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夜半に降り出した雨は朝になってもしとしとと降り続けている。
ヤヲに姿を変えたスライムは、人の容姿の便利さを改めて思い知った。
靴を履いた足で大きな水溜りに踏み込めば跳ね上がった水がかかるのはせいぜい膝まで。体が汚れることもない。手にしっかりと握り締めた傘は天から降りかかる水滴を受け止め、頭が濡れることもない。
(スライムの姿しか持たなかったころは、こんな日の外出は憂鬱なだけだったが……)
隣を見下ろせば、幼い主は雨合羽に長靴という愛くるしいいでたちで、ぴょこぴょこと歩いている。小さな歩幅に足を合わせてやれば、その気遣いにユリが顔を上げた。
「感謝。」
「ああ? 別に礼を言われるようなことはねぇよ。」
「スラスラ。」
「ん?」
二人、足を止めて見つめ合えば雨音が優しくまとわりつく。それはまるで、世界に二つの呼吸だけが取り残されたような、甘い感覚……
(俺は何をしようとしているんだ……こんなガキに。)
だが、その中身が子供ではないことを、スライムは知っている。少し変わり者で、漫画オタクで、寂しがりやで、わがままで……この世でただ一人、いつまでもそばにいて欲しい、大事な女……
瞳の銀色がずるりとした感情の隅に引っかかり、甘くつめを立てる。
「ユリ、俺は……」
唇に触れようと伸ばされた手を跳ね除けるように、ユリが叫んだ。
「いる! 何か。」
ビルの陰を覗き込んだスライムは、そこにいる小柄な生き物の姿を見てがっくりとうなだれる。
「……電脳魔物だ。たぶん、俺たちの迎えにアイツが寄越したんだろう。」
毛の薄い、黒っぽい体に妙に不釣合いな細く長い手足。全ての爪は長く、鉤のように鋭く曲がっている。顔を真っ二つに裂くほどの大きな口、目も異常に大きく飛び出していてどちらかというと醜悪な生き物だ。
だが、そんな生き物がこちらを見て浮かべている表情は……
……(・∀・)。
「ンだよっ! その中途半端な顔は。別にお前が期待しているようなことは……」
グレムリンがだっと走り出す。
「あ! 待て、てめえ!」
スライムはひょいとユリを抱え上げ、その後を追った。
「くっそ! あれをアイツに報告されたりしたら。」
「あれ?」
「俺がお前にキス……」
「キス?」
ふっと横目で見れば、小さな唇が思いのほか近い。その気になれば、今ここでちゅっと触れることも……
「……違う! 飯粒がついていたんだ。だけど、傍から見たらキスしようとしているように見えただろうな、って……大体、ガキ相手にそんな気になるかよ!」
「ロリコン。」
「俺はロリじゃねええええええっ!」
小柄な体がビルの隙間にするりともぐりこむ。ヤヲの姿ではこれ以上の深追いは無理だ。
「ちっ! 覚悟を決めるしかないか。」
スライムはユリを降ろし、雨合羽のしわを調えてやった。
「いいかユリ、行儀よく、お嬢様らしくしていてくれよ。アイツの名前を聞いても、取り乱したり、はしゃいだりしないでくれ。」
「大丈夫、無表情。」
「お前のは顔筋の動きが乏しいってだけだ。全て丸分かりって位、何でも顔に出てるぞ。」
「恥ずかしい。」
ユリがぶにゅっと自分の両頬を手のひらでつぶす。
「そういうキバツなリアクションもするな。相手はプロだからな。」
「プロ?」
「ああ、お前はきっと喜ぶだろうな……」
スライムは雨に煙る天を仰いで呻いた。
「ああああ、面倒くせぇ……」




