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「ヤヲだっ! ヤヲが来た!」
門前から上がった声に、城内は騒然となった。
一人、狼獣人だけが戦いの匂いに、にやりと笑う
(隊に残したものからの連絡は無い……オレを出し抜くぐらいの頭はあったって訳だ、隊長ドノは。)
浴室の前で跪いていた彼は、『コト』のまえに身を清めている主に声をかけた。
「もしも、ということもございます。お召し物を……」
彼の真の主……ムナノー=ヒッツの柔らかな声だけが、それに応える。
「せっかくの初夜だって言うのに、無粋だよね。」
「ご心配には及びません。あの男の扱いは心得ておりますゆえ……」
どーんと突き上げるように、足元を爆音が走る。
「こっちにも、ヤヲだ!」
愚かなギガントの叫び声が、ユリを閉じ込めた貴賓室の方から聞こえた。
「おやおや、同じ男が二人? よもや、大事な花嫁を攫われたりはしないだろうね?」
「ご心配には及びません。」
口の端から牙を零して、彼はくくっと笑う。
「二人ともつぶせばいいだけのこと……」
不吉な月のように赤い眼が、ぎょろりと光った。
石をも溶かす魔力の炎が、ヤヲの行く手を阻む壁を吹き飛ばした。
大きく開いた穴から貴賓室へと流れ込んだ彼は、部屋の真ん中に佇んでいる小さな主人の姿に、安堵の微笑を浮かべた。
「ユリ様……」
彼の脳内を、超高濃度の妄想力が駆け巡る。
感情表現に乏しい主に長く仕えるうちに身についた、彼の特技……脳内補完……
「ヤヲ(お兄ちゃん♪)」
柔らかく手を差し出す控えめな姿すら、はしゃいで駆け寄ってくるよう見える。
「遅くなりました。ヤヲ=ケネセッス、参じました。」
「挨拶、いらない。(早くここから出してよぅ!)」
「心得ております。」
抱き上げた小さな『妹』は、小さく身を震わせて銀色の瞳を伏せた。
「スラスラ、どこ。(えっと……スラスラ君は……来ないのかなぁ↓)」
「はあ!?」
思わずついて出た素っ頓狂な声……
「お兄……私は許しませんよ。あんな者など……」
「別に(そ、そぉいうのじゃ……ないんだからねっ!)」
少女を横抱きにして走り出したヤヲは、ほんのりと色づいた柔らかな頬をちらりと見た。……あの男は、ユリ様の真の御姿を知っているのだろうか……
ユリの救出を懇願した情け無い姿……あの涙は、間違いなく本物であろう。
だが、彼女はただの娘ではない。今もこうしてムナノーに狙われているように、彼女と婚姻を結ぶことによって得られる『特典』に惹かれる男はいくらでも居る。
その真意を測るには、彼と見知ってからの時間はあまりにも短すぎる……
……もし、今のユリ様が本当のお姿だと思っているなら……
ヤヲに作戦を与える声が思い出される。
◆◆◆
「いいか、ユリを盾に取られる事だけは、絶対に避けろよ。」
「解っていますよ。」
「本当に解っているんだろうな? 俺は腰抜けだぞ。もし、ユリが傷つくような事態になったら、お前らを売ってでも無条件降伏だからな!」
◆◆◆
実に腰抜けらしい言葉が、小さな少女の無事だけを願ってのことだとしたら……
(幼女好き……ですね。)
恥じらいに花咲くような主を見て、ヤヲは厳しい声を出す。
「どちらにしても……お兄ちゃんは、お付き合いなんて認めませんからねっ!」
「違う。(だから、そんなんじゃないってば~///)」
気の抜けた会話を交わす二人の前に、血に飢えた狼獣人が立ち塞がった。
「よう、楽しそうじゃねえか、隊長サマよぉ。」
「……! ユリ様、下がってください。」
主を下ろしたと同時に、その手で詠唱陣を形作る。
「マハカ=ラ(炎よ)!」
振り向きざまに放った火柱は、高く飛び退いた獣にかすりもしなかった。
「ほう、魔法攻撃……スライムってのは、どんなにがんばっても魔法が使えない生き物だからな……こっちが本物の隊長サマって事か。」
「それは……どうですかね?」
窓の外から、どーんと火柱の上がる音が聞こえる。風が運び込んだ火の匂いには、微かな魔力が残っていた。
「なるほど……あの泥水、意外に策士だな?」
ウェアウルフが、口を裂くような残虐な笑いを見せた。