61、幸せの定義
農民たちであれば既に眠りにつく頃、吊り橋砦の一室で向かい合う男たちがいた。一人は千早との面会を終えたラッセルハウザー。もう一人が呼び出されたグレンヴィル。軽食が置かれたテーブルを挟み、向かい合う二人の間には義兄弟としての温かさはなかった。
「お久しぶりだね、グレンヴィル殿下」
「ご無沙汰いたしております、義兄上」
「今日、ティハヤ様にご挨拶をしてきた」
ラッセルハウザーは挨拶もそこそこに本題に入る。
「お元気にして居られましたか?」
「ああ、とても歓迎していただいた。生国の話も聞かせていただけたよ」
「生まれた国……異世界のことでございますか? それは、あちらを思い出させて、ティハヤ様をなお辛い気持ちにさせてしまうのでは?」
疑問を口にするグレンヴィルに呆れを隠そうともせずにラッセルハウザーは首を振った。
「ティハヤ様の国の名はニホン。武器も持たずに外出でき、スイッチひとりで明かりがつき、飲み水にも困らず、食べ物が店からなくなることもない。国に流通する通貨も定まり、国家運営は民から選ばれた代表たちが集まり行う」
「義兄上、何を……」
「六歳から十五歳までの全ての国民は一定の教育を受け、それにより読む書く話す計算の他に、歴史文学芸術工作等の能力を身につける。
多くの国民はそこから更に三年の高等教育を経て、専門分野を選択し二年から六年超の教育を受ける」
「お待ち下さい。何をおっしゃっているのですか」
「待たないよ。
グレンヴィル殿下、君も先の王もティハヤ様を学もない小娘と思っていたようだけれど、それは間違いだ。今、私が話したことは全てティハヤ様からうかがったことだ。己が住む国について、これだけのことを知っている人間の何処が学がないと言うのだね?」
「我々は別にティハヤ様を学がない等とは思っておりません」
「ならば何だと思っていたのだ? 幼く与し易い娘。少し優しくすればすぐになつき幸せになり、世界を救うことができる。そう君たちは考えたから、ティハヤ様に何も聞かなかった。何もしなかった。ただ君達の価値観を押し付けた。
王都でのティハヤ様の扱いについては、私だって知っている。君たちがやったことに言い訳は不要だ」
断罪するように言い切ったラッセルハウザーは、言葉を失い呆然と腰かけるグレンヴィルに問いかける。
「グレンヴィル殿下、貴方の思う幸せとは何だったのですか?」
「私の幸せ……。私の。
民が飢えることなく暮らせ、人々が笑顔を浮かべていられること」
ラッセルハウザーは震える声で呟くグレンヴィルを鼻で笑った。睨まれても「失礼」とだけ呟き、どこ吹く風で受け流す。
「綺麗事は言わなくていい。
ここには君と私だけだ。
君は万人の幸せのために今まで生きてきたというのかね?」
「私は王子だ。民の幸せこそ王族の務め」
「へぇ。なら戦場に君が出たのは民の為だと? 落ち人様をお呼びし君の命を助け、砦の兵士たちを巻き込んだのも、民の為だと?」
容赦なく切り込んでくるラッセルハウザーに、グレンヴィルは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「義兄上がそのように率直な物言いをされる方とは存じませんでした」
「もう隠すこともないからね。リアトリエル……君の姉を守るために、私は王家から危険視される訳にはいかなかった。子を残す能力もなく、武に長けてもいない、人畜無害な出不精である必要があった。だがもうそれもおしまいだよ」
「では今までの貴方は全て嘘だったのですか?」
「そんなつもりはないよ。私は昔からは私でしかない。与えられた場所で己の守りたいものの為に、必死に努力するだけの凡人さ。
私のことはいい。それよりも君のことだよ、殿下」
「随分と固執されますね」
「当然さ。今までもこれからも、君は罪人としてティハヤ様のお側に侍る。ならば君は自覚すべきだ」
「自覚ならばしております。民への謝罪も済ませております」
「どうかな? 私に問いかけられて、全ては民の為と答えたのは君だ。私はまだ君が自覚しているとは思えないんだよ」
「…………あの当時は王位継承権争いで国が揺れていました。あのままでは有力貴族が互いに敵対し、下手をすれば国が割れる結果になっていたかもしれません。
だから私は早期に決着をつけるために、魔物の大量発生にあい陥落寸前の砦へと手勢を率いて参戦したのです」
太股の上に置かれた両手を握りしめ、グレンヴィルはラッセルハウザーを射抜くように見つめる。
「国が割れれば民が苦しむ。
砦が落ちれば民の安全が脅かされる。
重税を課され、搾取され、利用されて捨てられるのはいつだって最も弱い立場にいるものたちです。だから私は一刻も早く国を安定させるために、戦場へと出ました」
「そう、百歩譲ってそれが真実だとしても、問題はその後だ」
「分かっている! 分かっております! 私は落ち人様をっ!」
突然激情に駈られたグレンヴィルに、ラッセルハウザーは冷徹な視線を浴びせる。
「申し訳ありません。例え民の為だとしても、私は許されざることをいたしました。それは紛れもない事実で、己の責任に帰するところです。その罪を逃れるつもりはありません。一生をかけて償っていくつもりです」
「…………そうか。ならば一応それでよしとしようか。今は君を育て直している暇はない」
グレンヴィルを追い詰め、本音の一端を引き出したと判断したラッセルハウザーは質問の矛先を変えることにした。
「王弟殿下、君は二言目には民の幸せこそと言うけれど、その民にとって幸せとは何だと思っているんだい?」
「そんなものは当然、餓えず渇かず、住むところがあり、重税に苦しまず、貴族の横暴に振り回されることもない生でしょう」
「そう、君にとってはそれが民の幸せなんだね。だがね、私にとってはそれは、民が受け取るべき当然の権利であり、我々支配者が守るべき最低限の義務に過ぎないよ」
「では義兄上は何が民にとっての幸せだとお考えですか」
難しいねと腕を組んだラッセルハウザーは、沈黙の時間をグレンヴィルに与えるために一度瞳を閉じた。
「義兄上?」
「民という記号で人々を見ている間は、決して誰かを幸せにすることは出来ないよ。君達の間違いはきっとそこから始まっている。
確かに為政者としては、どこかで数として見なければいけないのだろうけれどね。
ある人は沢山の財を持つことが幸せだと思うだろう。
またある者は人々から尊敬と称賛を浴びることこそ幸せだと思うだろう。
食べたことのない珍味を一品でも口にすることが生き甲斐だというものもあれば、家族の健康と成長が全てだというものもいる」
「個々の希望を全て叶えることなど不可能です。それは王族の務めではない」
瞳を開けたラッセルハウザーは苦笑を浮かべている。
「そうやってすぐに何でも切り捨てるから、君は成長しないのだ。もう少し広い視野で周りを見なさい。心にほんの少しでもいい、自分以外の何かを受け入れるだけの余裕を持ちなさい。
命が脅かされず、生活の保証もされていた君ならば、その余裕があるはずだ」
絶望的なほどに若く愚かな義弟を諭すようにラッセルハウザーは続けた。
「だからこそ異世界人という記号で、貴族以外の少女としての記号でしかティハヤ様を見なかったからこそ、王都が滅びるほどのすれ違いが生まれたのかもしれないね。
ティハヤ様の世界はおそらく成熟した世界だ。
争わずとも生きられ、蹴落とさずとも飢えることはない。故に所有することに快感を感じず、人々が平伏しても優越を持たない。
我々の世界にだって稀にいるだろう? 何が楽しくて生きているのか分からないと思われる程に欲望のない人間が。違うかい?」
「ティハヤ様がそれだと?」
「正しくは欲望を抱けない……かな? 今日初めてあってまだ分からないことも多い現状では、あまり断定するようなことは言いたくないが、おそらく違いすぎるんだよ」
「違いすぎる」
「そう、違いすぎる。歴史も、文化も、生活も、何もかも違いすぎる。その上でこの世界に適応するための力も奪われて、悪意に晒された。
そもそもの違いの上に、それだけの悪条件が重なってなお、ティハヤ様はこの世界で生きなくてはならない。こんな状況で歴史上最も幸せになどと、どんな夢を見たら口にできるのか。
私には憐れむ資格すらないが、彼女が可哀想だとしか思えない。この上はせめて穏やかな生をと望むだけだ」
「ではティハヤ様を幸せにするのは不可能だと?」
「諦めるつもりはない。何より我々の為に幸せになっていただくのではない。ティハヤ様が幸せだと感じて欲しい。私はそれを願っている。
この考え方は大きな違いだ。忘れてくれるなよ」
「王都が滅んだことで、例え落ち人が幸せにならずとも、世界が滅びることはないと法王たちは話しています。それでもなお、ティハヤ様を幸せにする必要があると、ラッセルハウザー殿は本気でお思いになっておいでなのですか?」
神に対しても、王に対しても不敬とも取れる発言に、目を細めて怒りも露にしたラッセルハウザーに怯えたグレンヴィルは椅子の背に身を押さえつけた。
「何を言っているんだ」
「違います! 私は、我々罪人がティハヤ様の為に生きることは当然だと思っております。
ですがこの国を、民を、世界を背負う王とその王配が、かの人の為にそこまで心を砕く必要があるのですか?」
「私は王配としての義務から話しているのではないよ。この世界に生かされている者として責任を感じ、かつ幸運なことに多少の影響力を及ぼせるからね。だからこそ、彼女へお節介を焼きたくなるんだ」
「義兄上……」
「さてと、前置きが長くなってしまったが、法王が棄てていった民たちの現状を聞こうか。場合によっては援助を手配するよ」
ようやく本来の話し合いに入ったラッセルハウザーたちはその日の夜半まで仕事に励んだ。ようやくマチュロスの民が千早へと迷惑をかけない程度まで内容を詰め、すっかり冷めてしまったお茶に口をつける。
「もう深夜だ。酒のほうが良ければ準備させるが」
「ご遠慮いたします」
「ふーん。君達罪人全員が、嗜好品の一切を断ったと言う噂は本当なのだね」
頑なに手をつけようとしない軽食や茶を流し見ながらラッセルハウザーは続ける。
「当然でございます」
「あれ? でもイスファンはティハヤ様に出されたお茶を飲んでいたけど」
「ティハヤ様からの下賜品ならば問題はありません」
「へぇ。そこまでの忠誠心ならば、エリックの実験台になることなど何でもないことか」
「エリックの?」
「ああ、聞いてないのか。ようやくエリックがリソースの返還術式を編み出したようだ。近日中に実験をと、イスファンに申し入れてきたらしい」
グレンヴィルは長く話し合いを続けたせいで襲った眠気も去った。椅子から身を乗り出し、ラッセルハウザーに詰め寄り確認する。
「ああ、本当だよ。今日の夕方イスファンから聞いた。実験への志願員も決まって、今はエリックの準備まちだそうだ」
「ようやく……、ようやくですか。これでようやく一歩前進できます」
感無量という雰囲気で知らせを喜ぶグレンヴィルとは対照的に、ラッセルハウザーの顔色は晴れないままであった。