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ずるりと部屋に侵入したものが、暗がりに眠る美しい男の名を呼ぶ。
「ヤヲ……ヤヲ=ケネセッス!」
切れ味鋭い刃のような殺気が目を見開き、手元が攻撃詠唱の陣を模った。
「待て!待て待て待て待て……」
怯えて体を震わせる最弱生物の姿に、陣を残したまま詠唱が止まる。
「その物騒な陣もしまってくれよ。」
「ダメですよ。あなたが何者かわからないのに、陣を解くほどお人よしではありません。」
警戒心丸出しの護衛隊長に向かって、スラスラはスライム族に古くから伝わる挨拶の言葉を述べた。
「プルプル……ボクは怪しいスライムじゃ……」
「ム=ラ(火よ)」
小さな火の玉がスライムの体を霞め、じゅっと焦げ臭い匂いが上がった。
「蒸発してみますか?」
「……ごめんなさい。」
美しい笑顔に隠された怒気に気おされて、スラスラは心から素直に謝る。
「ここに来た理由は? それによっては、蒸発程度じゃすみませんよ。」
「俺は、ユリ=レヲ=ソスターセの使いのものだ。」
小さな主の名に、ヤヲがはっと息を呑む。
「もちろん、あんたに信じてもらえるような証拠は何も無い。だが、本当にしろ、罠にしろ、俺はあんたを主まで導くものだ。」
目の前のチキンな生き物は、精一杯に膨れて威厳を見せようとがんばっている。……その表面は不安で震えているというのに……
ヤヲは哀れな男の為に詠唱陣を下げた。
「で、どうすればユリ様のところへ?」
「信じてくれるのか!」
「罠だとしても縋らなくてはならないほどに、窮しているだけですよ。」
「それでもいい。まず、本当に信頼できる部下だけを集めろ。特にウェアウルフの息のかかっていない者を、だ。」
「カカシュの? 彼は仮にも副護衛長ですよ。」
「信じないのなら、副護衛長サマにも知らせればいい。その場合、お前の小さな主は……ユリ……ユリは……」
スライムの体が、たぷたぷと音がするほどに震えだした。
「頼む! 早く助けてやってくれ。ユリがあんたを待っているんだ! 早く、早く……」 体の表面からだらしなく体液を滲ませて、彼は泣いていた。
さっきまで膨れ上がっていた威厳はどこにもなく、ただ小さく身を丸めてむせび泣く、その哀れすぎる姿は……
「大きな動きはカカシュにも漏れる恐れがあります。少数精鋭で……急いで隊を編成しましょう。」
「!」
「あなたも早く来る! それから、ユリ様を呼び捨てない!」
きびっと足早に動き始めたその足元に、ずるりとスライムが付き従った。
「なるほど、ムナノーですか。」
スライムに導かれて廃城の前に立ったヤヲは、軽い嘲りの笑いを浮かべた。
「落ちぶれ子爵が『聖王の夫』の座を狙う……ありがち過ぎて笑っちゃいますね。」
彼が集めた精鋭部隊は、十余名の兵士と二人の魔導士、そして自分自身だけだった。
「えっと、少数精鋭つったけど、これは?」
不満げな声をあげるスライムに、彼は陽光のような笑みを向けた。
「カカシュの影の無いものを選抜した結果、です。」
「お前、意外に人望ねえな……」
「うるさいですよ。それより、何ですか、あのギガント!」
彼らが突入をあぐねているのは、城を守るギガントの肉砦のせいだ。ぐるりを取り囲むように、数十頭の巨体がうろついている。
「俺が脱出したときには、こんなにはいなかったぞ。」
「まあいいでしょう。何匹居ようと、私の剣の血錆に……」
「待て待て待て! まさか、正面突破する気か?」
「え、だって入り口はすぐそこですよ?」
「作戦とか、戦術は?」
「そんなもの、切って、斬って、切りまくれ! ですよ?」
スライムはなんだか脳液が痛むような気がした。
「お前が鬼神のように強いのは良く解った。だがな、この作戦はユリ……さまを無事に救出することが最優先だ。」
「だから、斬りまくって……」
「で? ユリを盾代わりにされたら、あっさり白旗をあげるのか?」
「……」
「警備の数から言って、俺が城を抜けたことは既にバレているんだろう。もしかしたら、ムナノーってやつも既に城内に居るのかもな。」
ごぷり、と脳液が泡を立てた。
「ただ闇雲に攻撃すればいいってもんじゃない。手のひらで叩けば跳ね上がる風船も、針の一刺しで破裂する。攻撃は分散よりもピンポイントがコツなんだ。ここは……陽動と自由攻撃に戦力を分ける。自由攻撃は……お前だ、ヤヲ。お前にはその攻撃力を生かして単独行動をしてもらう。」
「陽動は? あの数のギガントを相手にするには、あきらかに戦力不足ですよ。」
「それに関しては……ヤヲ、体を貸せ。」
「ええっ!」
美しい男が頬を赤らめ、『いやいや』の仕草をした。
「馬鹿か! トレースさせろって言ってるんだ。もちろん戦闘力まで!」
ヤヲがにやりと笑った。
「なるほど……私の予備の装備がありますよ。」
「よし、じゃあ、記念すべき初トレースといくか。」
スラスラはミチミチと音を立てて外皮を引き伸ばし、ヤヲの長身を包めるほどに膨れ上がった。
「私は、脱いだほうがいいんですか?」
「あ? ヤローの裸なんか見たくもねえよ。ただな、外皮を傷つけるような、尖ったものだけは外してくれ。」
言いながら、柔らかいからだがつるりとヤヲに這い登る。
甲冑の隙間から入り込み、衣服も避けて素肌を伝うその感触は……
「『あんっ!』とか言った方がいいですか?」
「言うなよ! 言ったら、絞め殺すっ!」
もそもそと形を変え、ヤヲをすっぽりと包み込もうとしていた動きが、止まる。
「ウおえっ!」
「どうしました?」
「いや、精神的にちょっと……」
「ユリ様を助けたくは無いんですか! そんなことでは、私は手に入りませんよ!」
「うう……誤解されるような言い方はやめてくれぇ……」
微かに唇を上げて微笑む、あの可憐な少女の姿だけをただ心に描いて、スラスラは最後の一呑みを頬張った。
(ユリ、待っていろ。必ず助ける。)
薄く透ける外皮で覆ったその姿を、脳液に刻み付けてゆく。骨格、筋肉、皮膚の毛穴の一つに至るまで……
「ううおえっ!」
派手に吐き出されたヤヲが見たものは、自分と寸分たがわぬ裸の男の姿だった。
「ほう、見事ですね。」
ヤヲは手近の雑種剣を投げ渡す。
『男』の手のひらは、ぱしりと小気味よい音を立ててそれを受け取った。
「お前、まずはハダカを隠すもの、だろうが。」
「いいから、振ってみてください。」
投げつけられた拳ほどの石を『目』は的確に捉えた。
鋼のように硬く、鞭のようにしなやかな筋肉が滑らかに流れ、重たい刀身を一閃の光に変える。
コツン……軽い音と共に、真っ二つになった石が地面に転がった。
「お前の体、半端ねえな……」
「いえ、トレースしてすぐの体をそこまで操るあなたも、たいしたものですよ。」
二人の男は全く同じ顔を見合わせて、くつりと笑った。