リゾット
今日も私はお仕えしている宮殿の薄い緑色をした大理石でてきた螺旋階段の1箇所の手摺りをピカピカに磨いている。
それこそ自分の姿が映るほどキレイにキレイに磨いてると、それが言葉のアヤでは無く黒いフリル付きの使用人の服を着た私が本当に映ったから一人でクスッと微笑ってしまった。
他の場所ももちろん掃除するが、中央にあるここの場所はここの若き当主であるあのお方が手を触れる場所だから。
これは、私が一日の中で一番時間をかけ、一日の中で一番幸せを感じること。
階段の下に埋め込まれている年季の入った柱時計が掠れた低音で8時を告げると、それまで掃除を勤しんでいた私を含めた使用人達が一斉に手を止め雑巾やらホウキやらを片付け始める。
各自身だしなみを整えこの家の若き当主が二階の自分の部屋から出てくるのを固唾をのんで見守っている。
寝起きとは思えないほど凛とした表情は周りの人間に威厳を与えるその姿はいつ見ても美しい。
長いシルバーの髪の毛を一纏めにしたまま、黒とボルドーカラーを交えたモード調ファッションで階段を降りてきたこの家の家主ランドール様がいつものように小さく息を吐きカツンカツンと立てていた足音を螺旋階段の1箇所で止める。
そして、さっきまで私が磨いていた手摺りに肘をつき胸ポケットからボルドー色の皮の手帳を出し一日の予定を確認する。
長くしなやかな指先がページをめくる。
形のいい切れ長の瞳が手帳の文字を追う。
ほんの少し唇の端が上がるのが全ての予定を確認したと言うサインだった。
彼の一つ一つの動作を見逃した事が無いから次に彼が何をするのか手に取るように分かってしまう。
だけど。
私が知りたいのはそんな事じゃない。
私が知りたいのは目で見ることのできない彼の心。
彼は何を思い何を考えて一日を過ぎるのが……。
そして……。
彼が誰を想っているのか。
ふわふわと漂う空気のように周りを見渡していた銀色の瞳が止まった。
こっちを見てる?
彼の瞳がすぐ側で動きを止めた。
まさか……私を見てる?
そんな事ある訳無いのに。
今一瞬目が合った気がした…。
本当に目が合ったのかどうか分からない。
きっと勘違いだよ。冷静な自分がそう諭す。
私の周りにいた人達も若き当主が気まぐれにでも自分の事をちらっと見てくれたのでは無いかと深く漏らした吐息が周りを覆う。
彼は私にとってはたった一人の大切な人なのに、彼にとっての私はその他大勢の一人でしかならないから。
彼を見上げる羨望の眼差しの一つに過ぎない私と彼との視線が交わる事なんてある訳無いから。
「ねぇねぇ、今ランドールさま、こっちを見てくれたよね?きっと私を見てくれたんだわ!」
私の同期のかウェンディが元から赤ら顔を紅潮させてはしゃぐから茹でだこみたいになっていた。
素直でいいコなのだけどちょっと思い込みか激しいと言うか妄想の中で生きていると言うか…。
でも。一方でこんな風に自分をさらけ出す事ができていいなと思ってしまった。
私も。
ほんの一瞬の奇跡でいいから起こって欲しい。
「ってまたありもしない妄想膨らませてるんでしょ?」
お昼休み中庭の木陰で昼食のパンを食べていたら、ランドール様の従者であり幼馴染みでもある、デュオがどこからとも無く顔を出した。
色白でグリーンのかかった大きな瞳、肩までまっすぐに伸びたブロンドの髪をした美少女そのものなのに、性格に難ありなデュオは私のバゲットからパンを一つ掴んだ。
「ちょっとー、それ私の!」
「オレ朝から何も食べて無いんだよねー」
そう言うとパクリとそれを口に運び芝生の上に寝そべった。
「ランドール、ランドールってそんなにいいのかな?」
「妬いてるの?」
「そんな訳ある訳ないだろう?てか、お前ランドール様と話もした事ないくせに好きだ、好きだって、何じゃそれ?」
デュオだけには私の秘密バレていた。
ずっと近くで過ごしてきたからデュオは家族以上に私の事を分かってくれる。
こうしてたまにちょっかいを出しながらも話し相手のいない私のとこに来てくれる。
「デュオは好きなコいないの?」
私の問いにデュオは少し頬を赤らめてうつむいたものの。
「そんなのいる訳ねーだろう!バーカ」
べーっと舌を出してすたこらと宮殿へ向かって行った。
*********
僅かな明かりの中洗い物がこすれる音が響く。
積み重なっていくディッシュを窓からの半月が照らす。
これが終われば一日の日課全て終了。
今日は謁見が長引いたせいでいつもより片付けに時間がかかってしまったけど、今日も一日頑張ったな、私。
最後の一枚を洗い上げ戸棚に片付けようとすると背後からコトンと結構大きな音がした。
その音に驚いてしまい手からするりと皿が抜け落ちる。
ガシャンと皿が割れる音よりも私の後ろの何モノかの気配の方に気を取られてしまい動けなくなる。
誰かいる!
しんと静まり返った石造りの台所に低く不機嫌そうな声が響く。
「あーあ、それオレの気に入ってる皿だったのに」
男の声…。男の人がここにいる!
いつも私一人しかいないこの場所に人がいるだけでも驚きなのに男の人がいるなんて……。
壁に映し出された大柄な人影は恐怖で振り返れない私に容赦なく近寄ってきた。
「おい、お前」
どうしよう?私に言ってるんだよね?
「おいって言ってんだろう?」
返事しないと殺されるかも!
更にドスのかかった低い声に固唾を飲む。
「おい、聞こえねーのか!」
ぐいと肩を掴まれた。
あー…、もうダメだ………。
ぎゅっと目を瞑り抗う事なく身を任せた。
「お、おい、目開けろよ。何もしねーって」
さっきまでと違い焦ったような口調にゆっくりと目を開けると、そこにはオロオロしてこちらを見るシルバーの瞳がすぐ目の前にあった。
え?
突然の事に思考が停止する。
え?え?え?
まさかランドールさま!しかし、どうしてこんなところにランドールさまが?
私のそんな気持ち気付く様子もないその人物は白く美しい手で私の手に触れる。
「ケガはないみたいだな」
え?え?え?ダメだ、頭の中がぐじゃぐじゃで思考回路がフリーズ中。
急に地上に投げ出された魚みたいに口がパクパクと動くだけで声にならない。
「ったく。この時間なら誰もいねーと思ったのに」
私にケガが無いと分かると何事も無いように部屋の片隅からホウキとチリトリを持ってきてサササとバラバラになった陶器を片付けてしまった彼に勇気を振り絞って声を掛けた。
「あ。あの、ら、ら、ランドールさまですよね?」
洗いたてなのだろうか湿った髪の毛から軽やかにシャンプーの香りが漂ってきてただでさえ気絶しそうな私にとどめの一撃を打ってくるものだから、体中の力が抜け落ちヨロヨロとその場に膝をついてしまった。
「は?どうしたの、お前?」
ランドールさまも腰を落とし視線を私に合わせてくるから心臓が破裂しそう。顔が熱い。
「も、も、申し訳ありません!」
「は?何言ってんの?大丈夫か?」
パチパチと目を何度か開いたり閉じたり額には微かに汗が光っていた。
初めて見るランドールさまのこんな表情。
美しい、本当に美しい……。こんなに美しい方がこの世に存在している事がこの世の奇跡だと思う…。
「だ、だ、大丈夫です…。ランドールさまこんな時間にこのような場所にどうされたのですか?」
気持ちを悟られないように冷静を装い足についた埃を払う。
「いつもこの時間になると腹が減るんだよなー。健康管理だか何だかしんねーけどいつもいつも決められた食事とか…好きなモノ好きなだけ食わせろって」
そう言うと慣れた手付きで一番上の戸棚を開けて、
「あー!」
と叫び声を上げた。
「オレのバナナが無い…あ?誰だ?執事のサムか?くそ!」
子供のようにがっくりと肩を落とし、地団駄を踏みそうな勢いのランドールさまに恐る恐る声を掛ける。
「あ、あのー…」
「あん?」
「え、えっと……、先程夜食に作ったトマトリゾットがございますがお召しになられますか?」
「トマト…、トマトリゾットー!食う食う!」
子供のように無邪気な顔でねだるランドールさま。
これは本当にランドールさまなのだろうか?いつもの威厳あるランドールさまは一体どこに?
だが。
こんなランドールさまもとても可愛らしく好感度が上がりまくりで…
先ほど割れた器によく似た器に入れたリゾットをランドールさまの前に置くと、一瞬の隙も無く口に運んだ。
「これめちゃめちゃうまいな、こんなうまいリゾット初めて食った」
いつもの威厳はどこへやら零れそうな笑顔を浮かべるランドールさまは小さな子供のようだった。
小さな小汚い椅子に腰掛け真っ白のスープ皿によそったトマトリゾットを嬉しそうに食べ始めたランドールさまはしばらくして、
「お前は食わないのか?」
と、小首を傾けた。
「わ、わ、私はもうお腹いっぱいです」
ランドールさまのこのような姿を見られただけでもう胸がいっぱいで何も入る余地が無い。
それなのに追い打ちをかけるように。
「うめーぞ、食ってみろ!」
一口分リゾットののった自分のスプーンを私の前に出してきた。
まさかの、あーんを要求され、頭が真っ白になる。
「早くしろ!」
「は、は、はい!」
厳しい口調のランドールさまにうながされ勢いに任せてパクっと口に入れた。
口の中のリゾットがこれは現実だと言わんばかりにトマトの酸っぱさが弾け恥ずかしさがピークに到達した。
「おい、顔真っ赤だぞ!そんなに熱かったか?」
驚いた様子のランドールさまがコップ一杯の水を運んできてくれた。
「お前何て名前だ?」
「あ…、ええと、リリアです」
「リリアか、覚えておく」
う、う、う…。
こんな夢のような出来事…。
私、明日死ぬんじゃないかな。
ようやくリゾットを飲み込めた。
「どうした。もう食わないのか?」
差し出された最後の一口に首を振るとシルバーの髪をした美しい貴公子はそれを口に運び更に残っていたトマトリゾットをキレイにかき集めパクっと口に入れた。
石造りの静かな台所のようなところは一本の蝋燭のみの明かりに照らされていた。
ゆらめく火が髪と同じシルバーの瞳を温かく照らす。
「これお前が作ったんだろう?」
私がこくんと首を縦に動かすと貴公子は椅子から立ち上がり片手を私の頬に充て、顔を近付けてきた。
何の物音もしない静寂な空間の中自分の
「こんなうまいリゾット初めて食った」
目の前の貴公子は席から立ち上がり、私の頬に手を充てた。
「お前自身の味はどんなだろうな…」
言うが早いか視界が彼だけに奪われる。
あ。
まるで映画のワンシーンのような世界。
このまま時間が止まってしまえばいいのに……。
うーん、瞼に何か当たってるよぉ。
空気がさっきまでとは全く変わり見慣れたいつもの景色になる。
顔にかかるカーテンが邪魔くさくて重い目が覚めた。
どこかで小鳥の囀りが聞こえる。
うーん、もう少し、もう少しだけ眠っていたい……。
とても幸せな夢を見た気がして、このまま起きたくなんてない。
とてもとても幸せな夢だった…。
自分の部屋の安定したベッドの上で
しかも、あの夢初めて見る訳じゃない。
ん?ん?ってやばい!今日は千代子と映画見に行く約束してたのに。
ボサボサの髪、寝惚け眼の顔。
今のは昔からよく見る夢。
元々王族とか貴族とかの出る海外映画が好きだからその影響かもしれない。
ってそんな事考えてる場合じゃない。
急いで支度しなくちゃ。
私はパジャマのボタンに手を掛けた。