65、ヒラ兵士たちの願い
膨れっ面の千早が家に帰り、数日がたった。帰宅してから頑なに視線を合わせようとしない千早を、不思議そうに見守っていた兵士たちだったが、翌日イスファンからの通達を知り納得する。
そんな千早の変化に気が付いたのか、犬たちは常に千早の周りにピッタリと寄り添い、猫たちも珍しく四匹とも家へと戻ってきていた。
代わる代わる抱っこをねだるギンやササゲたちの相手をしている千早に笑顔はない。椅子に座り膝で眠るシマアジを撫でなから、ぼんやりと外を見ていた。
扉から控え目なノックの音がする。犬たちが嬉しそうに尻尾を振り、入り口へと群がった。
その反応で誰が来たか分かった千早は、どうぞと声をかける。
「失礼します」
「こんにちは、どうしました?」
案の定と言うべきか予想通り、ミュゼの顔を見つけて微笑んだ千早は、シマアジをテーブルへと抱き上げて立ち上がる。順番待ちをしていたクロダイが抗議するように鳴いた。
「少しお話をさせていただいても宜しいですか?」
「もちろん」
どうぞと空いている椅子を指差し、お茶を入れるために席を立つ。慌てて働こうとするミュゼを制して犬たちの事を頼んだ。
「それで何かありましたか?」
わしゃわしゃと片手ずつでアズキとササゲを撫で、背中にはダイズがのし掛かったままのミュゼだったが、千早の声を聞いて椅子に座り直す。
テーブルの上では猫たちが、近隣の村人に贈られた籠に入り眠っていた。犬たちも遊びの時間は終わりだと分かったのか、千早の足元や玄関近く等思い思いの場所で伏せる。
「お偉方の気持ちは分かりませんが、ヒラ兵士を代表して参りました。隊長たちは知らないので、ナイショにして貰えると嬉しいです」
緊張を隠しきれない強張った顔のまま、ミュゼは千早を見つめる。
「ティハヤ様、お慈悲を賜ったことイスファン隊長から聞きました。みんな本当に感謝しています。ありがとうございます」
テーブルすれすれまで深々と頭を下げたミュゼはそう礼を言う。
「喜んでもらえて良かったです」
何を言われるのかと身構えていた千早は、安堵の表情を浮かべた。
「俺たち平民は、お偉方……貴族のご子息たちと違って勘当とはなりませんが、親子の縁を切られたり、妻子を世間から守るために、離縁して実家に戻したりした人達もいます。そうではなくても、王都に我々の家族が住めるような状態ではなく、よしみのない田舎や辺境に逃げ、人々の目から隠れ暮らしている者もおりました。
今回の通達を受けて、ラッセルハウザー公爵閣下が、責任を持って国民に我々の名誉回復を宣言して下さるとのことです。
本当に何とお礼を申し上げたらいいか分かりません」
そこまで話してようやく顔を上げたミュゼは千早に笑みを向けた。声こそ抑制されているが、瞳は潤み今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
「ティハヤ様に直接お礼を申し上げたいと希望する仲間たちも沢山おりましたが、ご負担も考えて私ひとりが代表として参りました」
「ありがとうございます。人がいっぱいだと、隊長たちにバレて叱られちゃいますもんね」
ふふっと吹き出すように笑った千早は、自分用のお茶に手を伸ばす。
「我々の感謝をどう伝えていいかも分かりませんが、今まで以上の忠誠をお誓いします。どんなことでもお命じください。ティハヤ様に生涯を捧げると、仲間たちも話しています」
「いや、イスファン隊長にも話したんだけど、一生なんていらないし、家に帰ってもいいし、何をしてもいいんだよ。みんなはもう罪人じゃないんだから、幸せになってね」
「ティハヤ様のお役に立つ事こそが我々の幸せです」
「嘘はダメだよ。家族と別れて、そんなマークつけて、私なんかのお世話をして、それが幸せな訳がないよ」
千早が手の甲に刻まれた罪人の紋を見つめて話す。そっと視線から隠すように、机の下へと手を下ろして、ミュゼは明るく声を上げる。
「ティハヤ様、どうか私なんかと言わないでください。私たちはティハヤ様のお世話をさせて頂いてから、本当に幸せなんです。
今までの俺……いえ、私たちの生活をご存じですか?」
「生活?」
「我々は魔物からの防衛部隊として、ずっと転戦を繰り返してきました。撤退戦も何度も経験しましたし、補給物資すら満足に届かないような最前線に張り付いていたこともあります」
「大変だったんですね」
「ティハヤ様から奪った力の影響で本当にただの自業自得ですが、我々は精鋭部隊として転属も引退も許されずに、最前線で戦わされ続けていました。磨り潰されるように死んでいった仲間たちもおります。部隊の全員が貴女様の力を盗んでいたわけではありませんので……」
「ごめんなさい」
「謝罪すべきは私です。恨み言を申しているわけではないのです。最もご苦労されたのはティハヤ様です。それは重々承知しています」
謝罪する千早を慌てて否定したミュゼは焦りながらも続ける。
「ですから、我々は今、幸せなのです。こんな平和な、血の臭いがしない、明日は誰を見送ることになるのかと、次こそは自分の番だと怯えなくてもいい日常は夢のようです。
我々は、マチュロスに償いに来ている筈なのに、罰を与えられた筈なのに、こんなに穏やかな日々を送っていいのだろうかと不安に思うことはあっても、決して不幸ではない」
話している間に興奮してきたのか、段々と声が大きくなっていくミュゼは、下げていた腕を上げて、千早の目の前に罪人の紋をかざした。
「これを消すかどうかは各自の自由と隊長から通知がありました。私たちはコレを消すことを望みません。今ではコレがあることが誇らしい。ティハヤ様のお側にいる理由ですからね。ただティハヤ様が我々のせいで悲しい思いをされていると聞くと、コレを誇らしいと一瞬でも思った自分の首を斬りたくなりますが。
だからどうか、我々のことでお心を痛めないでください。我々の幸せを取り上げないでください。
それに今の私たちはコレに守られているのです」
ミュゼは必死の形相で頭を下げる。予想外の言葉に固まった千早だったが、ゆっくりと今の会話を反芻する。
「罪人の紋に守られている?」
「コレがなくなれば、おそらくまた戦いに駆り出されます」
思い詰めた瞳でミュゼは続ける。
「それがティハヤ様の為になる戦いならば、死地であろうと、犬死にが待っていようと喜んで参りますが……」
確信を込めて語られる内容に、千早は悲しげに眉を寄せる。
「ラッセルさんに頼んだら、何とかならないかな?」
「あの方は……いえ」
「話して」
「分かりました。ティハヤ様のお心のままに。
あの方は貴族です。それも国を背負う立場の高位貴族であり、今では王族の一員です。
神との約定であるこの紋がある間は、私たちの所有権はティハヤ様に優先されると思います。ですが一度でも手放してしまえば、いくらティハヤ様がお願いをして下さっていても、国の危機ともなれば出撃を強要されるでしょう。所詮私たちは物の数にもならない罪人上がりの平民ですから」
無表情だが握り込まれ震える拳だけが、ミュゼの荒ぶる感情を示していた。静かに伏せていた犬たちが心配そうに頭を上げて、千早とミュゼを交互に見上げている。
「ですがそれは当然のことです。戦う力のある者の負う義務でもある。例え紋を持ったままでも、遅かれ早かれいつかは来る日です。それは分かっております。覚悟しなくてはならないことです。
ですがどうか、しばらくの間だけでも、我々に幸せを味わわせてくださいませんか?
ティハヤ様にお仕えすることを、どうかお許しください」
いつか戦況が厳しくなれば、イスファンかラッセルハウザーか女王本人から出撃を命令されるだろう。せめてその日まで、名誉の回復を許し、愛する者と再び暮らせる状況を整えてくれた千早に仕えたい。その許しが欲しいと平民の兵士たちを代表し頭を下げる。
「そういうことなら仕方ないのかな。でもいつか皆が安心して暮らせるようになったら、外させてね」
「いつの日かそんな日が来たら」
「うん。いつかその日が来るまで。
これからもよろしくお願いします」
ミュゼの話す内容に嘘はないと思った千早は、チラリと罪人の紋に残念そうに視線を送った。