第38話 母親
どうしよう、これからどうすればいい?
俺はただどうすればいいかわからず固まっていた。鼓動がうるさい。これはどちらの鼓動だ。
先ほどの話は、もしかしたら聞かれているのかもしれない。だけど、由利は……この身体を仁と呼んだ。
「……ありがとう、咲良を精いっぱい守ってくれて。私だって、策なしじゃないのよ。友達、亜里沙に相談したの」
「亜里沙……!」
思わず俺はその名前に反応する。亜里沙、由利の親友だ。新しいもの好きで島から出て今は大阪で働いていて……。とそこで、なにか大事なことを忘れている気がしたが、なんだったか……。
しかし、その亜里沙がここに、なら大丈夫だ。
「私に任せなさい!」
とそこに不満そうな男が一人。
「おいおい、そっちに人多すぎだろ。こっちだって人呼ばせてくれよ」
謎の不当表明をしている。
「いいえ、今度は私が相手だから一対一よ」
由利は静かに言った。こんなにも静かで冷たい声は初めて聴いた気がする。
「あなた、法を知っているからこそ、その余裕なのね」
「……ふん」
その言葉に男は顔を歪める。合っているらしい。
「そんなあなたに私からは、いいことを教えてあげる。あなたのためでもあるから、耳を傾けなさい」
毅然とした態度の由利を、男は試すような眼で見ている。俺たちとしても何を話すのか、気になってそわそわしていた。それらを由利は一瞥したのち、口を開く。
「あなた、本当はその苦しみを知っているはずよ。なぜなら、あなたは実の母に殺されかけたのだから」
そして、とんでもないことを言った。男も、驚きで目を見開いている。どこでそれを知ったのだろう。俺たちが名前などを知って、会って、話をするまでに。
「あなたの父親は仕事ができる人。家自体は裕福で、生活に困ることはない。だけど、父親は家庭を顧みなかった。だからこそ、母親は浮気に手を染めた。父親に振り向いてほしくて。だけど、父親は気づく気配はなかった。そして、それに飽き飽きした母親は、浮気相手と出ていった。その前にあなたという存在が邪魔で、一人行こうとするあなたに近寄って泣きつくあなたが邪魔で、殺そうとした。浮気相手も、あなたを必要としていなかったから。こぶ付きだと嘲笑われるから……。
幸い殺されなかったあなたは、しかし一人になった。すべてを知られている小学校では可哀相な子供だと嘲笑われ、屈辱を感じた。同情ほど悔しいものはないと、そう思ったのでしょう。
そこからあなたの人生は歪み始めた。中学は誰も知り合いのいない場所を選んだ。唯一愛してくれた父の両親の力を借りて。父は養育者として肩書はあっても、うつ状態となって働けなくなった。あなたにとっては荷物でしかなくて、だけど、殺されそうな母親のそばにいるよりかは百倍マシで。そんな自分の恥ずかしい世界を覆い隠すかのように、あなたは学校で暴れまわった。もちろん、それは暴力という形じゃない。あくまでも自分の人生は晴れ晴れしいものだと皆に思われるために、友達を多く作り、女性と交わり合った。容姿だってそのためにどれだけ努力したか。そして、その女性を飽きたと捨てた、その快感がたまらなく感じた。まるで自分のように転落人生を歩む、女性たちの姿を見て滑稽に思った」
唇を噛み、しかし黙っている男の姿を俺は何も言えず黙って見ていた。由利の言うことは真実なのだろう、そして先ほどまでの奴のさまは、まるでピエロであったというわけか。そう思った時、とある男の顔がよぎったが今は考えないことにする。そういえばその男の姿がないが、まだ島で仕事でもしているのだろうか。
「あなたは自分と咲良のためとおろすことを勧めたなんて言ったけど、そんなわけはない。あなたは何度も女性と妊娠し、そしてその女性に何度もおろすことを勧めた。あくまでも俺は妊娠させるつもりはなかった、お互いのために関係をリセットするようにおろそうなどと言ってね。そしてあなたはその女性たちがおろすことによりうつ状態になり、自殺を選ぼうとしたりするそのさまを見て笑っていた。傍から見ると、とんでもない悪魔ね。そして、わが娘咲良もその悪魔の餌食になった。家の関係で自分の気持ちを抑えていた咲良に近寄って、あなただけは話しても大丈夫だ、あなただけがすべてだと思わせた。今までの女性と同じように」
もし俺が当事者でなければ、この話を聞いていたくない。そう思うほどに聞き苦しい話だ。それと同時に、いかにこの幼少期が男を変えたのかということがわかる。それは、咲良についても同じだった。
「あなたの今まで大学で遊んできた女性も、同じような感じだった。進路を反対されて家出のように出てきた女性、家族が嫌いで家から出たくてこちらの進学を決めた女性など。それらの女性こそ、家族に頼らず、友達も少なく、頼れるのはあなただけ。あなたと女性の間に一方的な依存関係を作り出したのよ。まるで、昔の母親に対するあなたのよう……。
つまり、あなたは母親と同じことをしようとしているの。無意識かもしれないけれど、あなたが憎んだ母親と、同じことをしようとしているのよ。そしてあなたがやったことは、いつか必ず返ってくる」
そして由利はすべて言い終えたとばかりに、奴の顔を見つめた。奴は髪を手でぐしゃぐしゃさせてから、口を開く。
「ったく。父親といい、母親といい、どういったわけで知ったんだよ」
そこに先ほどの余裕はなかった。観念したのだろう。化けの皮を剝がしてしまったようだ。
「……わかってる、わかってるさ、だけど……お前らはどうせ、非難して俺から搾り取ってそれで終わりにしたいんだろ?」
目は、俺の方に行く。加害者のくせに何だその口は、と思ったが、今の俺はどう言ったらいいのかわからず、由利を見た。
「ちょっと、私と今話してるんだからよそ見ないでくれる??」
由利はそれに気づいてか、毅然とした態度である。
「私は、そして恐らくみんなも、あなたが罪を償うことを願っている。それは確かに、あなたのなにかを搾り取る形になるかもしれない。だけどそれだけじゃなく、私は伝えたいことがあるの。だからもし、あなたがこの音声データを誰かに聞かせようとするならまず止めなさい」
「……わかったよ」
素直に従った男は、録音機械をズボンのポケットから出して止めた。それを由利が手から奪い取り、皆の目につくところに置く。そんな恐ろしいものを持っていたのか、俺は驚くと同時に、このまま俺の暴言があちらこちらに聞かされないで済むことに安堵した。
男の目は泳ぎ、唇を何度も噛む。呼吸は乱れ、肩が微かに震えている。理性と感情が激しくぶつかり合い、かつての余裕は完全に消え失せていた。いつもなら他人の不幸を冷笑し、優位に立つことで満足していたはずの男が、今、由利の言葉に押し潰されそうになっている。
「それで……なんなんだよ、何をする気だよ」
恐れ知らずに距離を詰める由利。そして強がった姿勢と裏腹に、その男は後ずさりしている。かすれた声で、明らかに劣勢である。内側で恐怖と挑戦心が交錯しているのだろうか。かつての記憶がよみがえって、由利という他人にさえも歯向かえなくなっているようだった。
自分が支配してきた他者の弱さが、今、自分自身に返ってきているのだ。
由利の視線は冷たく鋭く、容赦なく男を射抜く。男は目を逸らそうとするが、逃げ場はない。心臓の鼓動が胸を打ち、冷や汗が背中を伝う。すべての言い訳が、自己正当化の仮面が、今まさに剥がされつつあった。
「わかった、もう……わかったから……」
震える声で観念を示す男。手を上げて、まるで降参と言わんばかりだ。しかし、そこにはまだ薄皮一枚の自己防衛が残っているのがわかる。
由利はゆっくりと前に進み、男の目をまっすぐに見据える。
「甘いわね。今、あなたが涙を流しても、私もあなたを赦したわけじゃない。あなたが犯してきたことは消えない。咲良が受けた傷も、あの女性たちが味わった苦しみも、すぐには消えないの。あなたがこれから何をしても、それを背負い続けなさい。理解できる? この現実から、逃げることは許されないのよ」
男は言葉を失い、ただ俯くしかなかった。その背中に、重く冷たい現実がのしかかる。
「あなたがこれから生きるのは、罪から逃れるための人生ではない。自分の愚かさと過ちを理解し、向き合う人生よ。もしまた同じ過ちを繰り返すなら、咲良だけじゃなく、あなた自身も破滅する。誰も救わない、誰も許さない―それが、私の言葉の意味よ。」
男の瞳から、初めて恐怖と後悔がはっきりと見えた。俺は静かに見守るしかなかった。優しさではなく、厳しさで心を動かす―由利の言葉が、確かにそう作用しているのを感じた。
「でも、それは今さらあなた一人でできることではないでしょうね。だから、あなたは逃げるのに必死なのよね。もしあなたがここで建前だけ金を払って、同じ行為をまた繰り返すなんてことは、あってはならないこと……咲良がこんな被害に遭ったことは心が痛いけど、咲良で終わりにして欲しい。
贖罪は自分でやりなさい。背負いきれないなら、潰れればいい。それが、あなたが選んだ道の報いよ。私は、そのときこそあなたを徹底的に告発する。逃げ道はもうないと心得なさい」
由利の声は低く、鋭かった。男は息を呑み、肩を小刻みに震わせている。
「だけど――」
由利はそこで一拍置いた。
「もし本当に、心の底から変わろうとするなら……そのときは話くらいは聞いてあげる。罰を逃れるための言い訳じゃなく、過去に向き合う言葉をね」
男の表情が揺れる。赦されたのではない。むしろ突き放された。だが、その厳しさの奥に、わずかに残された道が見えたからこそ、かえって心を抉られるのだ。
「母親ってね、そんな生き物なのよ」
そう言って由利は笑った。それはきっと、男が求めていた母の笑み、そして、母の温もり。
男の目は大きく見開かれた。そしてしばらくして、男が涙を流したのが、俺には見えた。
愛が心を動かすとはこういうことなのだと、俺は密かに思った。
この終わりでいいのかどうか……賛否両論あると思います。私の中での、というか、キャラクターの中での一つの終わり方です。
この文章は、決してこの解決法を正当化しているものではありません。




