72、ちょっと行ってくる
千早が翌日戻ってきたエリックから、豹変したお嬢様の状況の説明を受けてから一ヶ月がたった。
その間にラッセルハウザーは例の貴族たちを引き連れて西の領地に戻っていき、マチュロスは束の間の平和を享受していた。
「よ!」
「あ、いらっしゃい」
メェェェェェ!!
ワンワン!!
山羊と犬たちの大合唱をバックに、片手を挙げて挨拶してきたベヘムを見つけた千早が畑から立ち上がる。
「久しぶり」
「おう! また世話になるよ」
「うん。食べてくれないと草ボーボーになっちゃうから、助かる。そろそろ道だけでも草刈りしようかって話してたんだ」
海の方角に向き直った千早たちの目の前には、広大な草原が広がっていた。千早が牧草の種を撒き広げた場所の、既に数倍の広さまで緑の絨毯が広がっている。
子供の腰程に育った牧草は今日も穏やかな日を浴びて輝き風に凪いでいた。
「あはは、来るたびにすげぇことになってるな。もういっそのこと、ここで牧場やればいいんじゃないのか?」
「牧場?」
「そうだよ。こんだけ広けりゃ牛とか豚とか馬とかさ、手広くやっても大丈夫だろ。人手ならいるんだし」
そう話しながら黙々と働く兵士たちにチラリと視線を向ける。それに気がついた兵士のひとりが、曲げ続けて痛む腰を伸ばしつつ立ち上がった。
「あのな、ベヘムよ。お前、俺らを何だと思ってんだよ」
「んー? 農夫?」
「ゴラ、俺たちの何処が農夫だ」
「だってよ、明らかーに剣よりも鍬とか鎌のほうがおっさんたち似合うぜ? 特にトティのおっさんは、生まれてからずっと畑一筋! 頑固農夫って感じだ」
「ほほう……」
冗談半分に笑うベヘムに、こちらもじゃれているのが明らかな表情で、わざと拳を鳴らしながらじりじりと近づく。
メェ。
メェェ。
ウォン!
メェェェェ。
そんな楽しそうなベヘムを横目で見ながら、山羊たちは我関せずと牧草地へと一直線に向かっていった。
夜、春になって作られたベヘム用の天幕の前で千早とベヘムは座っている。
二人の前には焚き火があり、満天の星空の下、それぞれの手にはジンが置いていった安眠作用があるとされるハーブミルクティーのカップが握られている。
「ティハヤ……」
「ん? 何、ベヘム」
ぼんやりと海の方を見ていた千早がベヘムに顔を向ける。呼び掛けたベヘムは、焚き火をじっと見つめていた。
「……あ……うん。その……」
「どうしたの? 珍しいね」
珍しく言いよどむベヘムに千早は不思議そうな表情を浮かべる。
「あのさ……これから、ここに来る回数、減るんだ。でも、何かあった訳じゃない。だから心配しないでくれよ」
「え、何で?」
「村……、あ、いや、三又村じゃなくて、トーパ村のほうなんだけど、あっちに残った山羊も連れて、廃棄地にある草原に放牧に行くことにしたんだ」
ぐっと力を込めてカップを握ったベヘムは、千早に向けて笑顔を浮かべる。
「心配ない。大丈夫だ」
「でも、廃棄地が危ないから、ベヘムはここに放牧に来たんだよね? なのになんで」
「…………俺は一番最後まで廃棄地に放牧に行ってて、土地を知ってる。ここはもう廃棄地じゃないけど、防衛砦の先にある廃棄地に一番近い村はトーパ村だ。だから」
「だから?」
「色んな土地で、魔物の被害が出てる。南にある法王領との行き来はとうとう無理になったって聞いた」
「聞いてる。東のラッセルハウザーさんや女王様とは北の穀倉地帯経由で行き来出来るから問題ないってイスファン隊長が話していたよ」
「うん……今はまだ連絡がつくし、南に比べればここいらへんは魔物の被害も少ない。でもここより西の廃棄地には結構魔物が巣くってるって噂だ」
「ロズウェルさんが闘ってるって聞いたよ」
「うん、聖女アリスと一緒に魔物を減らすために廃棄地の奥に進んでるらしい。近々大規模な討伐隊が組織される」
「でもどうしてそれで、ベヘムが放牧にいくの?」
心底心配そうな顔で問いかける千早の腕に、そっと手を添えてなだめる様に撫でる。
「大丈夫、俺が行くところは浅い所だけだから。兵士だけじゃ手が足りないんだ。誰かが何も起きていない事を確認しないと。
大丈夫、廃棄地に入るのは俺だけじゃない。他の羊飼いも行くし、それ以外にも猟師だって山師だって入る」
「そんなの……そんなの危ないよ」
「うん、ほんとはさ、ティハヤには何も言わないで出掛けようと思ったんだ。
でも心配されるかなと思ってさ、一応、話だけはしておこうかなと。
そんな顔するなよ、大丈夫、俺はこれでも馴れてるし、山羊たちだって犬たちだってそんじょそこらの魔物じゃ怯えもしない」
炎に照らされたベヘムの表情は穏やかだ。
「みんな出来ることをしてる。俺も出来ることをしたいんだ。それにこれは、廃棄地に入っていた俺しか出来ない。
大丈夫だ。廃棄地に入るやつらには、連絡用の狼煙が渡されるし、もしもの時には近くにいる兵士の人たちが助けに来てくれる約束だ」
「でも……」
「だぁいじょうぶだって。
ティハヤは心配性だな。ちょっと行ってくるだけだって」
呷るようにカップの中身を飲み干したベヘムは立ちあがり、パンパンと尻を叩いて砂を落とす。
「じゃ、そろそろ寝るな。明日、帰るよ。山羊たちの中で身重と仔を産んだばかりのメスは三又村に置いていく。世話はばあちゃんに頼んだ。
廃棄地で珍しいもの見つけたら、土産に持ってくるな。楽しみにしててくれ」
お休みと声をかけて、天幕に潜り込んだベヘムを見送った千早は、それでも何かを話したそうにしている。声をかけようか、立ち上がって天幕に入ろうかと、何度か腰を上げかけてまた下ろす。
しばらく悩んでいた間に、千早ひとりが焚き火に照らされていることに気がついたジンが近づいてきた。
「ティハヤ様、どうされたのですか? 夜は冷えます。お話が終わったのならばお家へ……みんな待ってますよ」
ジンに言われて家を見れば、クンクンと鼻を鳴らす音がしている。扉を引っ掻く音と体当たりをしているらしき音もしてきて、千早は慌てて立ち上がった。
「コラ、みんな、騒がないの。夜なんだからね? うるさいよ」
扉の外から声をかけると、ピタリと暴れる音がやむ。それでも寂しげな声で控え目に鼻を鳴らしているようだ。
「…………お家でお休みください。カップはこちらへ。洗っておきます」
そっと千早の手からカップを受け取ったジンは優しく微笑む。
「ジンさん?」
「ベヘムからお聞きになったのですね?」
「知ってるの?」
「ええ、隊長からティハヤ様のお心が波立つ事のないようにと、伝言を頼まれております」
「伝言?」
不安そうな表情を浮かべる千早に、悩んだ末ジンはゆっくりと手を伸ばした。剣ダコのある分厚い手のひらがゆっくりと千早の頭を撫でる。
「大丈夫です。ティハヤ様のお友だちは我々が必ず守ります。
西の穀倉地帯から転地してきた廃棄地に通常配置される兵員に加え、ベヘムには我々の砦から一小隊がつきます」
「それって」
「ああ、ベヘムの為だけじゃありませんよ。さすがにそれは許されません。
……ロズウェルたちにも物資を届けなければなりません。それゆえに小隊が同行することになったのです。
廃棄地の草原では物資の受け渡しのために、到着の数日前からロズウェルが待機しています。だから大丈夫です。
安心してお休みください」
撫でていた手をずらし、千早の背中を押して向きを変えると、ジンはそっと続ける。
「大丈夫です。
このマチュロスもティハヤ様のお友だちも、安全です。だからティハヤ様はお心を痛めることなく健やかにお過ごし下さい。
今の我々はティハヤ様の為にだけある。イスファン隊長もロズウェル殿もみな、そのために心を砕いています」
それでも不安そうに振り返る千早をもう一度撫でるとおやすみなさいと囁いて、ジンはゆっくりと闇夜に溶けていった。