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こうして家を脱出し、森の小さな洞窟に逃げ込んだ幼いスライムが格好良かったかといえば、そうでもない。
「ああ、くそっ! 早く迎えに来いよクソじじいっ!」
悪態をつきながらも幼いユリにしがみついて小刻みに揺れている。
「恐怖?」
「ばっ! バカ言うな。こうやってお前を守ってやってんだよ」
先ほどから外皮を伝ってくる湿り気は、涙ではないのだろうか。ユリはちょっと首を傾げてスライムを見上げた。
「不安?」
銀の瞳の真っ直ぐさに、スライムがほっと肩液の力を抜く。
「本当に格好つかねぇな。『可愛いと思った女は命がけで守って損はない』ってじいさんが言ってたから、頑張ってるのに」
「可愛い、誰?」
「お前以外に誰が居るんだよ。お前はその……なんつーか、めちゃくちゃ可愛い……」
外皮を真っ赤に染めながら、それでも彼は腕液の力を抜こうとはしなかった。
「とっ! にかく、そういうことだからっ! お前は守られとけっ!」
このスライムの言葉は、なんて心地よいのだろう。ユリの小さな胸がトクンと音を立てる。
「格好、良い」
「はああああっ? 誰が!」
「他、居ない」
「へ? お前、目ンたま壊れてんのかよ」
壊れてなどいない。恐怖と戦いながらも誰かを守ろうと踏ん張るその姿を、他にどう称えればいいというのだろう……
「……サイン」
抱えていた書を差し出す姿に、スライムががっくりと肩液を落とした。
「緊張感のないやつだなぁ。後でちゃんとじいさんに頼んでやるよ」
「違う。サイン、希望」
「俺の、か?」
スライムがふるふると揺れる。
「いや、俺なんかのサインじゃ……価値が下がるぞ」
「サイン」
「ああああああっ! 本当に強情なガキだなあっ!」
ぎゅうっとユリを抱きしめた腕液は、もう震えてはいなかった。
「あのな、俺は『イカケ=ハ=ツンニークⅢ』なんて名前が本当はいやだったんだ。長ったらしいし、仰々しいし、じいさんの跡継ぎってことでやたら勉強ばっかりさせられるしよ」
幼い彼には、それ以上の気持ちなど思いつきもしない。だからこそ心底からの約束を、スライムは彼女に捧げた。
「でも、お前のためなら悪くねぇ。俺は立派な『寝台』になって、お前のところへ行く。」
「寝台?」
「俺のサインがじいさんのサインより価値があるって言われるような、立派な『英雄』になってやるよ。お前のそばに居ても、誰にも文句言われないくらいの……」
「待つ」
「ああ。だから今、お前を守る。無事に城に帰って俺を待っていろ」
『男』を意識させる存在に強く抱きしめられる感覚……それこそが間違いなくユリの初恋であった……
その後二人はどうなったかというと、異変に気づいた『英雄』の活躍により助け出された。でなければ今頃ここで甘い回想にひたることすら出来なかっただろう。
だが、ユリの胸に今も焼き付いているのは援軍に指示を出し、トレースした姿を繰って自らも剣を振るう『建国の英雄』の姿ではない。怯え震えながらも最後までユリから離れようとはしない『ユリだけの英雄』の姿だ。
廊下を這う音に気づいたユリはパタンと古書の扉を閉じる。
例え昔の思い出は忘れていても、彼の本質は何一つ変わりはしない。今も怯え、震えながらそれでもユリを守り続けている。
「スラスラ」
その名を小さく呼んで、ユリはかび臭い表紙にそっと鼻先をすり寄せた。




