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「だめだ! やっぱりラチがあかねぇ!」
床に広げた図面を覗き込んだスライムは、すでに燭台の必要も無いほどに射し始めた朝日を忌々しい気持ちで見上げた。結局、あれから一睡もしていない。
「なのに、こいつは……」
背中の弾力にのっかって、幸せそうな寝息を立てる小さな主。その顔の横へぐるりと眼球液をまわす。
(平和だな。)
小さな肩が呼吸に合わせて揺れている。ぷっくらと柔らかい頬は丸く、もにゅっと不明瞭な寝言を含んだ。
「スラスラ……」
意味無く呼ばれる自分の名前に、心臓液がごぽりと泡を立てて拍動する。
「ユリ……」
甘い声で眠れる姫君の名を呟いて、口唇液をその頬に近づける。薄紙一枚まで迫ったその感触を、再びの寝言が遮った。
「びーえる、リアル、不許可。」
脱力感にだらりと両肩液が落ちる。
「何の夢見てんだよ……」
腹立ち紛れに小さな鼻をきゅっと摘めば、ユリはとろりと目を開けた。
「スラスラ、誘い受け。」
「まだ寝ぼけてンのか。顔でも洗って来い。」
「了解……」
もやんと起き上がったユリは、だが次の瞬間、銀の瞳をパッチリと開いて身構える。
「どうした?」
「来る。誰か。」
無遠慮なノックの音がドアを鳴らす。
「起きていますか、白百合の華人。」
「ニェケだ。入れても大丈夫だな。」
ユリをおろしたスライムは、少年のためにドアを開いた。そして、その姿を見てぷっと吹き出す。
「結婚式でもあるのかよ。」
小さな体にきっちりと誂えたタキシード姿の少年が百合の花束を抱えて立っている。
「不良ではユリさんを下さらないとおっしゃったので、正装してきました。」
「いや、ちょっとズレてるな、お前。」
そんな言葉すら気に留めず、小さな紳士はユリの前に膝をついて花束を差し出した。
「よろしければ一緒に昼食でもいかがですか。」
ユリが助けを求めてスライムに視線をくれる。
「ガキがユリを誘おうなんざ、百年早いんだよ。」
「百年もお待たせしません。幸いに僕は人間です。後十年もしないうちに大人になるんですから。」
「口の減らねぇガキだ。」
次の言葉を捜してこぽりと音を立てたスライムは、ふと、あることに思い当たった。
「お前は、いわゆる国の重鎮ってやつだよな。」
「そうですね。あなたのような一介の使用人とはちょっと違うのですよ。」
「……まあ、いいや。ひょっとしてこれくらいの小さな石版を知らねぇか?」
「ああ、アレですか。」
「知っているのか! それはどこにある?」
「おいそれと答えるわけにはいきません。国宝ですからね。」
「ぐううう、やっぱりあるのか。ケウィのことは? 来訪の日取りとか、知ってるんだろ。」
「外交は僕の仕事ですからね。細かな日程まで知っていますけど……教えませんよ?」
「そりゃぁそうだよな。セキュリティーの問題ってやつだろ。」
「解っているなら聞かないでください。」
「そうか、そうだよな……そりゃあ尤もだ。うむむむ……」
ぷるぷると体を揺らして逡巡する姿を見かねて、ユリが口を開く。
「昼食、食べる。」
「本当ですか?」
喜色を浮かべた少年を、スライムがあわてて押しのけた。
「ユリ、そんなこと……」
「準備、待つ。」
少年の手から花束をもぎ取るユリの指先は、微かに震えていた。




