7、修道女たち
オルフェストランスの気配が完全に消え、千早がぼんやりと窓の外を見つめていると、扉のひとつが遠慮がちに叩かれた。
雲が早く流れている。お天気が変わりそうだととりとめない事を考えながら、千早は静かに扉が開くのを待っていた。
――――トン、トン、トン、トン。
先程よりも少し強くなったノックの音が室内に響く。
「……落ち人様? お目覚めでございますか?」
扉の外から、穏やかな婦人の声がする。勝手に入ってくるだろうと身構えていた千早は、慌てて返事をした。
「は……はい」
みっともなく声が震えたのは許して欲しい。この世界に来てから、オルフェストランス以外の相手に返事をすると、必ず酷い目にあった。
「入っても宜しいですか?」
「…………は、はい」
先程よりも随分とマシな声が出た。千早の声を待ちかねたように扉が開き、千早の祖母くらいの婦人が、母親程の年齢の三人の女性をひきつれて入ってきた。
「はじめてお目に掛かります。私は修道女長のマリア。そしてこの者たちがエマ、ハーパー、ナタリーです」
紹介されて頭を下げる修道女たちを怯えた瞳で見つめながら、千早は無言で頭を下げた。
「ああ、良かった。神よ、感謝いたします。
落ち人様、私どもが話している内容はお分かりですね?」
千早が反応したことで、意思の疎通が出来ると判断したマリアが確認した。それにもうなずくだけで答える千早に、マリアは穏やかに微笑んだ。
「大丈夫でございます。誰も貴女を害しません。全ては落ち人様のご希望のままに。
スープはお飲みいただけたのですね。おかわりはいかがですか? 長くお休みでしたから、お身体を洗いたいのではありませんか? お休みの間も身体は拭かせていただいておりましたが、気持ちが悪くはございませんか?」
お声を聞かせては頂けませんかと優しく乞われて、千早は小さく口を開いた。
「千早です」
「ティハナ?」
「千早。私の名前です」
落ち人と呼ばれることに違和感がある千早は、名前で呼んで欲しいと頼む。
「かしこまりました、ティハヤ様。
それでご体調はいかがでしょうか」
何度か繰り返したが、どうしても「ちはや」とは呼べない修道女たちに、千早は妥協して己の名前はティハヤだと言い聞かせた。日本での名前を呼ばれることは二度とない。そんな悲しい覚悟を決めた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
熱を計ろうと伸ばされた手を避けつつ、千早は答えた。それを警戒していると判断したマリアは悲しげに微笑んだ。
「何もご心配には及びません。今は体調を戻すことだけをお考えになってください」
「オルフェス……いえ、神様から今後のことは皆さんに聞くようにと言われました。私はどうなるのでしょう」
掛け布団を握りしめたまま、問いかける千早に、答えるべきか誤魔化すべきか修道女たちは素早く視線を交わした。
「ご体調がもう少し治られてから申し上げます」
「いえ、どうか今、教えてください。私はどうなるのでしょうか」
食い下がる千早に、修道女長はため息をついた。そして静かに語り出す。
「ティハヤ様は神の寵愛を受けておいでです。ティハヤ様の意思を妨げるなと、神託も下っております。
前回お目覚めの折り、男性に怯えられたので、身近なお世話は我々修道女が行います。ですがどうか一度、我々の法王様、そして王家の皆様にお会いになってくださいませ。謝罪を直接伝えたいと皆様、強くお望みになっております」
「謝罪は……別にいりません。何か変わる訳じゃないから」
「そのような! どうかお願いでございます。謝罪の場だけでも、設けさせてくださいませ。その場で落ち人様が受けられた仕打ちに対する、賠償と保障の話となりましょう」
悲鳴に近い声で懇願されて、千早は驚きに目を見開いた。とりあえずそのお詫びの場に行かないと、何も状況が分からないことを理解する。
「分かりました。では出来るだけ早く」
「もう少し時を空けてからのほうがよろしいのではないですか? 王家の者も、法王様をはじめとする高位の方々もみな男性でございます。お心穏やかではおられぬのではありませんか?」
男たちと大勢会わねばならないと知り、恐怖に支配されそうになった千早の頭に、無機質な声が聞こえた。
(告。神殿での面会を)
「神殿で……」
「かしこまりました。ティハヤ様のお心がそれで少しでも穏やかなものになるのであれば」
頭の中に響いた声に反応したのだが、返答だと勘違いした修道女長はそう言うと扉の外に伝言しにいった。どうしても千早と法王たちを引き合わせたかったのだろう。これ幸いと外堀が埋められていく。
(告。神殿では神の力の行使が可能。万一の時にはオルフェストランスが介入)
これが天の声かと思いながら、千早は小さく頷いた。
「あの、私の服は……」
誰か人と会うなら、せめて服を替えなくてはと思い、千早は近くにいた修道女に問いかけた。修道女の内二人は奥の扉に下がり、水音をさせている。おそらく入浴の準備をしているのだろう。
「服……? あのボロ布でございますか?
あれならば、血で汚れており、臭いも落ちなかったので処分いたしました」
「処分……」
目覚めた時から着ていた、白い綿のネグリジェを見つめて千早は呟く。この薄い布地で偉い人に会うのは大丈夫なのだろうかと怖くなったのだ。だが、四年間満足に洗うことも出来なかった、農場で目覚めた時から着ていた服でも偉い人に会うには失礼だろう。捨てられてしまった苦楽を共にしたボロ布に、思いを馳せている間に返答がきた。
「面会は明日の午前中となりました。
衣装はこちらでご準備致します。なにぶん急なことでございますので、ティハヤ様のお気持ちに添えるかは分かりませんが、数着用意致しますのでお好きなものをお選びくださいませ」
修道女長はそう話し、残る修道女たちに千早の世話を命じると、足早に去っていった。
「ティハヤ様、湯あみの準備が整いました。立てますか?」
修道女に頷き、千早はゆっくりとベッドから降りた。少しふらついたが何とか歩ける事を確認し、安堵の息を吐く。そのまま浴室まで歩く間に、呼吸が乱れてきた。
「お手伝いを」
そんな千早を確認して、修道女たちが腕を差し出す。それをやんわりと断り、浴室へと向かった。
「水はこちらに指を。お湯はこちらです。
まだご体調が戻らぬと思い、魔石にて湯が出るようにしております。お体はこちらで洗います。石鹸はご存じですか?」
差し出された花を模した石鹸を見ながら千早は頷いた。以前なら可愛らしいデザインの石鹸をみて、喜んでいただろうが何も思わない。それどころか、無駄な事をとすら思ってしまった。
浴槽は千早が膝を抱えて何とか入ることが出来る大きさだった。これでもこの世界では十分に贅沢な物なのだろう。陶器で作られた浴槽は花の絵柄で縁取られ、支えとなる猫足は金で飾られていた。
「大丈夫です。分かります」
「やはりお手伝いを。溺れられては一大事でございます」
「お背中を流すだけでも」
優しげに手伝いを申し出る修道女たちを追い出して、千早はノロノロとネグリジェを脱いだ。
確かに身体は癒えていた。欠けた部分のない身体を見下ろして苦笑を浮かべる。
「これをヒンソウ……って言うんだろうなぁ」
昔の記憶を甦らせて自分を嗤う。
頭蓋骨の形が分かるほどに痩せこけた顔。くっきりと浮いたあばら骨。鏡に写る背骨が浮き出た背中。腰は細く皮が余り、股関節が剥き出しだ。そこから伸びる足も腕と同じように骨と皮ばかり。
家にいた頃の自分ならば、ミイラなのにどうやって動いているの? と、そんな残酷な質問すらしてしまいそうな見た目。
「お風呂……入らなきゃ」
他人と会う時は綺麗に。最低限の礼儀を忘れないようにと言う母親の言いつけを思い出しながら、ゆっくりとバスタブに向かって千早は歩いていった。