第5話 久しぶりの海
喋れるようになってから、もう一人の自分がいる気がしてならない。
よく考えれば当たり前のようにも思える話なのだが、要するにこの身体の持ち主がもう一人いるわけだ。そいつはこの身体相応の年齢なわけで、まだあまり話は通じない。
まあ、こいつのためにも同年代の友達が必要ということを内心思いながら俺は由利に連れられある女の子に会うことになった。
その女の子は少し由利や咲良に似ていた。なんというか活発なやつで、年相応の無邪気さがあった。親は後で来るらしくその場にいなかった。とりあえずお互い自己紹介することになった。
「はじめまして。緋夏っていうの。よろしくね」
「……仁っていうんだ。よろしく」
もう一人の自分が緊張しているので代わりに俺が言うことになった。変ではなかっただろうか。由利の反応を見る限り変ではないようだが。
思えば、こうして初対面の人と会うのはこれが最初だった。
何やかんや言って看護師さん、助産師さんは二人が生まれた時などに顔を合わせた人だし、あまり外にも出てなかった。家族となった智の親に会ったことは元より何度もあるし、由利の父母なんて死ぬ前から家族だった。
会ったことのない、仁と同い年の女の子が目の前にいる。
……なんか、由利と会ったときみたいだな、と思った。
あの時は親同士の示しあいではないが、懐かしい感じがする。初めての同年代の人と会う感覚。それが自然と呼び起こされるのだ。もう一人の自分が初めての同年代に喜んでいるので、しばらくそいつに任せてみることにした。
緋夏に連れられ俺は走っているのだが、まあお互いこける、こける。どれだけドジかっていうくらい。まあ、幼い頃は頭が重いからすぐにこけるらしいのだが。
疲れる。体力はまだあるのに、精神的なものだろうか。
身体に心が追いつかない。なぜ走らなくてはならないのか、疑問をもってしまう。
だが、それではダメなのだ。子どもの行動に疑問を持ち出してしまうと、子どもらしく見えなくなってしまう。何も考えないよう努める。
視界の端に一瞬、由利と緋夏の母親が談笑しているのが見える。さっき来たのだろう、先程までいなかったのだが、その母親の顔はどこかで見たことがあるような気がした。だが、すぐには思い出せない。
そんな時緋夏の足が止まって、俺も止まらざるを得なくなる。何事かと緋夏の方をみると、緋夏は少し悪い顔をしていた。
「ねね、海に行ってみようよ」
声をひそめ、ちらりちらりと親の方を見つつ言うさまはまるで秘密結社のようだが、実はこの辺りでは子どもだけで海に遊びに行くというのは珍しくなく、かつてからよく海で泳ぐ子どもの姿を見かけたものだった。だが、由利が言ったのか知らないが二人だけでは海に行ってはいけないという話になっていた。
「いいの?」
正直、由利に心配をかけたくない。緋夏の親御さんにも心配をかけるだろう。
「大丈夫大丈夫」
いや、大丈夫じゃないだろと内心思いながらも、もう一人の自分は行きたがっている。俺も…正直行きたかったりする。久しぶりの海を見たかった。
しょうがないな、俺が見張ってやっか。
いざという時は何もできないかもしれないがまあ、その時助けてくれる人はいるだろう。
落書きのようなものだが一応書き置きを残して、俺たちは海に向かった。
久々の海は青かった。
空が晴れているからだろうか。
堤防では年老いた男が一人釣りをしていた。
はしゃいでる緋夏をそとに俺は男に近づく。視界から緋夏が消えないよう気を配りつつ。
「釣れますか?」
「ああ」
そう言って笑う男の顔には見覚えがあるように思えた。
しばらく話せば、誰か分かるだろうか。
「今日はアジだな」
「アジのフライ、美味しいですよね」
そう言うと男は少し驚いてから頷く。
ちょっと子どもらしさを消してしまっていただろうか。
「また食べさせてやろう。いつかうちに来なさい」
「ありがとうございます」
そうして俺たちは約束をした。
誰なのか、分かっていないまま。
「もう!勝手に海に行っちゃダメでしょ!」
海にいるのが見つかると、案の定由利は怒った。書き置きで分かったのだろうか。
「ごめんね、由利ちゃん。私がちゃんと見ていなかったから」
緋夏の母親が申し訳なさそうに言う。そこでふと気づく。この母親…、そしてさっきまでいた男は…。
「違うの、直美ちゃんは悪くないの」
俺の妹、そして親父ではないか。
久々に会って、家族と分からないほど変わりすぎていたことに驚き、寂しさを覚える。
当たり前だが、人は歳をとる。それが自然の摂理だとわかっていても、どうしようもなく悲しくなってしまう。
妹のシワが増えた肌、いつの間に結婚したのだろうか指輪をした指、落ち着いたファッション。それに親父の白髪、少し弱くなりだした腰、幼い頃あまり見せなかった親父らしくない柔らかな笑み。
何もかもが時の流れを思わせた。
海から帰った浦島太郎はこんな気持ちだっただろうな、とふと思った。
いや、俺は浦島太郎だ。
海から帰り、こうしてこの場にいる。最近は慣れてきたが、帰ってきた当初は何も分からなかった。
それなら、玉手箱があればいいのに、と思う。玉手箱があれば、由利たちに追いつけただろうに、と。
だけど実際、そんなものは存在しなくて、追いつこうとしても追いつけない。そんなことは当たり前のようで、時々俺を苦しめる。
俺がもう一度この世にやって来たとバレたらいいのに、と思うことさえある。
たとえ、仁を失うことがあっても?
いや、失うのはやめておきたい。
父であった人間として、子どもの一生を棒に振ることなど、許されるはずがない。
そう言って自分を納得させるのだが、まだまだ俺は悩み続けている。
懐かしい人に会うたびに。とんでもなく寂しくなるたびに。
いつか言ってしまう日がくるなら、その時はどのような時なのだろう、とぼんやりと考えた。