13 険悪(?)な水曜日
――俺のことは気にしなくてもいいから
頭に浮かぶのは、そう言って優しげに笑う一人の青年の顔
優しげな笑顔
でも――その笑顔はとても儚くて
長い夢だと思いたかった
でも、それは紛れもない過去の出来事…………
学園の塔の中を歩く。
すたすたと感慨なく歩いていた私は、昨日に引き続いて自分に向けられている視線を敢えて無視し続けた。
視線に含まれている感情は、恐怖や嫌悪のもので向けられていて心地よいとは思えない。
私が道を通る。
ただ、それだけで生徒達は私を大袈裟なほどに避けて物陰に隠れた。
囁かれる言葉も聞こえていたが聞こえない振りをした。
……私は猛獣か何かですか。
思わず声に出さずに問い掛けて。
自分で自分をその通りじゃないかと納得して、自嘲気味な笑みを口元に浮かべる。
もともと生徒達にとって嫌われ者だったのだから、別にこういった態度をとられてもこれとって思うことはなければ嫌とも思わない。――ただ、囁かれる言葉だけが私の耳にいつまでも残っていた。せめて聞こえないように囁けばいいものの、こちらに聞こえるように囁くのは嫌がらせにしか思えない。
一部の生徒に関しては、躊躇ったように、気を遣うように声を掛けようとする人もいたが、私から彼らと関わりをもたないように、その素振りをされるまえに何もないとばかりに彼らから離れる。
昨日のあの事件から、私は誰とも会話をしないようにしていた。
特に教師達に至っては何か言おうと私の元にやってきたのだが、敢えて魔法で私の周りに近づけないようにしてしまい、結局のところ誰とも話していない。彼らが私に言おうとしている事は簡単に予想ができる。だからこそ、それを口にさせたいとは思えなかったのだ。
私はただ、自分に下される判決を待っていた。
……この学園にいるのも今週いっぱいってトコかしら。
意外と短かったわね。
既に昔のことであるかのように心の中で呟く。
頭の中では、元の隠居生活を思い浮かべて、たまには何処かに気ままに旅行でもしてこようかなどと予定を立てていた。
「一体なんだってんだよ、ったく……」
苛立ち露にリイチは近場の壁を蹴り飛ばした。
思い切り鈍い音が周りに響き渡り、リイチではなく傍にいる他の人の方が体を震わせてしまう。
「落ち着けよ、リイチ。苛立ったって何もねぇだろーが」
「そういうお前だって苛立ってるのは分かってんだからな、シュリン」
「ま、そりゃ苛立つってもんだろ」
「…落ち着くんだ、二人とも」
ぴりぴりするリイチとシュリンの間に入ってコウが二人を宥める。
しかしコウとてリイチ達の考えがわからないわけでもなかったので、完全に二人を宥めることなどできなかった。若干の棘は抜けたものの、リイチとシュリンから殺気めいたものが湧き上がり続けているのは否めない。
その感情の蟠りを己から吐き出すようにして、リイチが一度だけ大きく息を吐き出してから言葉を続ける。
「大体今日の一触即発の雰囲気が気に入らないね」
一日中、学園は嫌な雰囲気に包まれていた。
原因は分かっている。
そんなものは一つしかないからだ。
しかし原因が分かっているとはいえ、――否、分かっているからこそ、この雰囲気は許し難いものだった。
「…先生方も今日は何やらぴりぴりしてるしな……」
授業中は勿論のこと、授業外でも教師の全員の機嫌が明らかに悪かった。いつも陽気なマヒロでさえも話し掛けることもできないオーラを纏っていた。レイに至っては授業中に質問しようとした生徒を再起不能ではないかというくらいに言いくるめてこてんぱんにしていた。また、いつもは温厚なネイトも真顔で教卓を蹴り倒して生徒を沈黙させてもいた。何とも物騒な話である。
シュリンも便乗するように言葉を続けた。
「大体あいつも話し掛けようとするとするりと逃げてくしよ」
「ああ、それは俺も同じだね」
「だろ? あいつに至ってはいつもと変わらない様子だけどなんかな…」
あいつ、というのは他ならぬユキのことであるのは言うまでもない。見たところ、通常運転の無表情のような表情と抑揚のない感情のなさで廊下を歩いているようではあった。が、こちらが話しかけようとするとそれを事前に察知するように不自然でないような動作でするりと身を消してしまうのである。最初こそタイミングが悪いのかと思ったが、それが何度も続くと避けられているとしか思えない。
とその時、がやがやと辺りが騒がしくなった。
他のクラスの授業が終わったからだろう。入り口の辺りに沢山の人影が見てとれた。いつも通りの賑やかさが広がる最中、その人だかりの中からリイチ達の姿を見つけてやって来る生徒達が何人かいた。
「あ、コウ先輩。もー聞いて下さいよー」
言いながら不満たらたらで近寄って来たのはナルミである。
その手にはしっかりと大盛りに盛られた食事を載せたトレイが掴まれている。
ここは食堂。
そして今は昼食の時間。
一通りの授業を終えて、今日は残すところ午後の補習があるだけだった。
ナルミ以外にも二学年の生徒がリイチ達のいる場所へとやって来た。一番大きなテーブルを陣取り、各々は席につく。
箸を持ち、いざ食べ始めるのかと思いきや口に食べ物を運ぶよりも先に言葉が紡がれる。紡ぐナルミの顔は唇を尖がらせて幼子のような不機嫌さを見せていた。
「今の今まで天文学だったんスけど、シェルセンセーがヒステリックでついには暴れて大騒ぎだったんですよー。その前の授業だって最悪だったし…。今日全然いいことなしっスよ」
「そーそー。なんか皆機嫌悪かったんだよなー。触らぬ神に祟りなしって感じ?」
「だよなー、エイジ」
性格が似通っているせいか、ナルミとエイジは意気投合して今日の一日の愚痴を口にし始める。溜まりに溜まっていたのだろう。愚痴は延々と続く。
「そっちも同じだったわけ?」
とリイチが怒りを通りこして少し呆れるようにして尋ねると、
「どのクラスもそうだったんじゃないの」
とルイが淡々とそれに答えた。
その言葉に、ここにいるメンバー内の何人かの視線が合わさりあう。それは意思疎通をするような作業のようでもあった。
愚痴を言い合っているメンバーを残して、その場にいた全員が重い溜息を零す。
全くもって生徒というのは弱い立場でしかない。
教師達にも色々思うことがあるというのは分かるが、そのせいで八つ当たりされるというのはたまったものではないというものだ。
「コウ達のクラスだったんだろう、その事件は?」
ユヅキが水を一口飲み、尋ねた。
「あ、ああ……」
口を濁すようにしてコウは頷く。
「〈人殺し〉…っちゅーのはどういうことなんやろうな…?」
キョウの静かな問いに、誰も答えることはできなかった。
たった一日で広まったユキの新しいあだ名――〈人殺し〉。
ただ生徒がつけたものなら信憑性はないのだが、その話題を口にしたのが魔法協会の偉い人達となると話は別である。つまり、実際にその事件があったということになるからだ。教師達の様子が今日一日おかしいのもそれを真実だと裏付けているとしか思えない。
「さあ、俺達には何とも…」
さっぱりだ。とシュリンはおどけて言ってみせる。
「とても先生達には聞ける様子じゃないしね」
「聞いたとしても答えてなんてくれないだろう」
「同感」
三学年組が揃って二度目の溜息を零す。
「……結局分かったのはマーリン先生に関する確かな情報が一つってことだけか…」
ユキがアクトパス達魔法協会の人よりも歳をとっているということ。
そして、クラムという協会に属する人物の担当教官であったということ。
おそらくレイ達ここの教師もユキの教え子であったのだ、と雰囲気から察してリイチ達はそう判断していた。
「…首にはできても存在を裁くことにはできない……か…」
あの時の言葉を繰り返すコウ。
その意味はまだ分からない。
ユキが教師の古株であるという新しい情報を知った代わりに、またユキに関しての新しい謎が現れていた。
「〈人殺し〉というあだ名もだけど、あいつ…本当に何者なんだろうね…」
只者ではないとふんではいたが、もしかしなくても自分達が想像しているよりも遥かに違った存在ではないかと今では思えてしまうくらいで。リイチは言いながら顎に手を当てて考え込む。
そんな中で。
「―――マーリン先生、なんだか元気なかったよな…」
ぽつり、と呟いたカズキの言葉に、それまで口々にざわめいていた彼らは虚をつかれたように黙りこむ。
「……大丈夫なのかな、マーリン先生…」
リクもまた、カズキの言葉と同じくしてぽつりと呟きを漏らした。
その二人の言葉に戸惑いが広がる。
「元気…なかったか……?」
「…いや、俺にはいつもと変わんないように見えた…けど……」
「まあ、話し掛けることもできなかったってのを考えればいつもと違ったのかも…」
カズキとリク以外はあまりユキの様子の変化に気付いていなかった。
彼ら二人がそれに気付いたのは、人一倍人の気持ちに敏感だからに他ならない。そんなカズキ達だからこそ、それに気付くことができたのだ。
「早く変な噂なんて消えればいいんだけどな……」
祈りをこめたようなカズキの言葉に。
誰も何も言えなくて口を閉ざす。
ただ全員が、頭の中で一人の女教師のことを思い浮かべていた。
塔の中にいる時もできるだけ教師と遭遇しないようにしていた私。
学園中に蔓延っていたぴりぴりした雰囲気も合って、近寄ったら最後だという考えもあったからかもしれない。
研究室と私室に誰も入れないように魔法をかけておいたけれど、夕暮れになってその魔法を解いた。さすがに明日までこのぴりぴりした雰囲気が続くのは生徒達には可哀想だろうと思ったからだ。本日、何度も困惑している少年達の姿を垣間見ている。
その、魔法を解いた一瞬後。
早々に私の部屋の扉を開けたのは、レイだった。
バンッ、と思い切り大きな音が響き渡る。
いつものように転移魔法を使わなかったのは、私の部屋に入れるように魔法を解いたものの、転移してくることに対しての防止魔法はそのままにしておいたからだろう。……反応が早すぎることから、かなり待ち構えていたことが伺えるが。
「ユキ! ようやく捕まえたわよ…っ!!」
ばたん、と扉を力いっぱいに閉めたとたん、それまで堪えていた――と思いたい――レイの憤りが爆発した。
秀麗な眉が吊り上がっていることから彼女が怒っていることがよくわかる。喰わせ者な彼女が素直にそういった感情を表に出すことは少ない。よほどキているということか。
「どうしてあの後誰も近寄らせようとしなかったのよ! …私だってユキがあんな事口外されて気分を害してないと思ってないわけじゃないけど、それでも何か言わせてくれたって良かったじゃない!」
ふかふかソファに座る私は何も答えない。
レイの罵声に神妙に眼を伏せて、紅茶をティーカップに注ぐ。
「それに少しぐらい弁解したっていいと思うの。だってあれは…、あの事件は別にユキが悪いわけじゃ……っ」
「………」
私は何も言わない。
ただ静かに、カップに注いだ紅茶にレモンを添えていた。
さすがに何も言おうとしない私に思うところがあったのか、レイは険悪に目を細める。
「ユキ、ちゃんと聞いてる…?」
眉をぴくりと震わせて、レイは私にゆっくりと尋ねた。
紅茶を注いだカップの一つをレイの方に差し出して、ソファに座ることを手だけで勧める。
「………」
何か物言いたげではあったが、レイは大人しく私と向かい合うようにしてソファに座った。
「高級のだから美味しいわよ」
「――ッ! ユキ、しっかりと聞いてちょうだい!!」
「あら、聞いてるわよ」
もう少し砂糖いれようかしら。と独り言を零しながら私は味の調節をする。
あくまでレイの話を真剣に聞こうとしない――ように見える――私に、レイはキッと目をつり上げた。
「お願いだから真剣に聞いてちょうだい!」
「…これでも真剣に聞いているんだけどね。…まあそう見えなくてもおかしくないし、悪かったわね」
と、悪びれずに私は詫びた。
「で、飲まないの?」
「………」
「レイ?」
「……飲むわ。…もう…っ」
ふうっと大きな溜息を零して、レイは一度大きく息を吸い込む。そして苛立ちを少し落ち着かせてからその息をゆっくりと吐き出して、私が差し出したカップを手にして紅茶を口にした。
一口飲み、少し息をつく。
ゆっくりと味わうように。――同時に気分を落ち着かせるように。
カタンと小さな音をたててレイが一度カップをテーブルの上に置いた時を見計らうようにして、私は彼女に声を掛けた。
「落ち着いた?」
「…ええ。何だかヒス起こしちゃったみたいね、私。悪かったわ…」
「いいわよ、別に。それだけ真剣に私のことを考えていてくれたってことでしょう? それはとても嬉しいことだもの」
「…ユキ……」
しっとりとした雰囲気が私達を包む。
口を閉ざし、レイは飲みかけの紅茶を飲み始めた。
私もまた高級の紅茶をゆっくりと味わう。『高級』とつくだけあって確かに美味しといえた。最も、いつも飲み慣れた紅茶の方が好きなので、こういったものは時々飲むから美味しいと思うのかもしれないが。……余談だが、これは昨日会ったクラムからのお土産である。彼は上品で美味しいものを見つけるのがとてもうまい。たまに頂戴するお土産は未だ嘗て外れたことが一度としてない。
紅茶を静かに飲み続ける私とレイの間に、会話という会話はなかった。
沈黙。
けれど、先程までのピリピリ感がなくなったこともあり、居心地の悪い沈黙ではない。
そしてレイが紅茶を飲み終えた時、彼女は何か決意するようにその瞳に強い光を宿した。
「―――ユキ先生」
と。
久々のその呼び方に、私はきょとんと瞬きをしてレイを見遣る。
レイが私をその呼び方で呼んでいたのは、彼女が学生の時以来なのでもう何百年も前のことでしかない。……ただその後に、一度だけ今と同じように私をその呼び方で呼んだ時があった。それは――あの事件の直後のこと。
「……私、ユキ先生にはずっと教師を続けていてほしいんです…」
「………」
「……あの事件で責任をとって教師を辞めて…。あの時どれだけ悔しかったか分からない…。だから……今回無理にでも教師をお願いした時、本当は強引に断ることもできたのに…それを引き受けてくれて、私……嬉しかったんです…」
一つ一つの言葉を選ぶように、レイは静かに言葉を続ける。
懇願するようなその言葉。
私はその一語一句を聞き漏らさないように、静かに耳を澄ます。
「今の私があるのも、みんなユキ先生のお陰で……。私、何を犠牲にしてもユキ先生を傷つける存在は許せない……」
「私なんかの為に何かを犠牲にする必要はないのよ?」
「『なんか』なんかじゃありません…っ!」
「でも、レイが何かを犠牲にすると私が悲しいわ」
「――ッ…!!」
はっとレイが顔を上げて私を真っ直ぐに見る。
私は、レイを真っ直ぐに見つめ返し――少しだけ笑みを浮かべた。
「私に残された大切なものがあるとしたら、それは大切な教え子達だもの」
どこまでも静かに私は言う。
そう――私に残された大切なものがあるとしたら、教え子達くらいなもので。
教え子のレイ達が幸せでいてくれれば、それだけで私には十分過ぎることなのだ。
私に流れる時間はレイ達とも、誰とも違う。長い長い時を生き、私にはもう自らに望むものなどありはしないのだから。
そのレイ達に対する私の思いは、親が子供に抱く思いに似ているものなのかもしれない。
「……それで、魔法協会からは何か言われているんでしょう?」
「………やっぱり聞くのね、それを」
レイの口調が戻る。
いつもの彼女の笑みが、そこにあった。そこには既に先程までの少女時代のような幼なさは、ない。
私も苦笑を零す。
「だって私、抜け目ないもの」
「…全く、ユキには敵わないわ」
「そう? 私もここずっとはレイにやられっぱなしだもの。どっちもどっちじゃないかしら」
「いいえ。だって最後にはいつも―――ユキにしてやられるんだもの。まだまだよ、私なんて」
「年季が違うもの」
「…それもそうなんだけど……。でも悔しいのよね」
いつまでたっても子供扱いされているみたいで。
眉間に小さな皺を寄せて膨れるレイからは、本当に悔しいと思っているのが窺える。
「……はい、これが上からの令状よ」
レイはしまいこんでいた一枚の封筒を差し出す。
その封筒の口の部分に押されているのは紛れもない魔法協会の印。
魔法関係者にとっては何よりも重要とされる封書である。
封筒を受け取ろうと前に出した私の手を、レイは封筒を持っている方とは逆の手で掴んだ。
「……私は最後まで諦めないつもりだから」
ぎゅっと力強く握りしめて、レイは言う。
そして、静かにその手を離した。
私は、受け取った封筒を静かに見つめたのだった。




