64、誇り
千早はラッセルと見つめ合っている。視線を合わせているはずなのに、どこかぼんやりとした表情を浮かべる千早を辛抱強くラッセルは見守っていた。
「ティハヤ様?」
しばらくしてパチパチと瞬きを繰り返す千早を驚かせないように小さな声で呼び掛ける。
「……はい」
まだ誰かの……きっと神との会話を続けているのであろう千早は返事をしつつも、意識は上の空だった。
「………………そうなんだ。なら好きにしていいの?」
声をかける判断が早かったことに気が付いたラッセルたちがまた待ちの体勢に入り、沈黙を続ける中、千早の確認するような呟きが漏れる。
「えっと、お待たせしました」
全員から注目されていたことに驚いた千早は、身を引きながらも頭を下げる。
「こちらこそごめんね。無理を頼んでしまったかな?」
「大丈夫です。ただ、天の声から途中で神様に代わったから……」
千早の視線がアイズに向く。
「…………オルフェストランス神からは、どっちでもいいって」
「どちらでもですか?」
「私に力を還しても、私に力を還さなくても、どちらでもいいって」
「そんなバカな! かの神からリソース不足について理解させられた。世界の一端も知った。現在、落ち人を新たに落とすことは出来ない。
ならば、お前の力を戻すしかないだろう」
実験の考証に忙しいエリックだったが、千早の発言に驚いて鋭く尖った声を出す。怒られたと思った千早が顔を伏せて謝った。
「ティハヤ様が謝罪されることではありません。エリック、発言に注意しろ」
「だが」
まだ何か言いたげなエリックを制止したイスファンが千早に頭を下げた。
「オルフェストランス様はどちらでも良いと仰せだったのですね」
意識して殊更優しい声で確認するイスファンと不機嫌に黙り混むエリックを交互に見ながら千早は頷いた。
「王都の件で世界は均衡まではいかないけれど、ずいぶん改善したって。だから、どっちでもいいって言ってた。いっそ、私が望むなら……、存在が私の負担になるなら罪人の紋も解除するって」
「本当かい?」
予想外の神託に、絶句するイスファンたち罪人の中で、最も早く回復したラッセルが確認する。
「本当」
「では何故まだ魔物が出るんだ。世界に必要なリソースが満たされたならば、魔物はいなくなるはずだろう。この世界に力は満ちていない! 嘘をつくな」
「嘘じゃないよ。
でも世界は新しい局面に入ったんだって。だから今までと同様の方法で全てを救うことは出来なくなったって言ってた」
エリックに問い詰められても、キョトンとした顔のまま千早は続ける。
「世界は神の掌から放たれた。これからは人は己の才覚によって生きなければならないって。
リソースが世界に満たないのもそれが理由だって言ってたかな」
更に問い詰めようとしたエリックを制止し、ラッセルが千早に質問をぶつける。
「うーんとね、人の心が世界の有り様を左右しているらしいの。本来薄く均等に広がるはずのリソースに、人の不安とか恐れとか欲望とかが作用して、偏りが出来ているって言ってた」
「偏りが出ると、どうなるのですか?」
「力が偏れば歪みが生じ、歪みが生ずれば破綻が起きる……だった、ような?
良い破綻もあれば、悪い破綻もあって、人の中に人に過ぎる力を持つ人達が生まれてきているのも、その影響だって言ってたよ。あと魔物も」
「勇者と聖女……」
アイズが漏らした呟きを聞きながら、ラッセルたちは鋭く視線を交わす。
「既に神の声を直接聞くことの出来る人も少なくなってるって。だから今までみたいにオルフェストランス様も世界に影響を及ぼせないって謝られたよ。
みんなも力を得て新たな可能性に目覚めたけど、全体を見れば少し早まっただけになったから、兵士さんたちをもう責めはしないって」
良かったねと笑顔で祝福をした千早の瞳には一片の曇りもなかった。
「ですが我々は、他ならぬ貴女様の力を盗み」
「世界に分配されるリソースを盗んだのは確かに事実だけれど、例え盗まなくても人々の心に左右されるのならば、上手く分配されるとは限らなかったって言ってた。
あ、でも、私とみんなの循環回路は閉じるって。戻すのに必要になるかもしれないから、今までそのままにしていたけれど、もうその必要もなくなっただろうって伝えてって言われたよ?」
エリックを見てそう告げる千早を、周囲の大人たちは呆然と見ている。
「では俺は何のために」
グッと拳を握りしめ激情を抑えようとするエリックから、イスファンへと体の向きを変えた千早は満面の笑みを浮かべる。
「良かったですね、本当に良かった。これで皆さんは自由の身です。世界が何を言おうとも、過去何に巻き込まれたにしても、みんなは許された。これで家に帰れますよね?」
視線の先にはアイズを支えるエリーがいた。
「哀しむ人が出ると、私も悲しい。
皆さんには本当にお世話になったから、幸せになってほしい」
にっこり笑ってこれで一緒に住めますねと話す千早に、エリーたち夫婦は深々と頭を下げた。
「…………では、あの者たちのように離れて暮らす家族を、この地に呼び寄せることをお許しくださるのでしょうか」
「呼んでもいいし、呼ばなくてもいい。家に帰ってもいい……あ、お仕事か。ならその辺りはお任せします」
慎重に確認するナシゴレンに千早が答える。
「多くの者が喜びましょう。妻子と絶縁した者たちもおりますが、神が御許しになり、ティハヤ様の許可を頂けたと知れば、今一度関係を築けるかもしれません」
「全国への知らせは私に任せて貰っていいかな? 彼らの名誉が回復したと、責任を持って広めよう。
イスファン、君達の罪が許されたとしても任務は変わらない。ティハヤ様を守れ」
「無論です。今まで以上の忠誠を」
その言葉と同時に兵士たちが一斉に姿勢を正す。
「…………ティハヤ様、ここは空気が悪い。お腹もお空きでしょう。どうぞお部屋にお戻りになり、休憩されてください。
アイズ、お前は怪我の手当てを。ナシゴレン、砦の部下たちにティハヤ様のお慈悲を伝えろ。
ラッセル殿は」
「少し打ち合わせをしたい」
「そうして頂けると助かります」
大人たちが動き出すと、邪魔してはいけないと思った千早は、イスファンの勧めのままに実験場を出ようとした。見送る為に後ろを歩くイスファンが話しかける。
「ティハヤ様、罪人の紋ですが、希望者のみ解除して頂ければ幸いです」
「希望者だけ? なんで?」
足を止めて振り向いた千早に、イスファンがこの世界の謝罪の姿勢で頭を下げる。
「例え世界に許されても、神からの赦しを得ても、我々が行ったことが無になることはありません。中には許しを願わない者もおります。どうかお聞き入れください」
「嫌。私はみんなに幸せになって貰いたい」
「個人の幸せなど望んではおりません」
「それじゃあ、私はみんなの不幸の上に立って幸せになれって言われてるの?
イスファン隊長や、ナシゴレンさんたちは、この世界で私に優しくしてくれた数少ない人達だよ。その人達の幸せを願ってはダメ?」
笑顔が曇り、悲しげな表情を浮かべた千早は下を向いた。
「私は既に一生分の幸せを経験しました。この上の私の生は全てティハヤ様の幸せと穏やかな生活の為に捧げようと誓いました。それでは駄目ですか?」
「……駄目。イヤ」
「ティハヤ様?」
「どうして分かってくれないの?
私はみんなに幸せになってほしい。皆が不幸なら、私だって笑っていられない。
少しくらいの我が儘なら、許してくれないの?
幸せになれって、みんな言うけど、いつも窺うような視線で見られて、私のせいで相手が不幸になって、それでも『幸せになれ』って『幸せですか』って、私を馬鹿にするのもいい加減にして!」
初めて明確な怒声を浴びて、イスファンは驚きに目を見開いている。固まったのはイスファンだけでなく、周囲の兵士たちも同様だった。
「私は、わたしはッ、誰かの不幸を見て笑えるような人間にはなりたくない。
全員を幸せには出来なくてもッ。
世界を救えなかった出来損ないの、弱くて醜い落ち人でも、それでも良くしてくれる人達に、恩くらいは返したいのに!」
最後は叫ぶようにそう言うと、堪えきれなくなった大粒の涙を流したまま、実験場を飛び出していった。
外で見張りをしていた兵士たちが驚きに声を上げていたが、それすらも振り切って走り去ったらしい足音が聞こえなくなった頃、ようやく実験場の硬直が解けた。
「ティハヤ様!」
イスファンの目配せを受けたナシゴレンが、千早の後を追って飛び出していく。アイズもまた、エリーに付き添われ治療のために外へと出ていった。
「どういう気ですか?」
人払いを済ませた実験場には、ラッセルハウザーとイスファンだけが残った。
「何のことかな?」
人を食ったような笑みを浮かべたままのラッセルに、イスファンが詰め寄る。
「わざとですね?」
「だから何がだい? 君達の軍人は歯に衣着せぬ物言いが得意のはずだ。ちゃんと話してくれたまえ」
そのラッセルの言葉を聞いた途端に、イスファンから殺気が漏れる。軍人の殺気を受けても、片眉だけを器用に上げたラッセルは飄々としたものだった。
「……そうでした。貴方は風雅を愛する変わり者として生きられていましたが、どんな修羅場であろうとも、その雰囲気を崩さない剛の者でもありました。
では率直にお伺いします。
何故ティハヤ様に神へと問いかけさせたのですか。我々の身の安全を憂慮されたとは思い辛い。何か他に目的がおありですか?」
「おやおや、そこからか。イスファンなら分かると思っていたのだが、私の目も曇ったかな?」
「殿下!」
「こら、イスファン、殿下は止めてくれ。確かに王配ではあるが、それ以前に私は公爵であるつもりだ」
「ラッセルハウザー閣下、それは不敬に当たります!」
「承知の上だ。だがね、ここまで長く独り身で、ただ一人領地を背負い、跡継ぎを探し、もう少しで養子を取ろうとしていた矢先にこんなことになったんだ。
無論後悔はしていない、リアを妻とし、女王を支える一ノ臣下であることに誇りも持っている」
「では殿下で良いではないですか」
「殿下と呼ばれることを許容してしまえば、今回の無礼は王家の……リアトリエルの咎となる。それは認められないよ。
今ならば、私が死ねば済むことだ」
「閣下!」
「そう怒るな。流石は貴族きっての利かん坊、最近のお前は行儀が良すぎだったぞ」
ひとしきり笑ったラッセルハウザーは、姿勢を正し表情を改める。
「お前はきっと、ティハヤ様に選択をさせて負担をしいることになるのではと、そこを怒ったのだろう。だがね、それではいけないよ。彼女は守られるだけの少女ではない。餌を与えられることを待つ雛鳥でもない。
ただ一人、この世界で生きていこうと、生きなくてはいけないと覚悟を決めた娘さんだ」
「だから神へと問いかけさせたのですか?」
「ああ、神がリソースとティハヤ様のどちらを重要視しているのか知る必要もあったからね。選択を誤る訳にはいかない。
そのお陰でティハヤ様の本心に触れられた」
「本心?」
「ティハヤ様はお前たちを嫌ってはいないし、恨んでもいないようだ。本当に善良で……お人好しと言われても否定できないほどに良い子だよ」
「たったそれだけのことを知るために」
「たったでもないし、それだけでもない。
これは己の命を懸けても惜しくない問いかけだ。不興を買うことになったならば、陛下に迷惑をかけないうちに、責任を取るつもりだった。けれど違った。
この世界最後の落ち人になるかもしれないティハヤ様は、優しく善良。他者の痛みを知り、涙を流すこともできるお方だ」
「それが何だと」
「ティハヤ様を幸せにしたいなら、ティハヤ様が好意や関心を寄せる相手も、それなりには幸せでいてもらわなくてはならないってことさ」
ニヤニヤと笑んだラッセルは、また忙しくなりそうだと歩き出す。
「閣下は、ティハヤ様をお幸せにすることを諦めてはいないのですか」
「無論だよ。
あんないい子、不幸なままでいられては、寝覚めが悪い。
例え神がもう不要だと言おうが、本人が気にしなかろうが、私は気にする。私の誇りが、この世界の公爵として、王配としてのプライドが、このままの状況を受け入れるなど断じて許せることではない」
手伝えとイスファンに笑ったラッセルハウザーは、力強く出口へと向かった。