15
スライムがどれほどの拷問を行ったのか、それは誰も知らぬことだ。彼はたった一人でその汚れ役を買って出たのだから。
ただ解っているのは、地下牢に繋がれた銀髪の男は冷や水に漬けられたように体中が冷え切って衰弱していたということ。そして口も聞けないほど腫れ上がった顔の中から内出血をおこした目で、おびえきってスライムを見送っていたということだけだ。
それによって得た一通りの情報を魔王に報告したスライムは、疲れきった身体を引きずってユリのもとへと帰り着いた。
「疲労?」
「ああ、精神的に、な」
ぐったりとベッドに身を投げたスライムに、ユリがよじ登る。
「重い?」
「いや、むしろ……そこに居てくれ」
銀髪の一筋に腕液を伸ばして、彼は体表に涙を滲ませた。
「ユリ、ケウィのヤツはすぐそこまで来ている。『婚姻外の子』の大半を引き連れてだ。この意味が解るな?」
「ノーニウィヨ、ケウィ、所有」
「ああ、そうだ。ノーニウィヨの軍も全てあいつの意のままということだ。ここは激戦区になるだろう」
「ユリ、戦う」
「それは絶対に許さねぇ。お前はこの世を救う切り札だ」
まるで本物の宝のように……いや、それ以上に触れ難いかのように指先液がユリの頬をなぞる。
「お前とあの親子は『大いなる福音』をもって城を出ろ。安全な場所で解読を済ませて、後はあんな物騒なモンは壊しちまえ。それが出来るのはお前だけだ」
「スラスラ、一緒?」
「それに万が一ケウィが世界を焼き尽くすそぶりを見せたら、お前が反魂の呪を食らわせるんだ。お前の膨大な魔力なら、あいつに対抗できるかもしれん」
「スラスラ、は?」
「お前達にはミョネをつける。城を抜けた後のことは姉貴に手配済みだ。とりあえず……」
「スラスラ!」
珍しく強いその語気にスライムが黙り込む。沈黙の中、彼は僅かに震えている唇に手液を伸ばそうとした。
「そんな顔するな。手放すのが……惜しくなる」
掴みそこなったかのようにきゅっと掌液を握りこんで、スライムは外皮を歪めた。きっと笑顔を作りたかったのだろう。
だが不器用なくぼみは、誰が見ても泣き顔にしかみえない。
「俺はいろいろと償いを果たさなきゃならねぇ」
「……言う、思った」
「お見通しかよ。ほんとに勝てねぇな」
ずるりとユリを下ろしたスライムは本棚へと歩み寄る。
「お前は俺にいろんなものをくれた」
古びた『ノーニウィヨ建国記』を取り出し、そっと表紙を開く。そこにはたどたどしい文字で確かに彼が書いた、ツンニークⅢのサインがあった。
「思い出したよ、あれは俺にとっても初恋だった。だからお前のところに行きたくて、俺はイカケ=ハ=ツンニークⅢになろうと頑張ったんだ。なのに俺は、最悪な裏切りでその名を汚した」
……だから忘れたんだ。二度と触れることの叶わない初恋のことなど……
「そんな俺の前に、お前はひょっこりと現れてスラスラという名を与えてくれた。全幅の信頼と、愛情で俺に自信をくれた。そして、お前を大事だと思うこの気持ちを……くれた」
ユリが寂しげに下げた眉尻が映らないように眼球液を背けて、スライムははっきりと言い切る。
「俺は『イカケ=ハ=ツンニークⅢ』だ。再びこの名を名乗る自信をくれたのもお前だ。だからお前の『寝台』として恥じるところの無いよう、俺は精一杯の償いをしようと思う」
「了承」
「お前ならそう言ってくれると思ったよ」
「一つ、困る」
「んん?」
「眠る、出来ない」
「そうか、じゃあ寝貯めしておけ」
スライムは今度はためらうことなく、愛する女に手を伸べた。
きっとこれが最後の夜になるだろう。ならばせめて……
「スラスラ」
幼い姿はしていても中身は男に愛を捧げることも知っている大人の女。
ユリがしどけなく手を伸ばす。
「ユリ……」
差し出しあった指先すら触れることなく、城門のほうで沸きあがった喧騒が二人を現実に引き戻した。
「くっそ! もう来やがったのか!」
窓の外を覗けば森の方で幾つかの火の手が上がっている。
「ユリ、一緒に来い!」
小さな掌を力強く引くその掌液は、あくまでも優しくユリの心までを捕らえて、放そうとはしなかった。




