第1話 久しぶりの世界
暗い道のりの中に光を見た。あれがこの世。
もう一度、行きたいと願った場所。
まさか、このような形で行くことになろうとは思いもしなかったが。
由利が痛そうに唸っている。これが陣痛にあたるのだろうか。
ごめんな、もう少しで出るから。もう少し、頑張ってくれ。
死なないでくれ。
頭が先に出る。眩しい光に目を開けられない。
さらに、助産師さんの手によって俺の小さな身体がこの世に引っ張り出された。
そして、へその緒というやつがプチン、と切り取られる。
肺呼吸が始まる時に、声が出る。
「ふにゃぁ」
何とも間抜けな声だ、そう自分でも思う。だが、仕方ないのだ。
俺はまだ、歯も生えていない、赤ん坊でしかないのだから。
……でも、歯が生えたら、どうすればいいだろうか。いきなり話し出したら驚くだろうな。
そんなことを考えていたら目の前に誰かの顔が現れる。視界がぼんやりしていていてはっきりとわからない。そういえば生まれたばかりの時は視力が弱いんだったな、とどこかで聞いた話を思い出す。
「可愛い男の子ですよ~」
「うわぁ、可愛い」
だけどそう言って笑う由利の声を聞いただけで、そんなことはどうでもよくなってしまう。抱きしめたくなってしまう。もう一度会えた。その喜びがとても大きくて、泣きそうになった。
そして決意した。今度こそ、由利が死ぬまで生きてやる。
息子としてでもいい。幸せにしたい。いや、するんだ。
たとえ、俺の正体を知らないままでいても。
この笑顔を守りたい。
にしても、再婚相手が智というのは少し複雑だ。幼馴染が幸せになってくれたのだからいいはずなのに、なぜなのだろう。
幼馴染に育てられるのが嫌なのか?
確かにそれはある。しかし、残念ながらそうじゃなきゃ今の俺は生きていけない。
智はどんな父親なんだろう。胎内から聞こえた会話からはあまりわからなかった。
新生児室に運ばれながら、俺はこれからのことを考えていた。
新生児室にいるのは、すーすーお行儀よく寝てるやつと、ぎゃあぎゃあ泣いているやつの二通りだ。当たり前なのだが、少し寂しい。思ってることが言えない。これって一時期の俺みたいだなとふと思う。あの時はまだ馬鹿話はできたけど。
そういえば、今日はいつだろう。
俺が一旦死んでから何年経ったのだろう。
その間に由利は智と付き合い、再婚して、俺を産むまでに至った。
それまでに何年経ったのだろう。
俺が六年で成し遂げたことを、智は何年かけて達成したのだろう。
そうだ、子どもはどうしてるだろう。これから兄、姉になるのは俺の息子、娘だ。
複雑だ。実に複雑だ。だけど楽しみだ。大きくなった子どもを父親として撫でられないけれど。
恨まれてなかったらいいが、多分恨まれているだろうな。小さな子どもと母親を残していなくなったのだから。
とにかくどうしようもなく眠くなって、俺はしばらく寝た。
夢で、泣いている子どもを見た。胸くらいの長さの髪の女の子だ。
誰だろうとよく見てみると、その子は由利にそっくりだ。おそらく娘だろう。大丈夫か、そう言って近寄ろうとすると、その子は俺を見て笑った。
大丈夫。
大丈夫だから、そんな顔しないで。
そうか、俺は今子どもだから、何も出来ないんだ。
自分の娘すら、助けてやれないんだ―。
起きると、看護師の女性の姿があった。ミルクの香りがして、ぐうとお腹が鳴いた。
「お母さんに会いに行きましょうねー」
看護師は俺を由利の部屋まで運ぶ。部屋には由利のほかに智と少年、少女がいるようだ。恐らく二人が俺の息子、娘だ。大きくなったものだ。ここまでの時間の経過を思わせる。しかし、あの夢で見た娘は、もう少し大きかった気がする……。
娘の咲良が俺の顔を覗き込む。
「わぁ、小さい」
その言葉に夢のせいか胸が痛む。そうさ、お父さんはこんなにも小さくなっちまった。こんな姿じゃ、頼りないよな。
「ねえ、お兄ちゃん」
「……赤ちゃんはそんなもんだ」
息子の大希は興味なさげだ。妹が生まれた時は大喜びだったというのに。何があったんだろう。
「お母さん、抱っこする?」
「もちろん」
容易く俺を抱き上げた看護師はゆっくり由利の腕に俺をのせる。途端に、由利の懐かしい匂いがした。由利の顔が近づく。顔もはっきり見えやしないのに胸がときめく。
「ほんと可愛い」
智が俺の顔を覗き込んで頷く。
「どんな感じですか?」
智の質問に看護師はふっと笑う。
「おとなしい子よ。全然泣かないから、健康状態が分かりづらくて……もしかしたら、中身大人かもしれないってくらい、表情も乏しいの」
……げ。
「へえ、そうなんですか。大人だったら面白いですよね」
智がそう言って笑うが、実は全く冗談でないので俺は笑えない。
由利はそんなばかな、と苦笑いをしている。
「そうね、でも、今はなぜか表情がころころ変わっているから安心したわ。ただの大人しい子ってだけで、気のせいかもね」
そういうことにしてもらいたい。とそこで、咲良が由利の身体を揺らすのが腕越しに伝わってくる。
「お母さん、咲良も抱っこしたい」
「いいわよ」
おっかなびっくりのせられた咲良の腕は少し不安定だ。落下してはひとたまりもないなんて不謹慎なことを考えた。
「え、俺も……」
智が自らを指差してアピールする。まるで子どもみたいだ。
「はいはい、おまちどうさま」
由利は咲良から俺を取り上げ、智の腕にのせた。まだぎこちない、それでも程よい揺れに揺られながら、俺は輪に入らない大希のことが気になっていた。
「大ちゃん、弟くんが君のこと気になっているみたいだよ」
そしてそれはバレていたようで、由利は大希に呼びかけた。
「……俺は別に興味ない」
「そんなこと言わずに、ね?」
一度智から返されてから、由利は大希の腕にのせようとする。大希は渋々といった様子で俺を受け取る。
元気なのか?どうしたんだ?
聞けたら聞きたい。だけど聞けない。表情から読み取るしかなかった。
しかしさすが妹がいるだけある、こなれた様子の大希に揺られ、心地よくて眠くなりそうになった。
「気持ちよさそうね。大希のこと気に入ってるみたい」
「……ふうん」
興味なさげに見せて実は嬉しそうな大希。その時俺は悟る。
大希、お前ツンデレに育ったのか。可愛い奴め。
ほっと安堵した。そして思った。俺がいなくたって思ったより問題はなさそうだ、と。
面会時間は終わり、俺は再び新生児室に運ばれ、寝た。
久しぶりに、昔の夢を見た気がした。
それは昨日と打って変わり、幸せな夢だった。皆が笑い合い、食事を取り囲む夢だ。
それは、まるであの頃のよう。そこに由利、大希、咲良らしき人間はいた気がするのだが、それ以上はわからなかった。きっと俺が生きていれば、こんな感じだったのだろうなとぼんやり思うくらいだ。そう思うと胸が痛むが、こうやって胸を痛めるのは俺だけだろう。
みんな、前に向かって進んでいるのだろうか。俺だけがこうやってうじうじしているのだろうか。
情けない。情けないったらありゃしない。しっかりしろ、俺。
途端に虚しくなって、考えるのをやめた。夢さえも俺の妄言であるように思えた。
一週間後、何事もなく俺は無事退院した。母子ともに健康であった。