60、王配の来訪
麦の穂が生え始め水田の稲も日々大きくなってきたある日、普段は砦に詰めているイスファンが友人を連れて訪ねてきた。事前に来訪を知らされていた千早が出迎る。
「こんにちは。はじめまして」
ニコリと笑んだ男は千早に挨拶しつつ馬から降りた。初対面の人間からは仰々しい反応かまたは蔑まれてきた千早は面喰らいながらも、挨拶を返す。
「私はラッセルハウザー。ラッセルおじさんとでも呼んでくれると嬉しいな。落ち人様のことは、ティハヤ様とお呼びして良いだろうか?」
フレンドリーに話しかける中年男に驚いて、イスファンを見上げると困った顔でラッセルを見つめていた。
「申し訳ございません。この方はラッセルハウザー公爵。リアトリエル女王の夫であり、私の二年上の先輩です」
「あ、はい。聞いています。あの、私のことを心配してくれてわざわざ東から訪ねてきて下さったって」
「ご機嫌伺いが遅くなって申し訳ありません。ただ法王様がこちらにいらしていると聞きましてね。中々どうして、尊い方とのお話は骨が折れます」
ラッセルは笑い声を響かせながら、冗談めかしの口調で頭を掻いた。嫌味のないその対応に千早もまたつられたように微笑む。
「家には猫がいますが、気になさらないなら是非お茶でも。イスファン隊長も是非」
「ダイズたちは?」
「ミュゼさんに頼んでお外で遊んでます」
「おや、それは残念。ティハヤ様のお家には可愛らしい同居者がいると聞いて、東から玩具を幾つか持参しました。妻は猫派。私は犬派でして。ご迷惑でなければ良いのですが」
そう話しながらラッセルは馬に乗せていた荷物を下ろし、千早へと差し出す。
鳥の羽をカラフルに染めて作った猫じゃらしや、鈴が入れられたボール、手袋と一体になった人形が入れられていた。贈り物の一つ一つには可愛らしいリボンが巻かれ、メッセージカードが添えられている。
「今回の旅路にどうしても同行できなかった妻からの心尽くしです。どうぞお受け取りください」
ニコニコと笑いながら千早の反応を待っているラッセルに、笑顔でお礼を言った千早は、家へと二人を招き入れた。
目敏く贈り物を見つけてねだりにきたクロに、毛糸玉に飾りを付けたおもちゃを渡す。気に入った様で前足であちこちに飛ばして遊び始めたクロを見守っている間に、ジンがお茶を運んできた。
それを合図にイスファンが会話を始める。
「ティハヤ様、本日はお時間を頂きありがとうございます。こちらにおりますのは先ほども申し上げた通り、女王の王配であるラッセルハウザー公爵でございます」
「こら、イスファン。ティハヤ様が困っておいでだ。そんなに畏まって話したら緊張されてしまうだろう。
ティハヤ様、私のことは親戚のおじさんか、近所のお節介じいさんかなにかだと思って欲しい」
「え、いえ、あの、偉い人……ですよね」
千早が確認すると、ラッセルは「君のせいでティハヤ様が身構えてしまっただろう」とイスファンにクレームを入れている。
「う~ん、そうだね、あまり偉くはないよ。
この部屋ではちょうど真ん中かな?」
「真ん中?」
「そうそう。ティハヤ様、私、イスファンの順。だからそんなに警戒しないで。
確かに年も随分上の私のようなおっさんが、いきなり訪ねてきたら緊張するよね。ごめんね」
「いえ、それは、まあ、緊張はしてますけど」
今までの現地人たちとは全く違う反応に驚きを隠せない千早に、ラッセルは苦笑を浮かべている。
「ああ、もちろんティハヤ様が敬われたいならばいくらでも膝をつくし、頭も下げるよ? その方がいいかな?」
「いえ、それは」
「ならこのままでもいい?」
「はい。是非」
「良かった。対応を間違えたかなと不安だったんだ。ティハヤ様はこの世界に来る前は、普通の女の子だったと聞いたんだ。だからリアが小さい頃と同じように対応したんだけれど、不審者だと思われないか不安だったんだよ。
リアと言うのは、私の奥さんのことでね。二十歳近くも年下……というかリアのお母さんと幼馴染みだったから、娘みたいなものなんだけど、色々あって今は女王陛下兼私の奥さんなんだ」
「…………凄いですね」
コメントに困った千早は何とかそれの言葉だけを絞り出した。
「そのリアよりも年下の君みたいな少女が、この世界に来て酷い目にあって、街ですらないマチュロスに住んでるって聞いて、私たちも心配していたんだ。何か困っていることはない?」
小首を傾げて問いかけるラッセルに、千早は首と両手を同時に振って否定した。
「食べるものにも困らないし、住むところもあります。イスファン隊長たちも良くしてくれているし、何の不安もありません」
「本当かい? ここに望まない移民が来たんだろう。何か迷惑はかけてないかな?」
「引っ越してきた人たちも凄く気をつかってくれていて、殆ど会わないし、グレンヴィル王弟殿下が間に入ってくれているので」
「なら良かった。心配していたんだ。
ティハヤ様がこの世界に来る前、どんな世界でどういう風に暮らしていたかとか、そんな情報が全くなかったから、私も女王も思いもかけないところで負担をかけていないか心配してたんだ」
安心したと微笑んだラッセルは、置かれていたお茶を一口飲んだ。見たこともない緑色のお茶……、日本茶を躊躇いもなく口にして、変わった薫りだけれど美味しいねと呟く。
「ティハヤ様、お願いがあるんだ」
「お願いですか?」
途端に不安そうになる千早に、深く頷いたラッセルは身を乗り出して続ける。
「ティハヤ様の世界のことを教えて欲しいんだ。駄目かな?」
「私の世界? 地球のこと?」
「そうか、ティハヤ様の世界はチキューと言うんだね。ではティハヤ様はチキューという国に住んでいたんだ」
「違います。地球は私たちの星の名前。住んでいた国は日本です。極東の島国」
「チキュー、ニホン」
「私の世界には沢山の国があって、民族がいて、宗教があって。平和なところもあれば、そうじゃないところもあったの」
「ティハヤ様のニホンはどんなところだったのですか?」
「私の国は……比較的豊かで平和だったと思う。小学校中学校は全員必ず行かなきゃいけない。だからみんな文字も読めたし書けた。計算も掛け算割り算は出来たし、理科とか社会とかも勉強できたし」
突然語られた千早の国の普通に驚きながらも一言も聞き漏らすまいとラッセルは相づちを打つ。
「高い教育を受けていらっしゃったのですね」
「高くはないよ。私は小学校の卒業式にこっちに落ちたから、まだ途中だったし…………」
絶妙なタイミングで入れられるラッセルの合いの手の効果もあり、千早は楽しげに日本での日々を語った。
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日暮れ近くになりラッセルとイスファンの二人は、ティハヤの家を辞した。そのまま馬首を並べて砦へと戻る二人は何処か呆然としているようだ。
「まさかここまでとは」
「まったくです」
「歴史上最良の幸せ……か。この世界でそれが本当に望めるのか?」
「ラッセル閣下はその可能性を探るためにマチュロスまでいらしたのでは?」
「ああ、だが、まさかここまで世界が違うとは思わなかった。これでは先王たちが行ったことは全て裏目に出ていただろう。
常々愚かだとは思っていたが、ここまで愚かだとは」
表情を引き締め、空の一点を見つめる。その方向には滅んだ王都がある。ラッセルは昔から先王に批判的だった。王権がリアトリエルへと代替わりし、何の遠慮もなくなった今、清々したとでも言うようにその言葉にはトゲがあった。
「愚かな王の失策だが、それをどうにかするのは生者の仕事だ。少しでもお幸せになって頂けるように知恵を絞ろう」
「申し訳ございません」
「構わないよ。さて、砦には義弟が待っているのだったか。少し大変な話し合いになりそうだ」
千早の前での雰囲気を一変させ、冷徹に瞳を輝かせる。その姿に国を背負う覚悟を見たイスファンは、ただ無言で頭を下げた。