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……廃城……かつては立派であったであろう城門は風雨に朽ち崩れ、ろくに手入れもされていない庭は鬱蒼と生い茂ってこの城を沈めようとしている。
その中にかろうじてそびえる強固な石造りの天守は、古い建物特有の禍々しさを持ってスラスラ達を出迎えた。
「ボスが来るまでここで待て。」
ギガントに押し込まれた部屋は、おそらく貴賓室だったのであろう。剥がれかけた天井には壁画が描かれ、壁にいくつも備えられた燭台には重厚にして細密な意匠が凝らされている。
もっとも、そのうちの一つにしか明かりは入れられておらず、部屋の隅はホコリっぽい闇に覆われていた。
明かりの中でユリを下ろしたスラスラは、不自然にゆがめていた体をプルプルと震わせて伸びをする。
「スラスラ、油断、いけない。」
幼い声に諫められて体をたぷんと戻せば、明かりの届かない薄闇の中に何者かの気配があった。
「そのスライムは? 男連れなんて、ヤヲが嘆くだろうな。」
音もなく歩を進めて明かりの中に現れたのは一頭の狼獣人……
「カカシュ。」
「相変わらず……驚きもしないのか。」
……何を言っているんだ、この男は。ユリはこんなにも……
スラスラから見たユリは、僅かに顔をゆがめ、まるで……苦しんでいるようだった。
「副、護衛長、なぜ。」
「は?」
その男には、ユリの言葉も伝わらないようだ。
「副護衛長であるお前が、なぜここに……だとよ!」
「ほう、そのスライムは通訳か。」
「通訳と書いて、交渉人だな。」
狼はのけぞるようにして笑い声を上げた。
「じゃあ、伝えな、交渉人さんよ。副護衛長とは仮の姿。オレの一族は、古くからさる御血筋に仕える間諜だとな。」
「馬鹿か! ユリが聞きたいのはお前の正体じゃない! 信頼していた部下の裏切りを見抜けなかった『自分』を責めているんだ。」
「ふむ、ならば言おう。命を懸けてその身を守ったオレ達に、ねぎらいの言葉すらかけてはくれない。表情一つほころばせてはくれない。それでは下の者はついては来ぬぞ。」
動きの乏しいユリの顔は、それでもいつもよりあきらかな『悲しみ』を刻んでいた。
「しかし、ムナノー様は違う! われわれの様な下の者にも、常に慈愛と労わりの笑顔を持って接してくださる! あれこそが王の器と言うものだ。」
「いつもヘラヘラ笑ってるってコトだろ。けっ、嘘臭ぇ。」
「わが主を愚弄するか!」
閃く鉤爪が、外皮を切り裂くぎりぎりの力加減で、ひち、と押し当てられた。
「とはいえ、非礼は謝ろう。その女はわが主が王となるための大事な手駒。大切な、大切な客人だ。」
犬臭い呼気と共に吐き出された言葉は、どことなく卑猥な響きを含んでいた。
「アレには、わが主と婚姻を結んでもらう。文字通り、身も心も捧げてもらうのだ……」
「幼女嗜好!? 最悪だな。」
ぷつ、と爪先が透き通った外皮を傷つけ、僅かばかりの体液が流れ落ちた。
「迂闊な口を聞くなよ、泥水。次はぶすりといくぞ?」
「ダメ、スラスラ、傷つく!」
小さな体が、スライムを切り裂こうとしている腕に飛びついた。
「殺しはしない。あんたには『喜んで』わが主の花嫁になっていただきたいからな。」
ゲラリ、と狼が笑った。
「あんたの『悦び方』次第では、この泥水だけではなく、あの、お綺麗な護衛長様にも傷がつくかもしれないがなぁ。」
猥褻な嫌味の言葉すら、既にユリには届かなかった。
転がるようにスラスラに縋りつき、小さな手のひらで傷口を押さえる。
「体、流れる、死ぬ。」
それは、ウェアウルフから見ればいつもどおりの『無表情』だったのかもしれない。
だが、そのスライムには、今にも泣き出しそうなユリの気持ちが痛いほど伝わった。
「落ち着け、ユリ。このぐらいの傷ならすぐに塞がる。死んだりはしないから、な?」
ウェアウルフはその茶番に冷ややかな言葉を投げる。
「トレースした容姿になればいいだろう。人間でも、獣でも……その姿よりはマシなはずだ。」
「スラスラ、トレース、無い。」
「は?」
「したことが無いんだよ。トレースなんか……」
傷の痛みに弱々しく震えるソレを見下ろして、男は狂ったように笑った。
「くくくっ、そうか、姫君に付き従っているから、どんなに優秀かと思ったが……くくっ、ただの泥水か。」
スラスラは……生まれてはじめて、そのヘラヘラした笑いをぶちのめすための腕が欲しいと思った。
「手当ての用意をさせよう『弱いもの』いじめは、後味が悪いからな。」
踵を返した背中に、剣をつきたてるための『力』が欲しいと!