同じ三十万でも妻と愛人では扱いが違う〜「生活費をやってる」と威張り散らし愛人に貢いだ夫、家計の真実と慰謝料請求を突きつけられて無一文になる〜
同じ三十万でも妻と愛人では扱いが違う〜「生活費をやってる」と威張り散らし愛人に貢いだ夫、家計の真実と慰謝料請求を突きつけられて無一文になる〜
「おい恵美、今月の生活費だ。無駄遣いするなよ」
リビングのローテーブルに、銀行の封筒を雑に放り投げる。中身はきっちり三十万円。
妻の恵美はエプロンで手を拭きながら、小さく「ありがとう」と頭を下げた。
そのしょぼくれた姿を見下ろしながら、俺――翔太は心の中で舌打ちをする。
三十万だぞ、三十万。俺が汗水垂らして稼いだ大金を毎月渡してやってるのに、この女の反応はなんだ。「ありがとうございます、あなた様のおかげで生きていけます」と床に額を擦り付けて感謝してもいいくらいだ。
髪は後ろで適当に束ね、化粧っ気もなく、着古した部屋着。
家賃に光熱費、食費、日用品、小学生の息子の学費や習い事代。恵美は「物価が上がってカツカツだ」と家計簿を見せて訴えてくるが、知るかそんなもの。お前がやりくり下手なだけだろ。三十万もあれば十分贅沢できるはずだ。
俺に養われているくせに、いつも疲れた顔をして愛想の一つもない。金を吸い取るだけの、ただの古びた同居人。それが俺にとっての妻だった。
――だが、愛人のレイカは違う。
「翔太さん、これ……本当にいいの? 新作のバッグ、ずっと欲しかったの! 嬉しい、翔太さん大好き♡」
週末、高級ホテルのラウンジ。
俺がクレジットカードで一括決済した三十万円のブランドバッグを抱きしめ、レイカは飛び切りの笑顔で俺の腕にしがみついてきた。香水の甘い香りと、完璧に手入れされた巻き髪。上目遣いで俺を「頼れる大人の男」として崇めてくれる。
同じ三十万円だ。
だが、妻に渡す三十万は「吸い取られるだけの義務の金」であり、何の価値も生まないドブ捨ての金。
対してレイカに使う三十万は、「極上の笑顔と優越感、そして男としての尊厳を買うための生きた金」だ。
同じ額を払うなら、可愛く喜んで俺を立ててくれる女に使いたいと思うのは、稼ぎのある男として当然の摂理だろう。
俺はレイカの腰を引き寄せ、優越感に浸りながらワインを煽った。
家ではケチケチと生活費を締め上げ、浮いた金でレイカに貢ぐ。この賢い立ち回りを、鈍くさい妻が気づくはずもなかった。
――そう、思っていた。
ある平日の夜。仕事を終えて帰宅すると、家の中が異様なほど静まり返っていた。
靴箱を開けると、恵美の靴も息子のスニーカーも一足もない。
照明の落ちたリビングのテーブルの上には、白い封筒が一通だけ置かれていた。
「なんだこれ……?」
嫌な汗が背筋を伝う。封筒を開けると、中には『離婚届』と、分厚い書類の束。
恐る恐る目を通した俺の呼吸が止まった。
そこにあったのは、過去一年間にわたる俺のクレジットカード明細のコピー。レイカに買い与えた三十万円のバッグ、二十五万円のアクセサリー、一泊十万の高級旅館の領収書。すべてに蛍光ペンで線が引かれ、探偵が撮影した生々しいホテルの出入り写真まで添付されていた。
震える手でスマホを取り出し、恵美に電話をかける。数回のコールの後、冷え切った声が耳に届いた。
『書類、見た?』
「恵美! お前、急に何なんだよこれ! どこにいる!?」
『実家よ。弁護士さんにも入ってもらってるから、直接の接触は控えてね』
「ふ、ふざけるな! 俺が浮気した証拠集めて勝ち誇ってるつもりか!? だいたい俺はお前に毎月三十万も渡して養ってやってただろ! 家族のために金を払ってきた俺に、感謝どころか裏切りで返すのか!」
電話の向こうで、恵美が信じられないほど冷たい声で小さく笑った。
『養う? 感謝? ……あなた、本気で言ってるの?』
「当たり前だ! 三十万だぞ! どれだけ大金だと思ってるんだ!」
『あの三十万のうち、家の住宅ローンが十五万。光熱費と通信費で四万。修繕積立金と保険で五万。残りの六万で、あなたと息子と私の食費、日用品、医療費、学費を全部やりくりしていたのよ。足りるわけないでしょう?』
「な……」
『私はパートに出て、自分の稼ぎで毎月の赤字を補填して、息子の習い事代も私の貯金から出してたの。あなたは家計の内訳を一度も見ようともせず、「三十万もやってる」と威張り散らして、家事も育児も一切丸投げ。その裏で、浮気相手には一回で三十万のバッグ? ……同じ三十万でも、家族のために使う金は惜しくて、女の機嫌を取る金は惜しくないのね』
「そ、それは……!」
『「同じ三十万でも扱いが違う」って、あなた顔に出てたわよ。家では金を投げてため息をつき、外では気前よくカードを切る。あなたにとっての家族は、安上がりに家事をさせて見下すための召使いだったのね』
恵美の容赦のない言葉が、刃物のように胸に突き刺さる。
『財産分与と慰謝料、養育費の請求書も同封してあるわ。あなたのそのカードの引き落とし口座、もうすぐ差し押さえの手続きに入るから。あと――その浮気相手の女性にも、内容証明で慰謝料三百万円の請求を送っておいたわ』
「は……!? レイカに!?」
『当然でしょ。共同不法行為なんだから。……じゃあ、今後は弁護士を通してね』
ツーツーと無機質な電子音が鳴り、通話が切れた。
呆然と立ち尽くす俺のスマホに、今度はレイカから着信が入る。慌てて通話ボタンを押すと、耳をつんざくような金切り声が響いた。
『ちょっと翔太! これ何よ!? 奥さんから慰謝料の請求書が届いたんだけど! 妻とは冷え切ってて離婚するって言ってたじゃない! ふざけないでよ、なんで私が三百万円も払わなきゃいけないのよ!』
「レ、レイカ、落ち着け! 俺がなんとか――」
『なんとかって何!? バッグくれたから付き合ってあげてただけなのに、大迷惑なんだけど! お金ないならもう連絡してこないで、この役立たずのクズ!』
ガチャリと一方的に切られ、二度と繋がらなくなった。
三十万で買っていた「極上の笑顔」と「男の尊厳」は、金が尽き、責任が生じた瞬間に、汚物を見るような罵声へと変わった。
一人きりの真っ暗なリビング。
住宅ローンの督促、多額の慰謝料、養育費、弁護士費用。これから降りかかる絶望的な数字の数々が頭をよぎる。
家計を支え、頭を下げてやりくりしてくれていた妻のありがたみに、すべてを失った今になってようやく気づいた。
だが、もう遅い。
俺の足元には、誰にも拾われない離婚届が、冷たく散らばっているだけだった。
◇◇◇
玄関の引き戸を開けると、ふわりと出汁のいい匂いが鼻をくすぐった。
「おかえりなさい。今日もお疲れさまでした」
三つ指をついて迎えてくれた妙は、落ち着いた藍色の小紋を身にまとっていた。
普段は動きやすい服を着ている彼女が、こうして少し髪を結い上げ、柔らかな着物姿を見せてくれるのは、月に一度――二十五日の給料日の夜だけだ。
十年前の俺は、真っ暗な部屋の中で頭を抱えていた。
前の結婚生活は、不満と疑心暗鬼と、終わりのない数字の奪い合いだった。「三十万もやってる」と威張っていた俺も幼かったし、「これっぽっちじゃ足りない」と不機嫌をぶつけてくる前妻の顔色をうかがうのにも疲れ果てていた。金を出しても感謝されず、出さなければ責められる。あの頃の俺にとって、家はただ気まずさと疲労を溜め込むだけの場所だった。
すべてを清算し、一人で生きていくと決めてから出会ったのが、妙だった。
「お風呂、先にしますか? それとも、すぐ召し上がります?」
「……飯にするよ。すごく美味そうな匂いがする」
「ふふ、今日はあなたの大好きな銀ダラの西京焼きと、牛すじの煮込みですよ。朝からコトコト煮込んでおきました」
食卓には、小鉢がいくつも並んでいた。
豪華なフレンチのフルコースでも、高級寿司でもない。けれど、ひとつひとつの野菜の切り方や味付けの端々に、俺の好みを把握し、手間を惜しまずに作ってくれた時間が滲み出ている。
スーツの上着を脱ぎ、座卓の前に腰を下ろす。
俺は鞄から取り出した銀行の封筒を、両手でそっと畳の上に置いた。
「妙、今月の生活費だ。受け取ってくれ」
中身は、きっちり三十万円。
前の妻に渡していたのと同じ金額だ。住宅ローンや税金を引いたあとの、俺が汗水流して稼いだ金。
妙は決してそれを雑に扱わない。
膝の上に揃えた手で丁寧に受け取り、胸の前に抱えて、ふわりと目を細めて微笑んだ。
「いつも家族のために一生懸命働いてくださって、本当にありがとうございます。大切に使わせていただきますね」
その言葉と笑顔を見た瞬間、胃のあたりに張り詰めていた日中の重圧が、すうっとほどけて消えていくのが分かった。
同じ三十万円だ。
額面としては、一円の違いもない。
けれど、前の生活では「吸い取られる義務の金」だったそれが、ここでは「二人の生活を温める糧」に変わる。
妙は知っているのだ。
この三十万円の向こう側に、俺が理不尽な上司に頭を下げた時間があることも、満員電車に揺られた朝があることも。
だからこそ彼女は、給料日にはおしゃれをして、俺の好物を作り、「あなたの頑張りを見ているよ」と全身で伝えてくれる。
もちろん、俺だって分かっている。
物価が上がり続けるこのご時世、三十万円で家計をやりくりし、いつも清潔な部屋と温かい食事を維持することが、どれだけ大変な工夫の上に成り立っているかを。
彼女が当たり前のように差し出してくれる日常は、決して「当たり前」なんかじゃない。
「妙、いつもありがとうな。やりくり、大変だろう」
「いいえ。あなたがこうして安心して帰ってきてくれるのが、私の一番の幸せですから」
冷えたビールを注ぎ合い、乾杯の小さな音が静かな部屋に響く。
銀ダラに箸を伸ばし、一口運ぶと、香ばしい味噌の甘みが口いっぱいに広がった。
「……美味いな」
「よかった。たくさん召し上がってくださいね」
男が女の奴隷なのでもない。女が男の召使いなのでもない。
お互いの流した汗と差し出した真心に、「ありがとう」を惜しまないこと。
たったそれだけのことが、どうして昔の俺にはできなかったのだろう。
向かい合って微笑む妙の着物の襟元を眺めながら、俺は心の中で深く息を吸い込んだ。
失った十年の痛みを経て、俺はやっと、本当に帰りたかった場所にたどり着いたのだ。




