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プロローグ

カチッ。

マウスを押す、小さな音。

次の話が始まる。

モニターの向こうでは、青々とした草原を少年少女たちが駆け回っていた。

笑い合い、

追いかけ合い、

名前を呼び合う。

まるで――

「孤独」なんて言葉を、最初から知らない世界みたいだった。

少なくとも。

あの画面の中では。

カチッ。

もう一度、マウスを押す。

さっきより少しだけ強く。

けれど。

モニターの前では、何ひとつ変わらない。

動いているのは、天井へとゆっくり昇っていく煙草の煙だけだった。

部屋には熱がこもっていた。

湿気で黒ずんだ壁。

隅にこびりついた染み。

食べ終えたカップ麺の容器。

空になったペットボトル。

吸い殻。

どれも無造作に転がり、まるで何年も前からこの部屋の住人だったかのように馴染んでいる。

灰皿は、とっくに限界を迎えていた。

一本分の灰が、静かに落ちる。

誰も拾わない。

男は、ただ座っていた。

虚ろな目でモニターを見つめたまま。

映像は流れている。

物語は進んでいる。

それでも。

彼の視線は、もうずっと前からその物語を追ってはいなかった。

ゆっくりと煙草の箱へ手を伸ばす。

一本。

取り出す。

ポケットの奥で眠っていた古いライターを取り出し、火を点ける。

小さく吸い込む。

細く息を吐く。

空になった箱は、そのまま床へ落ちた。

音はしなかった。

聞こえるのは――

アニメの笑い声だけだった。

窓へと視線が向く。

いつも閉じられたままのカーテン。

最後に開けたのは――

いつだっただろう。

思い出せない。

窓ガラスには、一人の男がぼんやりと映っていた。

乱れた髪。

生気を失った瞳。

疲れきった顔。

まるで、知らない誰かを見ているようだった。

男は、その姿から目を逸らせない。

いや――

逸らしたくても、逸らせなかった。

ガラスの向こうにいる男は。

紛れもなく、自分自身だったから。

「お、れ……」

掠れた声が漏れる。

喉の奥で途切れそうになるほど、小さな声だった。

映った自分の目を見つめる。

その瞳には、何も映っていない。

ゆっくりと。

本当にゆっくりと。

首を横に振る。

「……もう、こんなのは嫌だ。」

吐き出した言葉は、独り言ですらなかった。

ため息よりも弱く。

煙草の煙に溶けて消えていく。

それでも。

その一言だけは、確かに彼自身へ向けられたものだった。

そのときだった。

胸の奥が、ずきりと痛んだ。

男はゆっくりと胸を押さえる。

息を吸う。

吸えない。

もう一度。

それでも、肺は空気を拒むように動かなかった。

呼吸が浅くなる。

速くなる。

煙草が指の間から滑り落ちた。

床に転がる。

気づく余裕もない。

「っ……」

肺の奥が焼けるように熱い。

空気を求めるたびに、胸の内側を鋭い針で抉られているようだった。

――ゴホッ。

咳が漏れる。

止まらない。

「ゴホッ……! ゴホッ……!」

反射的に口元を押さえた。

額を冷たい汗が伝う。

そのとき。

掌に、ぬるりとした感触が残った。

ゆっくりと手を離す。

時間が止まる。

そんな錯覚を覚えた。

掌が赤い。

血だった。

息が詰まる。

指先が震える。

「……え?」

かすれた声が漏れる。

赤い雫が、ぽたり、と床へ落ちた。

積もった灰を静かに濡らしていく。

男は目を見開いた。

恐怖だった。

病気でも。

死でもない。

この部屋で。

このまま終わってしまうことが。

何よりも怖かった。

「ゴホッ!」

次の咳は、さっきよりもずっと重い。

視界が揺れる。

膝から力が抜けた。

倒れそうになった身体を、机の脚へしがみつくように支える。

モニターが小さく揺れた。

それでも画面の向こうでは。

少年たちは笑っていた。

走っていた。

まるで。

この部屋で起きていることなど、

最初から存在しないかのように。

不意に。

部屋の明るさが変わった。

男はゆっくりと顔を上げる。

モニターの光が消えた――

そう思った。

違う。

画面は、まだ映っている。

笑い声も止まっていない。

それなのに。

部屋はさっきまでより、ずっと明るかった。

「……?」

赤い光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。

夕焼け……?

いや。

違う。

こんな色は、見たことがない。

男はゆっくりと立ち上がった。

椅子が小さく軋む。

その音だけが、妙に耳へ残った。

一歩。

また一歩。

息を吸うたび、胸の奥が軋む。

左手からは、まだ血が滴っていた。

赤い雫が床へ落ちる。

ぽたり。

ぽたり。

その跡は、まるで窓まで続く一本の線のようだった。

震える手を伸ばす。

指先がカーテンに触れる。

熱い。

いや――

熱すぎる。

布越しに伝わる熱は、太陽なんかじゃない。

まるで。

向こう側そのものが燃えているみたいだった。

思わず手を引きそうになる。

怖い。

何があるのか分からない。

だからこそ、怖い。

それでも。

男は拳を握る。

ここで目を逸らしたら。

きっと、一生このままだ。

震える指でカーテンを掴む。

深く息を吸う。

そして――

一気に、開いた。

カーテンの向こうに広がっていたのは――

空だった。

「……え」

思わず、目を擦る。

見間違いかと思った。

だが。

何度瞬きをしても。

そこに広がる景色は変わらない。

空が――

赤い。

夕焼けでもない。

朝焼けでもない。

そんな生易しい色じゃなかった。

世界そのものが、紅く染まっていた。

空の彼方には、無数の亀裂が走っている。

まるで。

天そのものが砕け始めているようだった。

その裂け目から。

赤い火の粉が、静かに降り始める。

ひとつ。

ふたつ。

十。

百。

やがて。

数えることさえ意味を失った。

火が降る。

音もなく。

ゆっくりと。

世界の終わりは、こんなにも静かなものなのか。

男は息を呑む。

瞳いっぱいに、燃える空が映っていた。

言葉は出ない。

胸に浮かんだのは、たったひとつ。

「……綺麗だ。」

その一言だけだった。

瞬きすら忘れる。

逃げることも。

叫ぶことも。

できなかった。

いや。

しようとは思わなかった。

熱風が吹き抜ける。

髪が揺れる。

目の前で降り続ける火の雨の中。

ひとつだけ。

違う動きをする火球があった。

落ちているんじゃない。

一直線に。

こちらへ向かってくる。

男は反射的に手を伸ばした。

血で濡れた掌を前へかざす。

止められるはずがない。

そんなことくらい、分かっている。

それでも。

手を下ろすことはできなかった。

火球は、瞬く間に視界を埋め尽くす。

赤。

熱。

光。

次の瞬間。

世界は、真っ白に染まった。

痛みはなかった。

音もなかった。

ただ。

白。

そして――

静寂。


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