70、おねえさまはだぁれ?
お待たせしました。
三又砦に到着したエリックは、すぐに異変に気がついた。案内を待つまでもなく、すぐに事件が起きた場所を特定し、中庭へと急ぐ。
「神気……そして、リソースの……だが歪んでいる。これが最近報告があった歪みか?
この感じ、何処かで…………」
呟きながら地面に膝をつき、観察し続けるエリックだったが、しばらくして納得したのか立ち上がった。
「いたのか」
「ご挨拶だな」
振り向いたところで待っていたナシゴレンへと声をかける。
「隊長と殿下が待っている」
「殿下? グレンヴィルか?」
「バカな。やつに敬称などつけない。ラッセルハウザー殿下だ」
付いてこいと歩き出すナシゴレンにエリックは不快そうな表情も隠さずに後に続いた。
「来たか。入れ」
案内された一室には、ラッセルハウザーとイスファンが待っていた。既に人払いが済んでいるのか、護衛の姿がない室内にエリックが警戒心も露にする。
当然のように出入り口を背に立つナシゴレンに退路を断たれる状況のまま、示された椅子へと腰かける。
「それで見立ては?」
「状況の説明もないまま、何を話せと?」
「先入観はいらない。君はこの国一番と言われた異世界研究の第一人者だ。気がついたことを教えてくれ」
イスファンから命令を受けエリックを迎えにいった兵士はただ問題が起きたとだけ、エリックに伝えていた。その状況で魔術師がどう見立てるか、ラッセルたちは興味深く待つ。
「何故かは知らんが、この地に歪みが入り込んだ。それを神気が撃退したのだろう。普段は不気味なほどに凪いでいる神気がまだ荒ぶっている」
やはりと視線を交わすイスファンたちを見たエリックは続ける。
「実験場の周りが特に神気の動きが激しい。それで何があったんだ」
「穀倉地帯の貴族の娘がティハヤ様を襲った」
「な?」
「更にはその娘は黒い何かをティハヤ様に向けて打ち出した。咄嗟にティハヤ様を庇ったゴンザレスが負傷した。既に手当て済みだが、ティハヤ様が心を痛めていた。戻る前に診察しろ」
イスファンの命令を面倒そうに聞いていたエリックだったが、『何か』が気になったのか、頷くだけで答えに変えた。
「失礼致します!」
話が続く中に、一人の兵士が飛び込んでくる。
「何事だ!」
「申し訳ございません! ティハヤ様が」
無礼を叱責するナシゴレンに直立したまま謝罪するが、それよりも兵士の表情には焦りの色が濃かった。
「ティハヤ様がどうしたんだね」
叱責を続けようとするナシゴレンを手で制したラッセルハウザーの問いかけに応じて、兵士が体の向きを変えた。
「ティハヤ様はお犬様達のシャンプーを終え、実験場に向かわれました!」
「?!」
ガタッと音を立てて立ち上がったラッセルハウザーは出口に向かう。
「閣下?」
「ティハヤ様の所へいく。
ティハヤ様の護衛は?」
「近くにいた兵士たち数人が供を。ゴンザレス殿も一緒です」
室内にいた全員が足早に実験場へと向かいながら、兵士からの報告を聞く。
実験場に繋がる扉を出たところで、揉める人声が聞こえてきた。
必死に制止しようとする兵士と、珍しく怒っているティハヤが言い合っていた。
「少しお待ちください。御身の安全を保証できません。それにこの場所には誰も入れるなと命令を受けております」
「なら誰に言えば会わせてもらえるの?」
「イスファン隊長かラッセルハウザー殿下になるかと」
「何処にいけば会えるの?」
「先触れを出します。返答がくるまでどうかお部屋で」
そこでラッセルハウザー達と目があった見張りが、助けを求めるように視線を向ける。
見張りの視線を折った千早がラッセルたちを見つけて、近寄ってきた。
「忙しいところごめんなさい。中に入りたいんです」
珍しく興奮した様子の千早を見たラッセルたちが顔を見合わせていると、入り口を指差した千早が繰り返した。
「しかし危険かもしれません」
「ティハヤ様は何故お入りになりたいのですか?」
「やはり危険な目に遭わされたことを怒っているのかな?」
口々に問いかけるラッセルたちに首を振って否定した千早は、そんなことではないと拳を握りしめた。
「私への危害なんてどうでもいいの!
この世界の人たちにとって、わたしは何処までいっても異物で、役に立つべき人間で、いえ、違うね。役に立つべき部品が何かで、生き物ですらなくて、でもそれが当然で、どうなってもいいゴミみたいなものであるのは分かってる。それでもいいの。別にお嬢様たちが私をどう思おうと、どう扱おうといいの。でも……」
「ご自身を卑下する事はお止めください。ティハヤ様はこの世界で最も尊いお方です」
「はは……ありがとうございます、ナシゴレンさん。でも、それが事実だから、別にいいの。よく分かってるし、これくらいのことじゃ、もう傷つかないよ。
それよりも、ジョゼフィーヌ様にはゴンザレスさんに謝って貰いたい」
近くに立っていたゴンザレスの袖を引き寄せながら千早はラッセルハウザーとイスファンに訴える。
「しかし……」
「お願いです」
「危険が」
「どうしても」
難色を示すイスファンたちと千早のやり取りが続く中、突然エリックが短杖を構えた。
『落ち人の願いを妨げること無かれ』
中庭で聞いた声が再び響き、突然実験場の扉が壊れた。兵士たちは飛び散る木片から千早を守ろうと身を投げ出すが、何故かぽっかりと千早周辺だけを避けた。
『落ち人を害すること無かれ。
落ち人の歩みを遮ること無かれ。
落ち人の望みを妨げることなかれ』
兵士たちを咎めるように続けられた声に、居合わせた人々を含めて全員が頭を下げた。
『幼子よ、我らが愛しき娘よ。進むが良い。
危険は既に去っているが、そなたの身は我らが守ろう』
フワリと風が千早の周りを囲う。
「神気による加護か。こんなことが出来るのならば、もっと早くにやれば良いものを」
咄嗟に構えた短杖を腰から下げた袋に戻しつつエリックが呟く。それに答える声はなかったが、罪人の紋が咎めるように一度だけ輝いた。弾かれたように動かした腕を庇いつつ、エリックは舌打ちする。
「ほら、入るんだろう」
「うん……」
恐る恐る実験場に足を踏み入れていく千早と前後し、兵士たちもまた中へと入っていった。
「何事でございますか?」
中で見張りをしていた三人の兵士が、いきなり消失した扉をみつつ問いかける。
「気にするな。それよりも伯爵令嬢は目覚めたか?」
「いえ。まだです」
室内中央、ぽつんと置かれた椅子に座った形で縛り付けられたジョゼフィーヌを見ながら報告する兵士たちを、安堵の表情でイスファンは見つめた。
「ティハヤ様、あの娘はまだ目覚めておりません。どうかお戻りください。目覚めましたら必ずお声がけいたしますので」
松明と壊された扉から入る光に照らされたジョゼフィーヌを千早は静かに見据えていた。
自然光が覚醒の引き金になったのか、ジョゼフィーヌが小さく身じろぎをする。それに気がついた見張りは、慌てて近づき、抜き身の剣を突きつけた。
エリックもまた千早たちの先頭にたち、警戒も露にジョゼフィーヌを見つめる。
「う……ぅん」
唸りながら顔を起こしたジョゼフィーヌは自分の置かれている状況も分からずに、ぼんやりと辺りを見回した。
「おにいさまたち、どうしてそんなに恐い顔をしているの? おねえさまはだぁれ?」
見張り、エリック、千早へと視線を動かしたジョゼフィーヌは、酷く幼い口調で問いかけてきた。
「何を言っているのかね」
「演技にしてももう少し上手くやるべきだろう」
ラッセルハウザーとイスファンから厳しい声で話しかけられて、ジョゼフィーヌは泣き出してしまった。
「フィーが何をしたって言うの?
おじさまたちはだれ? ばぁやはどこ?
どうしてわたしが縛られているの?」
令嬢としての仕草ではなく、幼い子供の仕草で問いかけるジョゼフィーヌに意表を突かれた千早は立ち尽くしている。それでも気を取り直して、ジョゼフィーヌと視線を合わせると、ゴンザレスに謝るようにと言った。
「ごんざれす?
だぁれ?
あなた?」
「あ、ああ。いえ、さようです」
首を傾げながら無邪気に問いかけるジョゼフィーヌに、ゴンザレスは当惑気味に答える。
「フィーが何かしちゃったの? ごめんなさい」
拘束されたまま、ペコンと頭だけを器用に下げたジョゼフィーヌは、謝ったよと千早へと笑いかけた。
「えーっと、あの」
「おねえさま、これでフィーのこと怒らない?」
「ゴンザレスさん? イスファン隊長? これって」
あまりの豹変ぶりに、動揺して視線を泳がせる千早を、ナシゴレンが外へと誘導する。
「エリック、調べろ」
「分かっている」
「おにいさまはだぁれ? どうしてフィーに恐い顔するの?」
「黙れ。神気の影響か、歪みの影響か……。
とりあえず板ででも入り口を閉じてくれ」
観察し始めたエリックは、周囲の音すら聞こえない程に集中し始めたようだ。ブツブツと呟きながらジョゼフィーヌの周囲を回っている。
千早が実験場の外に出るか出ないかという境目でエリックが話しかけてきた。
「何か分かったら報告する。とりあえず帰れ。長くなりそうだ」
「あ、うん。分かった。そうする」
明らかにおかしなジョゼフィーヌの雰囲気に当てられた千早は、ダイズたちを連れて家に帰ることにした。その千早の決定を聞いて、周囲に安堵の雰囲気が満ちる。
「おねえさま、またね!
もう、おにいさま、この縄解いてよ」
ニコニコと笑うジョゼフィーヌに見送られて、一同は今度こそ外へと出ていった。