそうだな」
すかさず、眼鏡が筋肉に小声で囁く。
……聞こえてんだよ。
「ああ、そうそう。最近は便利ですよねー。今はこんな小さな機械で、どこでも誰でも簡単に写真を撮ることができるんですから」
俺は、ポケットに入っていた自前のスマホを見せつける。
「ち、チクショー……」
もう言い返すことはしてこないだろう。
俺は二人の顔が青ざめていくのを確認して、伶夏に体を向けた。
「ふぅ。今回はどんな手を使ったの?」
腕を組んだまま、伶夏は片目を開けて俺の言葉の意図を探ってきた。
「簡単さ。数日前に、あいつらが校内で煙草を吸っていたのを見てたから、それを遠回しに言ってやっただけ」
「なるほどね」
スマホの件も、特に撮影していた訳ではないが、ああ言っておけばあちらに調べる術は無い。
「さて、俺は休むために時間をとったんじゃないんだ。ちょっと電話するから、静かに頼むぞ」
人差し指を鼻に持っていって促す。
ヤンキー二人をふと見たが、既に意気消沈していたので問題なし。
「はいはい。凜音?」
呼び出し音が耳に鳴り響く中、伶夏の言葉を片耳で受け取る。
「いや、あいつは使い物にならない」
「それもそうね」
最初から、凜音には期待していない。
俺には別に、この状況を打破してくれる人物にあてがあった。
巡矢実結。俺の姉だ。
姉さんは俺より四つ年上で、大学二年生だ。
近頃は酒ばかり飲んでいてだらしない限りだが、時々役に立ってくれる。だから頼りにはなる。
今がその時だ。
実結姉さんは俺の知る限り、最強のアニメオタクなのである。
この時間帯なら、きっと出てくれるはず。
――出た。
『うーくん、やっほー! あなたのお姉ちゃんだぞっ!』
語尾に音符が付きそうな程に、毎度毎度テンションが高いのが玉にきずだ。酒飲んでる時とテンションが変わらない。
「もしもし、姉さん。ちょっと時間が無いから、黙って聞いてくれ」
『え~。うーくん冷たい~』
耐えろ。イラついてはいけないぞ、俺。
「今から、『魔天使デーモンちゃん』っていうアニメに関する問題を百問出すから、全部答えてくれ」
『デーモンちゃんかー! って百問!? ……はは~ん。何やら面白いことやってるみたいだねー。うーくんの学校の何とかゲームっていうの?』
「そうだ。できそうか?」
『大丈夫! だと、思う! お姉ちゃんにどーんと任せなさーい!』
「助かる。それじゃ、俺は他にやることあるから伶夏に替わるぞ」
『え、伶夏ちゃん!? やったー!』
アンリアルのメンバーは、この一週間の間に何度か俺の家に来てるので、姉さんとは面識がある。
俺は地面に置いていた縄を手に取ると、煩わしい高音を伶夏に押しつけた。
「今姉さんに繋がってるから、問いを言って答えてもらってくれ」
「わかったわ」
よし、もうすぐ休憩時間も終わりだ。ゲーム時間は残り十分といったところか。
「先輩方、そろそろゲーム再開としましょうか」
「あ、あぁ……」
おい、この短時間でずいぶんとやつれたな。そんな姿を見せられたところで手加減はしないが。むしろ力がみなぎる。
四人はそれぞれ、元の持ち場に着く。
五分前と違うのは、伶夏は左手に俺のスマホを、右手にペンを持っていること。それと、俺の力量だ。
さっきまでの俺だと思うなよ?
タイマーが再び動き出すと、俺と筋肉は縄回しを始める。
「げっ!?」
「こ、こいつ、五分間で何をしやがった!?」
実は休憩前からだけどな。
二人が驚くのも無理はない。
なぜなら、俺は残り十分という中で三重跳びをしているのだから。
「き、気にするな。残りこれだけの時間があるんだ。すぐにバテるさ」
考えが甘いな、眼鏡。
「い、いや、こいつ、続けそう、だぞ」
分かってるじゃないか、筋肉。
『さあ、伶夏ちゃん! どんどん行こーう! 次、次!』
「美結さん、そんなに大声で言わなくても聞こえます――はうっ」
勝つためだ、頑張れ伶夏。
そんなこんなで、無双の十分間はあっと言う間に過ぎた。
俺は三重跳びを休むことなく続けた。デビルラックになっている俺には、三十分間あれを続けていても痛くも痒くもない。
伶夏は何度か悲鳴をあげつつも、完答できた模様。
危なかったのは俺のスマホだ。充電がほとんど無かったみたいで、テストを書き終えた直後に電源が切れたらしい。
まぁ、書けてればそれでいい。
「ご苦労さん、主に姉さんの相手を」
デビルラックのおかげで息の乱れていない俺は、奮闘した伶夏に労いの言葉を贈る。
「実結さんがいなければ答えられなかったし、感謝しなきゃでしょ。それに、丁度よく切れたしね」
「そうだな」
俺と伶夏、余裕の雑談。
「ま、負けた……入学して一週間ぽっちの一年なんかに……」
「くそぉ……紅酒さんになんて言えば……」
対して、敗者を絵に描いたように地面に手を突いて悔しがるヤンキー二人。
眼鏡の言った紅酒。それはきっと、アカハネの頭首である紅酒彩乃のことだろう。
なるほど。紅酒に、一年をアカハネに勧誘して来いとでも依頼されていたのか。
だが、下調べもせずに相手を選んだのが運の尽きだったな。
四つん這いになっている二人に近づく。
「なんだ」
筋肉が顔だけこちらに向けて来た。
「いやぁ、無様だなと思いまして」
「っ!?」
俺がこんなことを言うのが信じられないとでも言いたげに、目をぱちくりさせる大男。
「汐、やめときなさい」
敗者を見下ろす俺を、腕を掴んで制する伶夏。
「なんでだよ? 負けた者にはそれ相応の屈辱を味わってもらわなきゃ、割に合わないだろう?」
「あんたが後悔するから、やめなさい。ほら、もうポルの取引の申請はやっておいたから」
どうやら機械音痴にもポルノートは使えるようで、俺を制している左手と逆の右手には、学園支給の端末が握られていた。
ポルノートを使って学園にゲーム結果を報告すると、あちらがそれに応じてポルを操作してくれる。
「先輩方も、これ以上腹を立てたくなければ早急に立ち去ることをオススメしますよ」
「……そうさせてもらう」
伶夏の言葉を聞くと、ヤンキー共は顔をしかめながら不服そうに体育館から出て行った。
同時に、俺の体から軽さが消えて反動が返ってきた。デビルラックの効力が切れたのだ。
「……あぁ~」
体重が倍に感じられるくらい気だるさが押し寄せて、倒れそうになるのを伶夏に支えられた。
「戻ったみたいね」
「おかげさまで……。止めてくれて、サンキュ」
「どういたしまして」
危なかった。
デビルラックの効果は身体的な覚醒だけでなく、態度の悪化という最悪な副作用がついている。
勝利を確信してしまうと、どうしても口が悪くなって相手を罵倒してしまうのだ。
これのせいで、俺の人間関係は崩壊していった。
今回は伶夏という、デビルラックを知っている存在が近くにいてくれたからあれくらいで収まったものの、俺一人だったらどうなっていたか分かったもんじゃない。
「もう、いいよ」
「そお?」
悪い気がして、伶夏の支えを解いてもらう。
「んで、いくらくらい貰えたんだ?」
苦労して手に入れた報酬の額を聞いてみる。何せ俺の小遣いにもなりうるからな。
「そうね、ざっと三十万ってとこかしら」
「三十万!? そいつはずいぶん稼いだな」
予想以上の金額だった。まさかそこまでだったとは。
「縄に付いてたカウンターの数値も見たし、間違いないはずよ。私たちが勝ったら報酬二倍っていう条件があったのが大きかったわね」
それにしても三十万か。頑張ったかいがあった。満足だ。
「それじゃあ、これからどうする?」
やることやったし、もう俺はお役御免でいいんだよな?
「そうね。まずは――」
と、その時だった。
挿絵付回きました!
今回は区切りの関係上少々長めです!(笑)