79、幸せの予感
「ティハヤ!」
夏の残りの日差しを浴びながら、久々に訪ねてきたベヘムに千早は微笑みを浮かべ手を振る。護衛なのか数騎の兵士が付き添っている。
「ティハヤ様、お部屋に茶の準備をしておきます」
馬影を確認したジンは、今まで通り変わることなく、落ち着いた声音で話すと当然のように勝手口から台所へと消えた。人影に一度は警戒体制となった兵士たちも、自分達と同じ制服を確認して、個々の仕事に戻っていく。
「久しぶり。元気だった?」
「ティハヤも元気そうで良かった」
夏の間の労働で日焼けした顔を見合せながら、二人は再会を喜ぶ。暑さを避けるように日陰で眠っていた犬たちも、まとわりついてベヘムを歓迎している。
ベヘムの陰に隠れるように佇んでいたアリスが、犬たちに押されてそっと前に出てきた。
「……お久しぶりです」
「ご無沙汰しております」
驚きながらも挨拶を交わす。気まずい雰囲気が流れる二人の間には、この数ヶ月の間にかなりの変化があった。
「お身体はもう大丈夫なのですか?」
「はい。お陰さまで領主館の皆様も良くしてくださいます」
当然のように両ひざをつき、神に祈るがごとく両手を組んだアリスが、千早に向けて深々と頭を下げる。貴族の令嬢としての外出着がふわりと風に揺れる。
上質な布地に手を添え、アリスに立って欲しいと頼みながら、千早は今日までのことを思い出していた。
千早が神の間から戻り目覚めたときには、アリスから中の人は既に消え去っていた。もちろんアリスに宿った不思議な力も喪失していたが、それでも領主は元聖女の身柄を欲していたのだ。
数日後、目覚めたアリスは領主の申し出を受けて養女となることを快諾。今では貴族の一員として過ごしている。
イスファンやラッセルハウザーからの報告では、行儀見習いと平行し、アリスの嫁入りの仕度も急速に進んでいるらしい。
様々な条件をクリアし、選ばれた政略結婚の相手はアリスよりも十歳ほど上の年の離れた貴族で、慎重な性格と穏やかな気質で知られる女王派の一員とのことだ。
法王に認められた聖女を、力を失ったとはいえ、野放しにするわけにも行かない。多少何かやらかしても害の無さそうな所に放り込むんだろうと、偶然共に話を聞いたエリックは皮肉に笑った。
「それは良かったです。魔物も最近はあんまり出ないと聞きますし、ここまでの道中は安全でしたか?」
「兵士の人達に守ってもらいましたから。今度、行儀見習いで東の女王宮に行くことになりました。今日はそのご挨拶をしに……」
「そうですか。それはわざわざありがとうございます。外で立ち話もあれなので、とりあえず我が家へどうぞ。ベヘムも」
「おう! 喉渇いた~」
「ジンさんがお茶を準備してくれているよ」
クスッと笑った千早に導かれるまま、二人は家へと入っていった。
「あの、ティハヤ様、お聞きしたいことがあるのです」
当たり障りのない話をし、そろそろ帰ろうかとベヘムが思い始めた頃、思い詰めた表情を浮かべたアリスが口を開いた。
「何でしょうか?」
貴族となったアリスに今までのような口調では話せないと、距離を置いた他所行きの言葉使いで返答する。
「新たな神、邪なる魔神がティハヤ様を気にしているというのは真でしょうか?」
「ヨコシマ?」
「人を害する魔の元締めにして、黄昏の守護者。邪神にして破壊神、死神でもある魔神です。邪と表すのも憚られます」
「…………ルト様は」
「ティハヤ様! かの神の名を口に出してはいけません! 世界に禍をもたらします」
アリスはその名前を聞いた途端、血相を変えて叫ぶ。過剰とも言えるその反応に驚きながらも、千早は大人しく「魔神様は」と言い直した。
「悪い方じゃないよ。魔を統べるとは言ってたけど、それも魔を統治して人の世と分ける為っぽかったし」
「魔がどれ程危険なものか、ティハヤ様はご存じないからそんなことを言われるのです!
神殿も魔と魔神を邪悪と認定しました。それをどうかお忘れなきように」
咎めるアリスをベヘムは不愉快そうに見ているが、元聖女にして現領主の養女では下手な事も言えないと、頬の内側を噛み口をつぐんでいた。
「…………私はこの世界の人間じゃないから、そういうのはよく分からないよ」
「ですがティハヤ様はこの世界で生きておいでです。ならば世界の理には従って頂かなくては」
「神様……オルフェストランス神も魔神様も、女王様もラッセルおじさんも、私にとってはみんなおんなじ。もちろん、アリスちゃんもね」
「同じ?」
「私とは異なる存在」
端的に表現され絶句するアリスに向けて、クスッと笑いながら千早は続ける。
「みんなが私を異物だと思うように、私にとっては世界全てが異物。
その中で仲良くなった人や気になる人がいるだけ。
アリスちゃんが誰に何を言われて今日ここに来たかは知らないけど、私はここから動かない。誰の味方にもつかない。結婚もしない。子供も作らない。
静かに時が過ぎるのを待っているだけの、ただのモノだから、もうさ、放っておいてもらえないかな?」
「ティハヤ様、どうして」
「私の結婚話が出てるんでしょう。アリスちゃんはその話をしにきたんじゃないの?」
近くの貴族たち連名で女王に上奏された千早の婚約者の選定。無論それは、怒り狂った女王により即座に却下された。だが、もしかしたら直接何か言ってくる馬鹿が出るかもしれない。そう危惧したラッセルハウザーにより、マチュロスにもその一報はもたらされていたのだ。
この際に「直接動いた馬鹿はこちらで始末するし、使者については好きにしてよい」との女王の伝言と許可証もイスファンの所に送られてきていた。
「……ティハヤ様、それはあの、その」
しどろもどろになり、視線を泳がせるアリスに向けて、苦笑を浮かべる。
別れの前に是非共に街の散策をと誘う予定だったアリスは、どうやってこの後に繋げようかと必死に考えていた。千早が街にさえ来れば「偶然の出会い」を装った見合いの準備は既に整っていた。
魔神に愛される落ち人を人の世界に繋ぎ止めるには、それ以上に愛する相手を宛てがえばよい。そう考える貴族も多かった。
「もう遅いよ。急いで帰らないと危ないんじゃないかな?」
千早の言葉を聞いて、台所で控えていた兵士たちがアリスへと退出を促す。速やかに馬へと乗せられて、吊り橋砦へと護送されていくアリスを、二人は何とも言えない表情で見送った。
夕刻、ぼんやりと牧草地を見つめる千早にベヘムが近づいてきた。
「……アリスちゃん、大丈夫かな」
「大丈夫だろ。兵士さんたちも護衛についてるんだから。それに何もせずに街に帰すようにってティハヤが頼んだんだ。無事についてるよ」
「いや、そうじゃなくて、領主様に怒られてないかな」
「怒られても気にしないだろ、強そうだもんな、あの聖女さま」
「ならいいんだけど」
互いに目を合わせることはなく、並んで座ったまま言葉を交わす。
夕陽の最後の一筋が牧草地を照らすころになって、ベヘムが意を決して話し出した。
「なあ、ティハヤ、覚えてるか?
前にさ、いつか幸せが何だか分かったら教えるって話したよな」
そっとベヘムの方を向いた千早は、首を傾げながらも頷いた。
「俺の幸せは、この景色なんだ」
「景色?」
「うん。山羊がいて、犬がいて、一面に牧草が広がっている。こうしてゆっくり夕陽を見ながら、友達と一緒に風を感じることが出来る。
それが俺の幸せだ。
もしこの時間を守るためなら、俺は喜んで戦うしどんなに嫌な仕事でもする。
廃棄地に行って街で魔物を近くで見て、何にもないこの景色が大事だって思えたんだ」
「そうなんだ……それがベヘムの幸せなんだね。
私ね……、あ、ベヘム、これから聞くことはみんなにナイショにしてくれる?」
何かを話し出そうとして躊躇した千早は、ナイショね、約束だよと口の前に指を立てる。
「あのね、アリスちゃんと会ったあの時、神様に家に帰すって言われたんだ」
「家に? 帰れるのか?!」
驚いて腰を上げたベヘムの口を押さえながら、千早は周囲に視線を走らせた。
「ただ……」
「ただ?」
「死ぬの」
「誰が」
「きっとみんなが。だから帰らないで欲しいって頼まれたんだ」
グルリと周囲を見回した千早は、哀しげに微笑んだ。
「でもティハヤは家に帰れるんだろう? なんでまだここにいるんだ?? 俺たちのことなんか気にするなよ」
「気にするよ。だから帰らないって答えた」
「なんで? ティハヤ、帰りたがっていただろう」
「今も帰りたいよ。でもさ、みんなが死ぬと分かっていて、それでも帰りたいとは言えなかった。
今の私の幸せの中に、きっとみんながいる。それが当たり前だから分からないままだったけど、失うことと引き換えに私の望みが叶うと言われてやっと分かったんだ」
喜んでいいのか哀しむべきなのか分からず、ベヘムが力尽きたように座り込むのを確認して、千早もまた腰を下ろした。
「私は誰かと結婚するつもりもないし、子供を求める気もない。だけど絶望して静かに時間が過ぎるのを待つのは止めようと思うんだ。さっきは下手に言うとアリスちゃんに食い下がられそうだから、そうは言えなかったけど」
「家族をいらないなんて、そんな悲しいこと決めてんのかよ」
「私にとってはみんな異なる生き物なんだよ。でもイスファンさんたちはいい人だし、ベヘムは友達だと思ってる」
どう話そうかと悩む千早は大きく深呼吸をした。
「もし万一、今、私が誰かをいいな、素敵だなって思ったら、きっとラッセルおじさんやイスファンさんたちが私と暮らすようにってその相手に強要すると思うんだよね。その人の意思なんて関係なしで、きっと無理矢理にでも、マチュロスに放り込みそうな気がしてるんだ」
「あー……否定は出来ない、かな。ティハヤを泣かしたら即座に切られそうだし、おっさんたちはティハヤが笑顔を浮かべるためなら人一人くらい余裕で差し出しそうな気がする」
だよねーと力なく笑う千早は、落ちつかなげに拳を開いたり握ったりを繰り返している。
「だから私が好きになるのは、きっとそういうのも全部利用してでも好きだって人なんだと思う。今はそんな風に誰かを思えないから、家族は望まない。でも死んだように生きるのは止めるよ。きっとそれじゃダメなんだと思うの。
少しずつでも出来ることをやってみようと思うよ。ただまだ恥ずかしいし、みんなには内緒ね。
いつか私が幸せを自覚したら、みんなが安心してくれるといいな」
照れたように笑う千早の顔を見つめたベヘムは無言でコクコクと頷くことしか出来なかった。