78、選択
「すまないことをした」
千早の額に添えられるように、当てたままだった指先が一度光る。
「神力?」
エリックがその輝きに反応すると同時に、千早が小さく呻いた。
「……ティハヤ、起きたのか?」
壁際へと寄っていたベヘムが身を乗り出す。その声に誘われるように千早は薄く目を開けた。
「あれ、アリスちゃん……」
ぼんやりとした声音でアリスの名前を呼んだ次の瞬間、驚きに飛び起きる。
「アリスちゃん?! 目覚めたの?」
「私はアリスではない。すまなんだな、幼子よ。此度はこの世界のゴタゴタにそなたの運命を巻き込んでしまった」
自責の念も露にしたまま頭を下げるアリスであってアリスではない「中の人」を千早は見つめた。
「誰ですか?」
「我はオルフェス……ただしくは弟神に負け吸収された兄神の残り滓だ」
「オルフェス? え、この世界の神様はオルフェストランス……」
この世界の神の名を口にした途端、室内に光が満ちる。眩しさに驚き、千早は反射的に目を閉じる。
閉じた瞼を白く染め上げるほどの光が収まったのを感じ、千早が瞳を開ければそこは漆黒の部屋だった。
「神の間?」
一度来たことがある風景に千早が呟くと同時に室内に怒りに満ちた少年の声が響いた。
「…………ようやく捕まえたぞ。オルフェスの残滓め」
「神様だ」
「お久しぶりです、千早さん。僕の名を呼んでくれてありがとう。お陰でこっちに呼び寄せられました。
でも挨拶はあとにさせてください。今はそのゴミを片付けるのが先です」
一瞬だけ微笑みを浮かべたオルフェストランスは、アリスの形をした神力を睨み付ける。
「悠久の時を経て、久しぶりに相間見えられたというに、何をそんなに慌てておるのだ。ランスよ、そなたの性急さは変わっておらぬようだな」
話しながらアリスの形をとっていた神力は、ゆらりと力を揺らし、本来の形へと変貌を遂げた。
金髪碧眼の長身の青年。見た目の割に落ち着いた雰囲気はまるで気難しい老人のそれだ。
いっそ周囲が物理的な重苦しさを感じる程、厳格にして実直。決して浮わついた行動など許さないどころか、心に浮かベることすら咎められそうな雰囲気をまとっている。
非難するように歪ませた表情からは、質実剛健にして独立不撓を絵に描いたような空気を漂わせていた。
「兄上……」
あまりに久しぶりに見る兄の姿にランスは動揺を隠しきれていない。
「ほう、我をまだ兄と呼ぶか」
鼻を鳴らし嘲るが如く腕を組むオルフェスは、怒りに満ちた瞳を弟神に向ける。
「我を吸収してまで求めた異界よりのリソースで、この世界は破綻寸前まで追い込まれておる。これがそなたの望んだ未來だ。満足か?」
「違う! この世界は少し成長が遅いだけだ!
だからリソースの返済が少し遅れて……」
「愚か者が。そのような言い訳が通じると思うか。そもそも、リソースの為に運命をねじ曲げられた異界のモノになんと詫びるつもりだ」
「僕は異界では望めない程の、王族すらも凌駕する幸せを落ち人たちに与えた」
特大のため息が兄神から漏れる。
「幸せか。彼らが幸せならば、我は今、これほどの力を持てはしなかっただろう」
「力? お前に力なんかあるもんか。僕が少々慌てて聖女に力を与えた。そのどさくさに紛れて、逃げだした兄神の残滓のくせに偉そうに」
「確かに我は残滓に過ぎなかった。だがもう違う。
世界に降り、界の悲鳴をこの耳で聞いた。
リソースとして消耗されるだけであった客人たちの怨嗟を聞いた。
界の歪みと戦い、それを正しながらも、魔へと心を添わせた。
堕ちた客人はただ元の世界への憧憬を募らせ、この世界に嘆き死んでいった。
その嘆きが界を変えるほどのエネルギーを得たのだ」
「何を言っている」
「オルフェストランスよ、この世界の唯一神よ。今、我は汝に名乗ろう。
立ち会いは異界よりのお客人、幼子に頼もうぞ」
「え……あ、はい」
千早へと視線を向けて話した兄神へ、驚きながらも千早はうなずいた。
「我は神界大戦にて弟神に敗北し、その身を吸収された兄の残滓である。そなたはいつも輝きばかりを追い求め、影を見ることもなく、闇を受け入れることもしなかった。故に我がその空白を埋めようぞ。
我は地上にて落ち人の嘆きを聞き、新たなる神格を手にいれた。今後は統べるものなき、寄る辺なき混沌を守護せん。
我は【魔神ルト】魔を統べる神なり」
神の名乗りを受けて、世界が変容を果たす。それを体現するかのように、青年の姿もより禍々しく変化していった。
弟神より一段濃かった黄金色の髪は腰まで伸び、根本から遠くなるにしたがって銀から漆黒へと色を変える。
側頭部から伸びる雄牛のような角は黒く血管が這うかの如く金の筋が描かれていた。
「ばかな! 魔を統べるなど不可能だ。あれは僕らの手に負えない!!」
その兄の変貌に、神格が変わったと確信しながらも受け入れられずにランスは怒鳴る。
「その通りだ。魔の根源は異界の嘆きと怒り。根本が違う力だ。我らの神格で統べられるものではない」
死人のように白い肌に両眼からは紅と黒の二色の涙を流したまま、魔神ルトは冷静に語っている。
涼やかだった碧眼は、赤く染まり輝いている。
「それにしてもずいぶんと禍々しくなったな。
幼子よ、驚かせたか? すまぬな。そなたは……そなただけは決して傷つけぬ故、怯えんでくれると嬉しく思う」
自身の変容を確認した兄神は、苦笑を浮かべつつ千早に話しかけた。それに驚きが一周していっそ平静になった千早が首を振る。
「さて幼子よ。千早と呼んでもよいであろうか」
千早に名前で呼ぶ許可を求めた兄神は、律儀にも返事を待っているようだ。
「はい、あの、オルフェス様? 魔神ルト様?」
「ありがとう。さて千早よ。そなたが望むなら、我はそなたを地球に帰そう」
「え……」
「何を言ってるんだ!!」
あまりの提案に千早は固まり、オルフェストランスは怒号を上げる。
「え、だって、私が帰るのは無理だって。神様が……魂だけしか無理って言って…………。
あ、もしかして魂だけ?」
「身体もだ。魂も身体もそのままに、刻こそ戻せぬが、そなたのままに故郷に帰そう」
「そんなこと出来るはずがない! どれだけの力が必要だと思っているんだ!!」
掴みかからんばかりの勢いで否定するオルフェストランスを、ルトは無表情で見つめている。
「界の存続を望むならば、出来ぬだろう。だが我の力の源は落ち人たちの願いだ。彼らの望郷の念が千早を無事に家へと帰そう」
事実だけを語る口調の魔神の言葉に、オルフェストランスは絶句している。
「あの、ごめんなさい。どういうこと?」
「この世界に落とされた歴代の客人たちが纏ったリソースがあれば、千早ひとり元の世界に帰すことなど容易いこと。そう申しておる」
「でも、リソースが無くなると大変なんじゃ」
「優しいな。だがそれはそなたが気にすることではない。この世界が負うべき業だ」
ポタポタと雫となって垂れた涙は神の間の床を焼いている。白煙を上げて少しずつだが確実に床を消滅させている魔神の涙は、創造神の一柱であったオルフェスの世界に対する惜別の念であろうか。
それでも千早へは穏やかに微笑んで見せた魔神は、気にすることはないともう一度言い聞かせた。
「そなたはそなたの幸せを求めて良いのだ。長く苦労をかけてすまなかった。
さあ、家へ帰ろう」
そっと手を差し伸べたまま微笑む魔神を千早は見つめる。
その魔神を滅ぼそうと力を振るったオルフェストランスだったが、簡単に無効化されてしまった。
「魔神ルト! この世界のことなど気にしないというのか!! リソースを引き剥がせばどうなるか分かっているだろう!!
神としてこの世界を滅ぼす選択をするつもりか!!」
魔神を睨み付けた表情のまま、千早に顔を向けたオルフェストランスは、千早の前に世界を写し出す。魔神への影響を及ぼせないと分かり、説得の矛先を変えたのだ。
「千早さん! 見てくれ!!
この世界はそんなに嫌ですか?
彼らを殺しても当然だと思えるのか?
犬は?
猫は?
千早さんの幸せの為に働く罪人どもは?
近隣の住人たちとだって、最近は仲良くしていただろう!!
それを全て滅ぼしてまで、君は家に帰りたいのか!!」
千早の目の前に映し出されたのは、マチュロスの情景だった。朝を迎えて忙しそうに動き出した風景が目の前にある。犬たちは千早を探してウロウロとし、猫たちはマイペースに眠っている。
居残り組の兵士たちは畑に水を撒いている。
「君を守るため、君の大切な友人を助ける為に、命をかけた人々を君は殺すのか?」
情景が変わり、ベッドで眠る千早とアリスを心配そうに見つめるロズウェルたちが映し出された。
「みんな……」
「悩むことはない。千早よ、そなたは家に帰るだけだ。本来あるべき地へ。辛いならば記憶も消そう」
「駄目だ! 絶対に駄目だ!!
千早さん、お願いだ。帰らないでくれ。帰りたいと言わないでくれ。その魔神は本気で世界を滅ぼしてでも、君を地球へと還すだろう!!
けれどそれをされては、僕の世界は滅んでしまう」
悩むように二柱の顔を交互に見た千早は、強く瞳を閉じた。
「…………私が帰ったら、この世界は滅びるの?」
千早は絞り出すような声で魔神に問いかける。
「ああ、そうなるだろう。元々自力では存続出来ない世界であった。当然の結末だ。そなたが気にすることではない」
「私がこの世界に残れば、彼らは生きられるの?」
風景を指差しながらオルフェストランスに問いかける。
「そうです。魔の件もあるし、順風満帆な豊かな生活は約束できないけれど、それでも僕の力の及ぶかぎり、必ず世界を存続させてみせます」
長い長い沈黙のあと、千早は掠れる声で望みを口にする。
「…………それでも、私は家に帰りたい」
堪えきれなかった涙が一筋、千早の頬を伝った。
「あい、分かった。では手を」
差し伸べられた手を取ろうと一度は伸ばしかけた指先を、千早は逆の手で押さえた。
「私は帰りたい。でも今はその時じゃない。
だから…………」
ポロポロと涙を流しながら千早は必死に言葉を紡いだ。
「私は帰りたい。今すぐにでも家に帰りたい。
みんなに会いたい。この世界なんてどうなったっていい。
でも、でも、だからと言って、ベヘムやみんなが死んでもいいなんて言えない。絶対に言えない。
だからいつか私が死んだら、迎えに来てくれるって約束したアマテラス様を待つ……よ」
「千早さん!! …………うわっ」
満面の笑みを浮かべたオルフェストランスが、千早を抱き締めようと駆け寄ってくる。走り寄る足を払い地に伏せさせたルトが気遣わしげに千早を見つめた。
「良いのか?」
「良いわけないよ。でも他に答えようがないじゃない!
神様はズルいよ! こんなの、私が我慢するしかないじゃない!!」
怒りを爆発させる千早を二柱は見つめる。
「もういいでしょ! 元いたところへ戻してよ!!」
「嘆くならばやはり……」
「うるさい!!
私は私の幸せの為に他人を犠牲にするつもりはないもん。
仮令忘れたとしても、この心のどこかに、絶対に何かトゲみたいなものが残るもん!
だから私は帰らない!!
この世界でそれなりに幸せに生きて、いつか迎えが来たときに、笑って還ってやる!!」
「そうか……」
「千早さん……」
涙目のままギリッと神々を睨み付けた千早に、二柱は自然と頭を下げていた。
「千早よ、汝がこの世界で生きるならば、魔は我が統べよう。今までよりは暮らしやすくなるはずだ」
「兄上が……魔神が協力してくれるなら、魔へと対処が減った分、僕は世界の建て直しに注力します」
「……だがもしも、そなたがこの世界に絶望し、帰りたいと望むなら、我が真名を呼ぶがよい。仮令世界の裏側からであっても必ず駆けつけ、我が存在を賭けて、そなたを必ず無事に還そう」
「真名?」
「そう、我は魔神ルト、魔を統べる神【オルフェス】なり。
世界よ、認知せよ!
ここに新たなる神は誕生した。
人を害し、黄昏の世界に君臨せしは魔神ルトなり。
我が消滅を望めるのは異界よりの客人のみなり」