19
王宮は逆さまに……つまり、上が広くて海底に近くなるほど細くなるように作られている。
その一番広い最上階、海面に近い入り口から入った二つのガラス玉は屈強なブルーマンたちによって手際よく水揚げされた。
「ようこそ、我が家に~。」
陽気なタコの合図でガラス玉から這い出した一同は、驚嘆の眼差しで室内を見回す。
「空気があるんだな。」
「今日は特別。陸のお客様が来るときは、上から引き込んだパイプで空気を送るのよ~。じゃないと、溺れちゃうんでしょ?」
強固な石造りの広間は柱ごとに複雑な装飾が施され、壁絵に彩られた豪奢さは普通の城となんら変わりない。ただ、天井から下がっているシャンデリアには炎の代わりに無数の烏賊が留まり、室内を照らす光は静かに青白いが。
「パパンに紹介するわね。こっちこっち。」
タコは階下へ続く階段を指した。
「一応は謁見ってやつだ。ちゃんと行儀良くしろよ。」
烏賊灯りに照らされた階段を下りるユリは、自分の手を引いている彼の弾力を握り締める。
「うみほたる。」
「ああ、俺も見た。上から見るよりも綺麗だったな。」
「スラスラ、一緒、見る。」
「そうだな。俺もお前と見たかったよ。ヤヲとじゃ、色気もロマンもありゃしねぇ。」
主の口の端が緩むのを見た『寝台』は、外皮に隠して優しく微笑んだ。
「今は、この交渉を成功させることだけ考えろ。世界が滅びちまったら、うみほたるどころじゃなくなるんだからな。」
「了解。」
ニサが立ち止まったのは王の居所なのであろう、ニークウ石に細かな彫刻を施した馬鹿みたいにでかい扉が行く手を阻む。そういえば、このフロアはやたらと天井が高くて、烏賊灯りたちは壁の中ほどまで降りてきて廊下を照らしている。その灯りの届かない天井には濃い闇が巣食っていて目算を阻むが、ここまで降りた階段の長さから言っても十メートルは下らないだろう。
「こりゃあ、相当に大物だな。」
ごくりと喉液を鳴らすスライムの前に、重々しい扉が開かれた。
中は書斎だ。書架を色とりどりの背表紙が飾り、おびただしい似姿人形が所狭しと飾られている。絵草子絵のポスターまで張られて異様な雰囲気をかもし出しているのだが、スライムが真っ先に目を奪われたのは部屋の真ん中に倒れている十数メートルはあろうかという巨大なイカの姿だった。
覇王烏賊《クラ―ケン》だ。その偉大な海の王者が傷ついた長い胴をのたうち、十本の脚をグネグネと揺らして悶えている。
「パパン!」
ニサがそのイカに駆け寄った。
「おい、どうした!」
スライムも追ってイカに寄る。その鼓膜液に響いたのは苦悶というよりは恍惚に近い荒い呼吸の音だった。
「ぁあっ、早く殺して……いや、それじゃすぐ終わっちゃう。ゆっくり殺して……」
「親子そろってドMかよっ!」
しかし、賊はイカの身体構造には詳しくなかったのだろうか。分厚い身を切り裂くほどの傷であるにもかかわらず、三つある心臓の一つも傷つけてはいない。
「とはいえ、深手だ。ユリ、回復の術式は知っているか?」
「大丈夫。」
ユリが巨大な生き物に駆け寄り、ぶつぶつと古代語を紡ぐ。
「おい、俺の声が聞こえるか? 誰にやられたっ?」
クラーケンは僅かに正気を取り戻して、自分の娘にぎろりと瞳を走らせた。
「おお、大変だよ、マイドータ。パーフェクト王子は実は悪いやつだったよ。」
「しっかりして、パパン。殺されかけるなんて……ああっ、羨ましいっ!」
「親子揃ってふざけやがって、本当に酢漬けにするぞ!」
その声にとろりと視線を動かしたクラーケンは、ずるりとした生き物の姿に目を見張る。
「つっ! ツンニーク?」
「そりゃあじいさんの名前だ。俺はただのスライムだよ。」
「ふむ、ツンニークの……」
僅かな感慨が脚の横に出っ張った瞳に宿った。
「では、『大いなる福音』のことは?」
「ああ、師匠から聞いた。俺たちはそれを破壊しに来たんだ。止めるか?」
「止めるわけがない。あんなものは消えてしまった方が世のためだ。」
吐き捨てるように言った後、クラーケンは太い足をずるっと動かす。
「しかし、すでにパーフェクト王子は宝物庫に向かった。」
「あんたほどの大人物が、あいつの侵入をやすやすと許したのか?」
「やすやすじゃない。ニェケがあの男のチャームに囚われた。」
真っ先に驚きの声を上げたのはニサだった。
「そんなばかな! だって、あの子はミャーケの男よ!」
「だから、何かあると思って、手荒なことができなかった。」
「私、行くわ。あの子を助けなくちゃ!」
スライムの頭脳液がこぽりと鳴る。
「ヤヲ、甲冑を貸せ。俺とミョネも行く。奪取戦だ。」
「相手はケウィですよ? 私とではだめなんですか。」
「今度こそ本当に戦力のバランスと優先順位を考えろ。『大いなる福音』を壊すにはユリの魔力が絶対に必要だ。前線に出すわけにはいかねぇ。」
「しかし、ミョネ……」
不安に震えている金の毛先に、ミョネが指を絡めて唇を寄せた。
「これが終わったら、一緒にドレスを選びに行ってね。」
「ドレス?」
「やっぱり、白が良いな。ボクには似合わないかもだけど……」
「私があなたに似合うドレスを見つけますよ、例え世界中を回ってでも。」
「……約束だよ。」
彼女の瞳は、ゆるぎない幸せへの希望に輝いている。
「じゃあ、いい子でお留守番していてよ。ちゃっちゃと済ませて帰って来るからさ。」
二人きりなら唇の一つも重ねていただろう。だが、軽く指を絡めあってお互いの温かさを確かめ、ゆっくりとその指を解く。
そうして、二人は離れた。




