「死んでしまえばよかったのに」
※暴力シーンあります。
「死んでしまえばよかったのに」
波のない、穏やかな口調と声音で非道で残酷な言葉を紡ぎながら彼女は泰然とした様子で控えめに優しく微笑んでいる。
発せられた言葉とは乖離のあるその雰囲気は、あまりにもちぐはぐすぎて脳を混乱させた。
―――ベッドに横たわることしかできない不自由な男は、ただまっすぐに彼女の言葉を身に受け、視線を向けることしか許されなかった。
*
メイディア伯爵家の長女であるルルーシアは家を継ぐことが決まっている。その彼女の婿にとルガ子爵家の次男であるウラガスとの婚約がなされたのは今から約2年前のこと。
メイディア家は代々ある領地を更に繁栄させるべく人手と販路を広げるため、ルガ家を選んだ。
領地も近く、農民も多いということ、そして現在の当主同士が友人であったことが理由で選ばれた。
ルガ家の者はもちろん、みな喜んだ。メイディア家との繋がりは当主同士の友情を超えた強固なものになるし、格上の爵位に次男が婿入りできるのだから。
そのような経緯で結ばれた婚約だが、ここ1年の間に暗雲が立ち込めていた。
貴族の通う学院に通うルルーシアとウラガスの2人だが、親交を深めるようなことはしていない。それどころかお互い顔すら見合わせない日々が続いているし、当然のように手紙などのやり取りもない。
その原因はウラガスがルルーシアを避けているせいだ。
ウラガスにとって格上の爵位に婿入りすることは次男である彼にとっては僥倖なことだろう。次男であるがゆえに爵位は継げず、次期当主を約束されている長男とは否が応にも、どんな場面でも差をつけられる。家を継ぐものと継がないものではかけられる期待値も違うのだから当然である。
だからこそ、最初のうちはメイディア家との婚約はうれしいものだったし、これで家の連中を見返せるだなんて薄暗い思いを抱いていたぐらいだ。―――だが、そんな考えも束の間のことだった。
ルルーシアは伯爵家の令嬢であり、家を継ぐ娘である。厳格な教育を受け育った彼女は淑女として感情を表に出すこともなく、口数も少ない。そんな彼女の淑女としての在り方、言動はウラガスにとっては不満材料になった。
手紙を書くのも、贈り物をするのも、ルルーシアの方が言葉選び一つとっても上質で品が良い。それをウラガスは義務的だ、こちらが子爵家の次男だから見下しているのだろうとどんどん認知を歪めていった。
そんなルルーシアに対する不満が募る中、ウラガスは他の令息たちの言う“学生のうちは火遊びも許される”“浮気を許すのも令嬢の心構えのひとつだ”なんて戯言を真に受けて、めり込んでいったのが約1年前。
ウラガスの浮気相手はリーディア・ハガット。
こちらもウラガス同様、子爵家の娘だが、彼女は貴族令嬢としては良識のある他の令嬢たちからも敬遠されているような振る舞いをする奔放な娘である。
淑女としては程遠い、そんな烙印を押されている令嬢ではあったが、プライドとコンプレックスを拗らせた男にとってはその足りない部分が可愛いと、愛しいと思ってしまった。馬鹿なところが可愛い、と。
つまるところ彼女はウラガスの陳腐な自尊心を満たすちょうどいい存在だ。
いずれはルルーシアと結婚をする。先に自由はないのだから学生のうちは許されるだろうと、何の根拠もない都合のいい考えを当然のように思い込んで享楽に浸った。
―――だが、そんな都合のいいことは現実には起こりえない。
リーディアにも婚約者がいた。こちらも子爵家のディード家の嫡男で、次期当主であるパドック。
彼は他の令息たちの中でも傲慢でプライドが高いと一部で有名な男で、好かれてはいない。
そんな男の婚約者が浮気をしているだなんて知ったらどうなるかなど、火を見るより明らかだったが、状況はそれを凌駕した。
いつものようにウラガスとリーディアが人目を避けて2人で過ごしていると、そこに目を吊り上げたパドックがやってきたのだ。パドックが見据えているのはお互いの身体を寄せ合っている自分の婚約者と別の男。言い訳のしようもない決定的な場面。
2人の頭が真っ白になって動けないでいるところにズンズンとパドックが距離を詰め、そのままウラガスの頬を拳で殴りつけた。
「がぁっ!!?」
ドゴォ!と骨身に響くような、憎しみの籠ったパドックの拳は、殴られることなんて予想していなかったウラガスの無防備な頬への衝撃を超えて、脳を揺らすほどの威力だった。
ウラガスは殴られた拍子に口を切り、拳の勢いを殺せず情けなくも地面に体の側面をついた。
パドックの与えた一撃に、唖然としながら時間差で痛み出した頬によって、ゆっくりウラガスに状況を理解した。
一方、リーディアは浮気がバレてしまった、浮気相手が婚約者に殴られたという状況が理解し切れず、悲鳴を上げることもできないまま真っ青な顔をして震えている。
パドックはフーッ!フーッ!と獣のような荒い呼吸を繰り返し、いまだ拳を強く握りしめたまま血走った目でウラガスを睨みつけており、正気とは思えない。
「!?」
痛みに呻きながら起き上がろうとするウラガスにパドックが突撃し、馬乗りになり、パドックは拳を振りかざす。
言い訳も許されぬまま、ウラガスはまたしてもパドックからの拳を繰り返し受けることになり、ここで漸くリーディアが悲鳴を上げた。
「いやあぁぁああああ! やめてっやめてえええっ!!」
まるで自分が暴力を受けているかのような、そんな悲鳴を大声で上げれば、いくらここが人目を避けた場所といえど、付近にいる者の耳に入る。
しかし、そんなことに気を向けていられないのか、パドックは狂ったようにウラガスの顔を殴り続けている。
身を捩って逃げ出そうとするも、繰り返される攻撃から身を守るために腕を顔面で隠すように持ち上げるしかないウラガスはただ痛みと恐怖に支配されたまま、一方的な暴力を受け入れるしかない。
そんなこんなで悲鳴を聞きつけた者たちが警邏を伴ってやってくると、彼らの目に映ったのは惨状と言ってもいい暴力現場だ。慌てふためきながらもパドックを引きはがそうとするものの、正気を失った大の男を引きはがすのは骨が折れるほどだった。
遅れてやって来たパドックと関わりのある令息たちが「やめろ!」「パドック!」と声を掛け続けると漸くその暴力は止まり、変わらず荒い呼吸を繰り返すパドックがウラガスの上から退くと、息も絶え絶えに、血で顔を汚し小さな呻き声を上げるウラガスの姿がそこにあった。
いつの間にか増えた野次馬。何が起きてこうなったんだ、という状況に残されたリーディアと2人の男を見れば誰もが察した。そしてこの凶行を起こしたパドックに同情心をおぼえる者もいるほどだ。
そんな視線の意味を察したのであろうへたりこんで涙を流しながら怯えているリーディアは、髪を振り乱しながら、パドックの地雷を踏みぬいた。
「パドック様が、わるいのよっ! こんな暴力男だから浮気なんてされるのよ!!!!」
言い訳にも保身にもなってない、あまりにもお粗末な叫びではあったがその科白はいまだに怒りを燻らせているパドックには十分すぎる一言だった。
パドックは保定されている両腕を力のまま振りほどき、唸り声をあげてウラガスに突っ込んだ。
「ッウ、ウォオオオ゛オ゛オッ゛!!!」
獣は、隠し持っていたナイフを何の躊躇いもなく、ウラガスの身体に突き刺した。
じわり、と血が広がる。刺された、と理解した時にはもう何もかもが遅かった。
茫然としたまま、状況を理解する間もなくウラガスは意識を失った。
壊れたように笑うパドックとグチャグチャの顔でヒステリックに泣き叫ぶリーディア。
貴族の通う学園とは思えぬ惨状に、現場は大騒ぎとなった。
*
ウラガス・ルガ子爵家の次男が同世代の男に刺されたという事件は、ゴシップが娯楽となっている貴族たちに瞬く間に広まった。それもただ刺された被害者という立場ではなく、限りなく加害者に近い立場だったという状況が殊更話を盛り上げた。
もちろん、それはメイディア家の耳にも届いており、現当主であるルルーシアの父は即座に婚約を解消すると決定した。―――が、これは当主同士が友人であったことを除けば家の結びつきを目的とした当人同士の気持ちは伴っていない政略的なもの。
契約に基づいて結ばれたものである限り一方的な解消は、メイディア家にとっては得策ではない。すでに金と人手を動かしている部分もあること、そしてルルーシアもゴシップの一つに巻き込まれるのではないかと危惧したルルーシアの父は一度話し合いの場を持つこととなった。
「ルルーシア、すまない。あんな男を婚約者に据えてしまったばかりにお前に辛い思いをさせた。」
「謝らないでくださいませ、お父様。こんなことが起きるだなんてわかるはずありませんもの、仕方がありませんわ。」
自分が選んだ、判を押した娘の婚約者が浮気をしていた上にその浮気相手の婚約者に暴行を加えられその上刺されるなどという醜聞が起きるだなんて夢にも思わなかっただろう。
娘に謝罪をしながら後悔の念にかられる父を、ルルーシアはいつも通り優しく微笑みを浮かべながら見舞った。そんな気丈な娘を母はそっと抱きしめる。
一番怒りたいのは、悲しんでいるのはルルーシアだろうに、という同情の気持ちからの母親の気遣いとは裏腹にルルーシアは一切負の感情も持たず、表に出さず、いつも通りの微笑みを浮かべた。
*
一命をとりとめたウラガスだが、それは同時にこれから先の人生が生き地獄になるという意味でもあった。
刺された箇所が背中であったことから、彼は一生寝たきりになるということが医師によって告げられている。
命があっただけでも良かった、と表では言うだろう。しかし、生きているからこそ、これから起こることの責任を持ち込んでくる厄災、厄介者になると誰しもが思う。
結果、彼はありとあらゆる厄災をルガ家に持ち込んだ。凶行に及んだディード家からの「刺されたことは申し訳なく思うが、貴殿の息子にも責任がある。それさえ分かってくれるのであれば浮気やパドックの今後についての責任を問うつもりはない。」という脅しのような手紙が届いた。
これはつまるところ今回の件を不問とし、痛み分けとすることにさえするのであればルガ子爵家に何もしないということである。
ルガ家としては息子が寝たきりにされたことへの恨みはあるのだが、表立って被害者のように振舞える状況ではない。何故このような出来事が発生してしまったのかという話はどうしようもないくらいに貴族中を駆け巡っている。
面白おかしく消費されるゴシップとなった今、ディード家と争うのは得策ではないと否応なしの和解となった。
それでなくとも、メイディア家からは婚約を解消するという通達まで来ている。話し合いの場は持ってもらえることとなったが、婚約がなくなるのは目に見えている。
話し合いの日は、ルガ家で行われることとなった。
本来であれば非を負ったルガ家が謝罪のために赴くのが当然だが、ルルーシアが一度ウラガスを見舞いたいという要望とそのウラガスが寝たきりで移動することが困難という状況から決まった。
重々しく、不穏な空気の元2つの家族は顔を合わせた。
言い訳のしようもない不祥事に、ルガ家当主と夫人は謝る術しか持ち合わせていない。
―――婚約は間違いなく解消されるし、この件で両家で結ばれた契約がどうなるかなどに対してルルーシアは口を出すことはない。蚊帳の外になることを見越してルルーシアは重々しい空気の中、口を開いた。
「わたくしはウラガス様と最後に一度お顔を合わせてもよろしいでしょうか? こうなってしまった以上、どうしようもないことではありますが、婚約者だったのですから……」
慎ましく嫋やかなルルーシアの科白は、不祥事を起こした者の罪悪感をより一層積み上げた。
こんなに優しい娘に対して、自分の息子がしでかしたことは許されることではないし、怒りを向けられても当然と思っていたのにルルーシアから向けられた気遣いにルガ家の者は頭を下げた。
話し合いは大人たちに任せて、ルルーシアは自分の侍女を伴ってルガ家の侍女に案内される。
応接室から離れたその部屋は、他の部屋と一切変わりのない筈なのに、陰鬱な空気をまとっていた。
「2人でお話をさせていただけないかしら。面倒をかけてしまうけれど部屋の外で待っていただける?」
「かしこまりました。こちらで扉の前で待機しておりますので終わりましたらハンドベルを鳴らしてお呼びください。」
「ありがとう」
ルガ家の使用人もこの家の次男が何を起こしてこうなったのか全員知っていることだ。
仕事を失いたくない彼らの表面上は何も知らないふりをしていつも通り働いている者の内心は様々だが良い感情はない。
そんな中でわざわざ赴いて婚約者であったからと気遣い、使用人にすら微笑みを浮かべて礼を述べるルルーシアの好感度は上がっていくと同時に、ウラガスへの軽蔑の念が宿った。
*
顔が腫れあがり、いまだにその箇所が熱を持つ。身じろぎしようとしても動かない不自由な身体。寝たきりの状態となった今、背中の傷の痛みも分からない。
ウラガスの胸中は、なんでこうなった、という後悔でいっぱいだった。その後悔も“うまくやれなかった”という他責だが、
部屋の扉が開いた音に気付いて視線を向ければ、視界に映ったのは婚約者であるルルーシアの姿だった。
ぎょっとしつつも、視線を身に受けて言葉を探すウラガスのもとへルルーシアはゆっくり歩み寄ってくる。
来ることは聞いていなかったため、何を言われるか、責められるような覚悟はできていないウラガスは浅い呼吸を繰り返し、ただまっすぐにルルーシアを見つめ、その表情を見た。
近づいてきたルルーシアは、口角を吊り上げてその唇を動かした。
「死んでしまえばよかったのに」
聞き間違いかと思うほど、綺麗に紡がれたその科白を聞いてウラガスは感嘆詞すら漏れなかった。
ただその穏やかな口調といつもとは違った笑みを浮かべるルルーシアの表情に理解が追い付かないウラガスをよそにルルーシアは表情を変えぬまま、言葉を続ける。
「お前ごとき格下の男が、身の程も弁えずいい気味よ」
今までに聞いたことのないルルーシアの口調はまるで出来の悪い使用人に向けるようで、ウラガスの脳をますます混乱させた。
「私に婿入りできなければ爵位も持てない次男の分際で浮気した挙句刺されるなんて、本当に愚か」
―――ルルーシアは最初からこの婚約が、この男が気に入らなかった。見合いの場でも表情を完璧に取り繕えないような欠陥品が。
ルルーシアはメイディア家の娘であること、メイディア家の血を継ぐものとして誇りと責任を持っている。
当然、宛がわれる婚約者はそれにふさわしい爵位、家柄を持つ息子であると思っていたのに、実際は子爵家という格下の息子。当主同士が友人だからなどというくだらない理由を付けた父親を恨んだ。
親に決められた婚約に文句を言うほどルルーシアは未熟ではない。貴族同士の婚約において子供とは駒である。それをわかっていても、それでも、嫌悪していた。
「お前は私に媚び諂っていないといけない立場だったのに何を勘違いしたの? 浮気をしていたことなんてとっくにわかっていたわよ。あんな淑女としては程遠い娘を選んだのはお似合いではあったけれどね」
ずっと見下していた相手。伯爵家に婿入りするという立場を盤石なものにするためにルルーシアに好かれる努力をしなかった能無し男。選んだ娘も貴族に生まれたという誇りも責任も持たない落ちこぼれ。―――そのままでは爵位を得られない者同士の傷の舐めあいは楽しかった?
「気づかないとでも思った? どう痛い目を見せてやろうか考えていただけよ」
格下ごときが、メイディア家から婿に迎えられるという喜ばしい立場であったにもかかわらず、身の程を弁えず、ルルーシアに対し、裏切り行為を働いた。
これをルルーシアは、自分が虚仮にされたという思い以上に、メイディア家への侮辱と受け取った。
その怒りは大きかったが、それ以上に「これでこの婚約をなくせる」という気づきと喜びが勝った。
「ディード家の令息は、お前と同じでプライドだけは高かったのよ。だから簡単だったわ」
プライドの高さを指摘しているが、プライドだけで言えばルルーシアの方がよっぽど高い。しかし表立ってそれを出さないだけ、悟られないように振舞える。
プライドが高いからこそ、プライドが高いだけの相手が何をしたら怒るのかだなんて、考えなくても分かる。
だから嘯いてやったのだ。聞こえるように言ってやった。それだけであの男は激高してなにか事を起こしてくれるだろうと。
そして案の定起こしてくれた。火種を蒔いたつもりが大火事になってまさか相手が二度と起き上がることのない身体になるとは思ってもみなかったが。
―――死ねばよかったのに。
あの時、刺されたまま死んでしまっていたら不自由な身体になってしまったこと、これから家がどんどん衰退していくところも、それによって家族から詰られて自分がお荷物であることを知ることもなかったのに、
「本当にいい気味。無様で惨めで。気分はいかが?」
隠そうともしない嘲笑が淑女の仮面が外れたルルーシアの表情と声音から零れると、徐々に理解し始めたのか、ウラガスは顔を真っ赤にしてルルーシアを睨みつけた。
そんな顔をしたってルルーシアには何の脅威もない。
「きっ……! きさまぁああああああああああああ!」
ウラガスは動けない身体の代わりに唯一自由のきく声帯を精一杯震わせて、怒声を浴びせた。
――ルルーシアの口角が吊り上がった。
「ルルーシア様!」
部屋の前で待機していた侍女たちが部屋から漏れ出た怒声を聞きつけて扉を開け、焦りながら入ってくる。
侍女に視線を向けたルルーシアの口角はもう上がっていない。そこにあるのは男に怒声を向けられたせいで怯えた表情を浮かべたルルーシアのか弱い姿だった。
「ウラガス様が……っ急に怒鳴られて……」
怯えた表情に相応しい弱々しい声でそう告げると、ルルーシアの侍女もルガ家の侍女もあからさまに軽蔑した表情を向ける。
急に場面が切り替わってルルーシアの演技に飲まれてしまったウラガスは目を白黒させながら「違う」と小さな声で否定するが、その声は後ろからやってきたせわしない靴音のせいでかき消された。
「ルルーシア! どうしたんだ!」
怒声を聞きつけたのか、他の従僕が呼んだのかは定かではないが緊迫した雰囲気でルルーシアとウラガスの両親がやってきた。
そして第一声とともにルルーシアの父の視界に映ったのは怯えた様子で侍女の背に守られている娘の姿だった。
「う、浮気をしたのはわたくしのせいだと仰られて……わたくしが、魅力的ではないからだと……っ」
ウラガスは目を見開いた。違う、そんなことは言っていない。そう弁明したくても向けられた視線が彼の発言を射殺した。
「ルガ子爵! 我々は友人だと思い、これ以上にないくらい譲歩をしようと思ったが、これでおしまいだ! 慰謝料だけではなく、かかった費用は全額請求する! 友情も終わりだっ! こんな屑男を娘の婿にしてやろうとした自分が許せんっ!」
ルルーシアの父が怒りを露わにしてウラガスの父に言い放つ。
どのような話し合いがされたのかは分からないが友情を思いやって手加減したのだろう。それが今この瞬間、一切罪のない可愛い娘が怒鳴られて怯えている様子を見れば無意味となった。
ウラガスの父は小さくなり申し訳ない、申し訳ないと謝罪の言葉を繰り返しながらその沙汰を受け入れざるを得なかった。
怒りのまま背を向けて屋敷を出ていく。今後一生修復されることのない友情とともに、見送るしかなかった。
涙を堪えながら、ウラガスの父親はその怒りの矛先を息子へと向けた。
「貴様などそのまま死ねばよかった!」
親が子に向ける最低の言葉。だが、ウラガスの父はそれしか浮かばなかった。
違う、そんなこと言っていない。そう弁明したくてもこんな身体になった原因が、言い訳を許してくれない。信用は一切なくなった。
乱暴に締められる扉を見つめながら「ちちうえ、」と弱々しい声とともに涙が頬を伝った。
どうしようもない、意味のない後悔とともにウラガスの心を蝕んでいった。
*
ウラガスは被害者ではあるが、大きく見れば加害者である。
浮気をした挙句刺され、刺した相手は壊れてしまったのだからそれはそれは面白おかしく広がって、貴族たちの酒の肴となった。
ルルーシアとの婚約が解消ではなく破棄となり、慰謝料と賠償金が請求されることとなったルガ家だが、そんな家に嫁がせたくないと、嫡男の婚約もなくなった。その上ルガ家嫡男の元婚約者は自分に瑕疵がないことを広めるために「高圧的な方で、私に寄り添ってくれない方でした」と茶会の場で怯えるようにこぼして見せたのだ。これは本当のことではないが、まるきり嘘というわけでもない。次期当主であるという自負のある彼が彼女に何かを指摘する様子を見た者たちもいて、瞬く間にルガ家の嫡男もゴシップの一つとなる。
ただでさえ家は荒れているというのに、自分の婚約もなくなったという青天の霹靂にルガ家の嫡男であるイーディオは荒れに荒れた。元婚約者の発言に弁明したくとも、それが許されるような立場に立てない。茶会も社交界も腫れ物のように扱われて誰もが顔をしかめる。
イーディオがどうにかしたくても、どうにもならない。
そんな行き場のない怒りは収まるどころか増幅し、そもそもの元凶へと矢印が向いた。
「に、い…さん……?」
「貴様のせいだ! 貴様のせいで家はめちゃくちゃだ! 父も母も憔悴しきっている! 私は貴様のせいで婚約解消となった! 醜聞の一つに巻き込まれた! 全部全部貴様のせいだっ!」
「え……」
「お前など生まれなければよかった! お前などあの時死んでいればよかったのだ!」
あの日以来、父も母も顔を見せにすら来てくれない。起きている間はずっとルルーシアからの言葉が反芻し弱り切った心に肉親である兄の言葉が深く深く突き刺さる。
―――死んでしまえばよかったのに
―――死ねばよかった
―――死んでいればよかったのに
三者三様に死を求められている状況に最早思考はまともに動かない。
刺されたことは間違いなく被害者であるのに誰も気遣ってもくれはしない。
―――ルルーシアの言う通り、媚び諂い、婚約者として、夫として認められるように振舞うべきだった。見下されるのは当然なのだからそれでも身の程を弁えて気に入られる努力を誰よりもしなければいけなかった。
―――浮気を許すのも心構え。そもそも婚約者であることも許されていなかったのに、何を勘違いしたのだろうか。
自分のプライドが、みっともない真似をするだけのハリボテだったと気づいた時には何もかも終わった後だ。
後悔してもその後悔に何の意味もない。反省も無駄なこと。時は戻らないのだから。
*
ルルーシアは自室で本を読むふりをしながら、顛末を思い返す。あんな大きな出来事の渦中にいたと言っても過言ではないものの、周りの人々は殆どがルルーシアに同情的だったことを思い出すだけで笑みが出る。
ディード家は嫡男が壊れたまま。替えとなる実子がいなかったことから親族の誰かが継ぐのだという。
浮気相手だったリーディアだが、両親が甘やかしたことを嫡男が責めに責め、そそくさと父親を当主の座から引きずり落とし、どこか領地の僻地へ追い出したそうだ。
そしてルガ家だが、子爵でいることも現在は難しい状況になっている。ウラガスは生きているのか死んでいるのかも定かではないが生きていたとしても死んだのと同じものだろう。
―――ルルーシアが見下していたのは厳密にいえばウラガスだけでなく、ルガ家自体だ。メイディア家の当主と友人ということに胡坐をかいて婿入りする立場であるということを教え込むことを怠ったのだから。
まあその結果、婚約はなくなったし、父親は自分の見る目のなさを悔いて、新しい婚約者の選定から外れることになったからルルーシアは概ね満足している。
「ふふ……」
はしたなくとも、思わず笑い声が漏れた。本当に満足である。
ルルーシアは傲慢で、プライドの高い女だが、それを決して表に出すことはない。誰かに付け込まれる隙になるようなことが貴族にとって致命的な弱点になるとわかっているから。
いつも淑女足らんとしているルルーシアを悪女だと思うものは家族ですらいない。寧ろ心根の優しい娘だという評価である。
自分の手は下さない。
刃を向けられた時であっても、それを自分で刃を突き返してしまえば自分の隙になる。これがルルーシアの信条である。
優しい娘という皮を被って生きていくことのほうがルルーシアにとって生きやすい。
「次は弁えた方と婚約したいわね」
独り言は誰にも聞こえないまま、部屋に消える。
弁えなかったウラガスは落ちるところまで落ちて、壊れた。
ルルーシアの求めていた婚約解消という役割を与えられて、ただ、それだけのために。
―――やりすぎという人もいるかもしれない。けれどあんな程度の男、最後がどうなろうと役割を与えられただけでも十分だ。
だって、ルルーシアの望みは叶ったのだから




